製作・上映の経緯とは? わかりやすく解説

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製作・上映の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 22:32 UTC 版)

ひろしま」の記事における「製作・上映の経緯」の解説

1952年昭和27年8月日本教職員組合中央委員会が製作を決定。「いかにしてあの日正確に再現するか」が主眼とされた。全国組合員がひとり50円カンパし2400万円用立てた八木保太郎シナリオ広島県教職員組合内で討議し、4回書直された。この過程で、映画の題名を「ひろしま」とすることが決定されたが、原作の手記「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」を編纂した長田新広島大学教授から不同意意思伝えられた。 1953年昭和28年4月17日関川秀雄監督伊藤武郎プロデューサーらが広島市内をロケハンのために訪れ5月21日には、広島湾に浮かぶ似島にある同市の似島学園現地ロケスタートした映画の撮影は、被爆者広島市民との交流の中で撮影が行われた。1953年昭和28年5月26日山田五十鈴広島市中区鉄砲町被爆体験を描く画家福井芳郎を訪ね体験耳を傾けた6月5日には河原崎しづ江加藤嘉出演者4人が広島赤十字・原爆病院入院患者見舞った6月15日広島市立翠町中学校工作室原爆投下前後シーン撮影開始7月16日7月17日山田俳優スタッフ参加して原爆孤児救済募金のため「芸能の夕」が、基町児童文化会館開催された。 1953年昭和28年8月10日広島市内の映画館ラッキー劇場」で試写会開催された。上映後には、「原爆の子〜広島の少年少女のうったえの手記を書いた子どもたち集まりである「原爆の子友の会会員関川秀雄監督長田新広島大名誉教授らの座談会開かれた同年9月、製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」として登場人物の「ドイツではなく日本原爆落とされたのは、日本人有色人種だからだ」という趣旨台詞がある場面など3つのシーンカット要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島長崎県自主配給」の方針決定したまた、東宝大映など大手五社配給拒否因みに松竹カット要求したのは、制作前年までプレスコード敷いていたGHQ配慮したためとみられている。9月15日には、東京大学職員組合日本文化会議東京都内東京大学構内の上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区兼坂ビル変更)で初め映画上映し、この日から東大開催されていた国際理論物理学会議出席した海外からの科学者8人らが観賞10月7日、製作元と北星映画共同での配給により、広島県内映画館封切り一方大阪府教育委員会試写会開いて教育映画としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった

※この「製作・上映の経緯」の解説は、「ひろしま」の解説の一部です。
「製作・上映の経緯」を含む「ひろしま」の記事については、「ひろしま」の概要を参照ください。

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