太田川水系の新ダム計画
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一方原爆投下による壊滅的被害より奇跡的な復興を遂げた広島市では、マツダの自動車工場を始め工場が進出、また人口も飛躍的に向上して上水道需要が急激に増加した。これに対し太田川水系では上水道供給を目的としたダムなどの大規模水道施設の整備が遅れていた。このため建設省は中国地方最大の河川・江の川と太田川水系を連結した形での開発を企図。江の川本流に土師ダムを1975年(昭和50年)に完成させて中国電力可部発電所を経由した形で江の川の河水を太田川に導水。同年完成した太田川本流の高瀬堰より取水する形で広島市などの水需要に対応しようとした。しかしその後も広島市の人口は増加し遂には100万人を超えるに至った。また離島である芸予諸島の水不足も慢性化しており、新たな水資源開発に取り組む必要性が生じた。 1972年7月豪雨による甚大な被害を機に建設省は太田川水系の治水計画を再検討することになり、1975年4月に太田川水系工事実施基本計画の改定が行われた。この中で従来の河川改修に加え洪水調節目的を有する多目的ダムの建設が計画され、検討の結果太田川本流と、昭和47年7月豪雨で特に降水量が多かった滝山川にダムを建設することが定められた。治水基準点である広島市安佐北区玖村の計画高水流量を毎秒12,000立方メートルとし、この内太田川上流の計画ダム群で毎秒4,500立方メートルを調節。残りの毎秒7,500立方メートルを堤防整備や河道改修などで調節するとした。また増え続ける広島市などの水需要にも対処することがダムの目的に盛り込まれた。 こうして計画されたのが温井ダムである。温井ダムは1967年(昭和42年)4月よりダム地点の地質などを調査する予備調査が実施されていたが、豪雨災害を機に1974年(昭和49年)4月より滝山川総合開発事業として実施計画調査が開始され、太田川水系工事実施基本計画改訂後の1977年(昭和52年)7月には基本計画が官報で告示された。なお、工事実施基本計画で浮上した太田川本流のダムは山県郡戸河内町吉和郷地点が検討され、吉和郷ダム計画となったがこちらについては計画が進むことはなかった。
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