原爆投下による壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:27 UTC 版)
「千田町 (広島市)」の記事における「原爆投下による壊滅」の解説
1945年8月6日の原爆投下に際しては、千田町地区はおおむね爆心地から1.5 - 2.5km前後に位置しており、北半部は全焼もしくは全壊、南半部はやや被害は小さかったもののほとんど半壊地域であり、建物疎開や公共機関での勤労奉仕のため動員された学徒も含め多くの人的・物的被害を受けた。地区内では最大の医療施設である赤十字病院も大きな被害を受けたが早い時期から殺到する被爆者の治療に当たった。なお当日正午前、市中心部方面から被害の小さい宇品へと避難するため御幸橋西詰に集まってきた人々を中国新聞カメラマン(松重美人)が撮影しており、当日の市街地の状況を知るほとんど唯一の写真となった。またRC造のため焼け残った数少ない建物の一つである広島貯金支局局舎の地下室には多くの負傷者が避難し、当日夜の出産の光景を描いた栗原貞子の詩「生ましめんかな」の舞台となった。1977年には千田町一丁目地区の原爆慰霊碑として「ふりかえりの塔」が建立されている。
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