原爆投下前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:56 UTC 版)
舞台は1945年の広島市。戦況の悪化で市民生活が窮乏する中でも、ゲンの一家は家庭菜園の手入れに勤しみ、麦の実りを期待しつつたくましく暮らしていた。だがゲンの父で下駄の絵付け職人である大吉は隣組の竹槍訓練を「こんな事でアメリカに勝てるはずもない」と冷笑するなど、時節柄はばかられる反戦思想を隠そうともしない。そのため中岡家の家族は、町内会長の鮫島や近所から「非国民」扱いされ、納品する下駄を川に投げ込まれたり、麦畑を荒らされるなど様々な嫌がらせを受けた。ゲンの長兄の浩二(こうじ)は周囲の冷たい視線をはね返すため海軍の予科練に志願し、ゲンの次兄の昭(あきら)は、広島市郊外の山間部に疎開に行っていた。昭和20年8月初頭、広島の家に残っていたのは大吉、ゲンの母・君江(きみえ)、ゲンの姉・英子、ゲンの弟・進次、そしてゲンの5人。英子は昭より年上だったが、体が弱かったため疎開できなかった。 昭和20年8月6日朝。小学校の門の前にいたゲンは突然の閃光と爆風で気を失う。偶然にも門の影にいたことで無傷だったが、気が付いてみると町は一面に押しつぶされ、人々は全身の皮が焼け剥がれた姿で呻いている。状況が解らぬまま自宅へもどってみると、自宅も同様に押しつぶされて大吉・英子・進次が木材の下敷きになっている。偶然にも無傷だった君江と再会したゲンは協力して家族を助け出そうとするも果たせず、大吉はゲンに強く生きることを願いつつ、英子や進次とともに火災に巻き込まれ焼け死んでいく。半狂乱となったところを朝鮮人の朴に諭されて避難した君江は、ショックで女児を出産。名前は、友達がたくさんできることを願って「友子(ともこ)」と名づけられた。焼け跡で食料を探すゲンは熱中症で倒れたところを死体と間違われ、救護に訪れた兵隊によって火葬の炎に投げ込まれる。悲鳴を上げたゲンを火中から救い出した兵隊は、誤りを詫びてゲンを救護所へ連れて行こうとするが、途中で血便を垂れ、頭髪が急に抜けるなどの症状の末に急死してしまう。兵士は入市被爆で原爆症を発症していたのだ。やがてゲンの髪も抜け始め、彼は自分も「ピカの毒」で死ぬのではないかと恐怖する。髪の毛が全て抜け落ち坊主頭になったゲンは、道端で拾った消防団の帽子で頭を隠し、友子のための米を調達すべく奔走した。 ゲン達は江波(えば)在住で君江の友人のキヨの家に身を寄せ新たな生活を始める。しかしそこでは、キヨの姑や子供達からの迫害に甘んじる。そんな折、ゲンは死んだ弟の進次に瓜二つの少年と出会う。その少年、近藤隆太(こんどう りゅうた)は原爆で両親を失い、原爆孤児の仲間と共に、農家から食糧を盗み飢えをしのいでいた。隆太と初めて会ったゲンは、進次が生きていたのではないかと錯覚する。2回目に会った時、隆太は食糧を盗もうとしていたところを百姓に追い回されていた。ゲンは隆太を助け、君江が隆太を育てることになった。それ以降、隆太はゲンや君江を自分の兄や母のように慕い続ける。 ゲンは江波で仕事を探していたところ、地元の資産家・吉田英造に声をかけられる。連れて行かれた家では、全身大やけどの青年が血を吐き血便を垂らし、大量のウジにたかられていた。その青年・吉田政二(よしだ せいじ)は英造の弟で画家志望生だったが、勤労奉仕に出た広島市内で被爆したのである。英造の妻と娘たちは「ピカドンの毒がうつる」という噂を信じて隔離し、ろくに看病もしない。そこでゲンが政二の世話をまかされることになる。両腕は焼けただれて絵も描けず、家族に見捨てられた政二は自暴自棄に陥っていたが、ゲンや隆太の叱咤や励ましに心を開き再起、口で筆をくわえて絵を描くようになる。 政二はゲンに絵画を教える約束をするが、ほどなく原爆症の悪化で死に至る。だが、通夜の後に急に蘇生し、棺桶からはいずり出て「おかゆが食べたい」と兄家族に迫る。しかし、政二の兄家族は恐れおののいて箒で突き飛ばすなど、生前同様に邪険に扱うのだった。夢で虫の知らせを察知したゲンは政二の家に駆けつけたが、正にその時、政二は死んでいた。 被爆した政二を受け入れられず、都合良く世間体ばかり取り繕う家族にゲンの怒りは頂点に達する。政二の火葬は「政二さんは何度も死ぬのが好きじゃのう」と言いながら、ゲンと隆太は明るく天国へ見送った。
※この「原爆投下前後」の解説は、「はだしのゲン」の解説の一部です。
「原爆投下前後」を含む「はだしのゲン」の記事については、「はだしのゲン」の概要を参照ください。
- 原爆投下前後のページへのリンク