原爆供養塔での奉仕活動とは? わかりやすく解説

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原爆供養塔での奉仕活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 23:55 UTC 版)

佐伯敏子 (反核運動家)」の記事における「原爆供養塔での奉仕活動」の解説

広島平和記念公園内で被爆による無縁仏葬るための原爆供養塔1955年完成して間もない頃、同公園内原爆死没者慰霊碑へは多く拝礼者が訪れ一方、この原爆供養塔にはほとんど拝礼者がおらず、雑草伸び放題な荒れ放題であった。このことから佐伯供養塔日参と、塔周辺落ち葉拾い草むしりわずかに訪れた人々生けたの手入れなどの清掃活動始めた。 母の残り遺体や、まだ発見されていない親族遺体がこの供養塔眠っているかもしれない考えたためでもあり、前述のように、かつての原爆投下直後助け求め多く負傷者に何もできなかったことへの後悔死没者たちへの謝罪死没者たちの言葉があるならそれを聞き取りたいとの思い、「犠牲者声なき声伝えることが、あの日を知るものの務め」と考えたことなども動機であった供養塔での清掃活動時の服装は、常に黒い喪服着用した毎月6日被爆による死没者たちの月命日として、僧を呼んで供養塔の前で供養することを慣わしとし、8月5日夜に供養塔のそばでろうそくを灯して通夜勤めた。すでに息子たち宛て遺書完成しており、広島市内に訪れる場所もない佐伯は、長くないであろう自分余生を、供養塔に眠る死没者たちの謝罪費やそう決心していた。 前述のようにすでに病気侵された体でありながら佐伯自宅発ちバスで約1時間かけての日参を、ほぼ毎日続けた誰か依頼されたわけでもない奉仕であったが、ほとんど毎日日々供養塔清掃費やしている佐伯を、市に雇われ給料得ていると思っている者も多かったという。 1969年昭和44年)、中国放送原爆供養塔遺骨遺族捜しのラジオ番組放送されており、その中で読み上げられ死没者の名前に夫の両親の名前があったことから、遺骨供養塔眠っていたことが判明した。これにより、佐伯らは無事、義父母遺骨引き取ることができた。この義父母遺骨引き取り機に供養塔のためにずっと家族蔑ろにしてきた佐伯は、供養塔での奉仕をやめて家庭に戻ることを考えた。しかし三男から「自分の家族が見つかったからやめるのはおかしい」「この大切なことを誰か誉められなくても続けてきたのだから、やめてはいけない」と強く勧められその後供養塔での奉仕続けた

※この「原爆供養塔での奉仕活動」の解説は、「佐伯敏子 (反核運動家)」の解説の一部です。
「原爆供養塔での奉仕活動」を含む「佐伯敏子 (反核運動家)」の記事については、「佐伯敏子 (反核運動家)」の概要を参照ください。

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