原爆投下からの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)
被爆後の千田町変電所 現在も現役の千田町変電所 しかし、宮島線は被爆翌日の7日には草津町(現草津)から電車宮島(現広電宮島口)で運行再開。翌8日には全線で運行再開した。 市内線も、広電社員と軍(東京電信隊など40名)の協力により、電柱をトラックとロープを使い立て直し、暁部隊が所有していたマスト300本も活用、さらに電線を引き直すなど行い、廿日市変電所から送電を行うことで、8月9日には己斐から西天満町(現在の天満町)までの間で折り返し運転を再開した。復旧は単線で行われた。男性乗務員が多数兵役に出ていたため、広島電鉄家政女学校の女子学生が終戦まで運転士としての業務を行った。その時使われた車両は、2両または3両であった。運行再開時に運賃が払えない乗客には無理に請求を行わず、運行再開は途方にくれる市民を大いに勇気付けたとされている。終戦直前の14日には小網町まで復旧した。 8月9日に使用された車両は、一番電車に車掌として乗車した女学生の証言では400形とされ、中国新聞が8月9日の運行再開時に撮影した写真で413号が写っている、『電車を走らせた女学生たち』の女学生の記録では600形。『広電が走る街今昔』や『鉄道ピクトリアル2011年8月増刊号』では500形501号・503号となっている。 戦後も復旧は進み、吉田営業所に避難させていた整流器と300kWの電動発電機1機を使い8月18日には千田町変電所を復旧させた。復旧当初は己斐を起点に復旧が行われ、8月19日には土橋まで、21日に十日市町まで、23日に左官町(現・本川町)まで、9月7日には八丁堀まで復旧した。広電本社からも復旧が行われ、8月18日には電鉄前(現・広電本社前)から宇品(現・広島港)まで復旧。9月12日には紙屋町まで復旧し宇品線は全線復旧した。1945年(昭和20年)12月には本線が全線復旧。続いて1947年(昭和22年)11月に江波線が、1948年(昭和23年)7月には皆実線と宇品線が、12月26日には横川線十日市‐横川橋(現・別院前)がそれぞれ復旧した。1950年(昭和25年)7月には宮島線が複線に戻った。1952年(昭和27年)3月には、道路の付け替えで復旧が遅れていた白島線が復旧した。 千田町変電所は1945年8月18日から電気の供給を再開したが、爆心地に非常に近かった櫓下変電所は壊滅的な被害を受けたため、代わりに1947年11月に本川町電停前に中央変電所が開設された。 車両についても、1948年(昭和23年)より残存していた100形の内4両を450形に、500形全車を700形(初代)に改造が始まる。終戦後、復旧される事無く1951年(昭和26年)3月に300形は廃車になった。 当時、被爆した車両の一部は被爆電車として現在も保存を兼ねて運行されている。
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