製作・上映の経緯
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1952年(昭和27年)8月、日本教職員組合中央委員会が製作を決定。「いかにしてあの日を正確に再現するか」が主眼とされた。全国の組合員がひとり50円カンパし、2400万円を用立てた。八木保太郎のシナリオは広島県教職員組合内で討議し、4回書き直された。この過程で、映画の題名を「ひろしま」とすることが決定されたが、原作の手記「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」を編纂した長田新広島大学教授から不同意の意思が伝えられた。 1953年(昭和28年)4月17日、関川秀雄監督、伊藤武郎プロデューサーらが広島市内をロケハンのために訪れ、5月21日には、広島湾に浮かぶ似島にある同市の似島学園で現地ロケがスタートした。 映画の撮影は、被爆者・広島市民との交流の中で撮影が行われた。1953年(昭和28年)5月26日、山田五十鈴は広島市中区鉄砲町に被爆体験を描く画家・福井芳郎を訪ね、体験に耳を傾けた。6月5日には河原崎しづ江、加藤嘉ら出演者4人が広島赤十字・原爆病院に入院患者を見舞った。6月15日、広島市立翠町中学校の工作室で原爆投下前後のシーンの撮影を開始。7月16日と7月17日、山田ら俳優、スタッフも参加して、原爆孤児救済募金のため「芸能の夕」が、基町の児童文化会館で開催された。 1953年(昭和28年)8月10日、広島市内の映画館「ラッキー劇場」で試写会が開催された。上映後には、「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」の手記を書いた子どもたちの集まりである「原爆の子友の会」会員、関川秀雄監督、長田新広島大名誉教授らの座談会が開かれた。同年9月、製作側が全国配給元として交渉していた松竹は、「反米色が強い」として登場人物の「ドイツではなく日本に原爆が落とされたのは、日本人が有色人種だからだ」という趣旨の台詞がある場面など3つのシーンのカットを要求していたが、両者が譲らず、9月11日、製作側は「広島、長崎県は自主配給」の方針を決定した。また、東宝や大映など大手五社も配給を拒否。因みに松竹がカットを要求したのは、制作前年までプレスコードを敷いていたGHQに配慮したためとみられている。9月15日には、東京大学職員組合と日本文化人会議が東京都内(東京大学構内での上映の予定だったが大学当局がこれを禁止したため、港区の兼坂ビルに変更)で初めて映画を上映し、この日から東大で開催されていた国際理論物理学会議に出席した海外からの科学者8人らが観賞。10月7日、製作元と北星映画の共同での配給により、広島県内の映画館で封切り。一方、大阪府教育委員会が試写会を開いて「教育映画」としての推薦を見送る等、学校上映にも厳しい壁が立ちはだかった。
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