原爆投下作戦
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「チャールズ・スウィーニー」の記事における「原爆投下作戦」の解説
その後1944年9月11日にティベッツ中佐に従い、ユタ州のウェンドーヴァー・フィールドに移動した。スウィニーは、転属後すぐに、新たな部隊の任務が原子爆弾の投下作戦であることを知らされた。 「アインシュタインの相対性理論について読んだことがあるかね?」マクラナハンは率直に、抑揚もない調子で尋ねた。 (中略) 彼は話しながら決して私から視線をそらさなかった。そして言った。「一つの爆弾が一つの都市全体をこんな風に破壊してしまうのだ」彼は握っていた土を宙に放った。土が風に舞って去るのを私は眺めていた。 人生には、決して記憶から拭い去ることができない瞬間というものがある。この時がまさにそれだった。決して忘れないだろうと自分でもわかった。詳細を一つ残らず。一機の飛行機。一個の爆弾。一つの都市。 私は物理学的なことはよく理解できなかった(のちに、ほとんど誰も本当には理解していないということを知った)が、その意味するところははっきりと理解した。 — 著書『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』103-104頁より引用 この「シルバー・プレート」とコードネームを付けられた原子爆弾投下作戦については少数の士官以外には内容は伝えられていなかったが、スウィーニーは爆弾投下のための機体の操縦方法についての訓練を担当するようにティベッツ中佐から選ばれたために、初期の頃から原子爆弾を使用することが伝えられていたのである。スウィーニーは原子爆弾を模した模擬弾(「パンプキン」というコードネームが付けられていた)を用いて、B-29への搭載手段、投下手順の策定などを行っている。1945年1月6日には第320輸送機戦隊の指揮官に任命された(しかし任務は輸送ではなく、もちろん爆弾投下のための訓練であった)。 スウィーニーは1945年5月4日に第393爆撃隊の指揮官になり、6月23日にマリアナ諸島のテニアンへ赴任する。 何回かの訓練飛行(マリアナ諸島のロタ島や、トラック諸島、マーカス島(南鳥島)への爆撃訓練)を経て、7月20日に初の実戦任務飛行に出撃した。その後7月24日、7月29日にも兵庫県神戸市他への爆撃に参加している。 8月6日の広島市への原子爆弾投下作戦には科学観測を担当するB-29「グレート・アーティスト」の機長として参加した。テニアンへ帰還した後、スウィーニーはティベッツ中佐から2回目の原爆投下の指揮を執るようにとの命令を受けた。 8月9日にB-29「ボックスカー」の機長として原子爆弾ファットマンを搭載して出撃。出撃直前に燃料ポンプに故障が発生し、予定分の燃料が使用できない状況となったが作戦の延期を回避するために出撃を強行したという。屋久島上空での写真撮影機B-29「ビッグ・スティンク」との会合に失敗した後、第一目標であった小倉市(現:北九州市)へ向かったが、前日の八幡市(現:北九州市)への爆撃で生じた火災の煙がたれ込め目視での爆撃が困難であった。更に高射砲や戦闘機での迎撃があったために、長崎市への目標変更を決断した。 既に予定より少なくなっていた残り燃料から、二回以上の爆撃航程を行うだけの時間は無いと考え、同乗していた原子爆弾についての責任者であるフレデリック・アッシュワース(Frederick L. Ashworth)海軍中佐に対しレーダーによる爆撃を進言、爆撃航程に入った。しかし結果としては爆撃手カーミット・ビーハン大尉が目視で長崎市街地を確認し、爆弾が投下された。 投下された原子爆弾「ファットマン」はTNT火薬22ktと同じ威力を持ち、長崎市の約60%が破壊され、およそ70,000人が犠牲になった。 スウィーニーは残燃料が少ないため、沖縄へ着陸することとし、残り僅か26ℓというぎりぎりの燃料で着陸した。テニアンに帰還後、8月14日にはB-29「ストレート・フラッシュ」に搭乗し、愛知県挙母市(ころも市・現在の豊田市)のトヨタ自動車工場への爆撃に出撃した。翌日、8月15日に日本は無条件降伏した。
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