原爆対局の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:08 UTC 版)
翌日から橋本本因坊、岩本七段ともに広島市に入り、関係者の消息を尋ねており、元々1日空けて第三局を打つ予定であったが、これ以上広島での対局が困難であること、瀬越八段の中学生の三男の死期が近かったことから、対局は中止とし、橋本本因坊と三輪五段は関西へ、岩本七段は郷里の島根へと帰った。東京の日本棋院では両対局者とも死亡したと思われていたが、2週間ほどして三輪五段が到着して経緯を報告した。 第三局は4ヶ月後の1945年11月11日から13日に、第四局は11月15日から17日に千葉県野田市で打たれ、1勝1敗であった。第五局は11月19日から21日に、第六局は11月22日から24日に東京の目黒で打たれた。二週間で三日制の碁を4局打つというのは、現代では考えられない強行日程である。結果は1勝1敗であった。本因坊の座は規定で日本棋院預りとなり、改めて翌年8月に高野山にて三番勝負が実施され、岩本薫七段が2連勝して第3期本因坊の座についた(高野山の決戦)。なお、被爆死した関係者の慰霊のため、決定三番勝負第一局の二手のみ7月26日に五日市町の西隣の廿日市町(現廿日市市)の蓮教寺で打たれている。 立会人瀬越は1972年に83歳で、橋本宇太郎は1994年に87歳で、岩本薫は1999年に97歳で、いずれも長寿を保って死去している。 なお、岩本薫の基金で1995年に建てられたシアトルの日本棋院囲碁センターの壁には、原爆対局の棋譜がタイル張りで飾られている。
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