南海ダイエー時代とは? わかりやすく解説

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南海・ダイエー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 04:00 UTC 版)

山本和範」の記事における「南海・ダイエー時代」の解説

引退して福岡への帰郷決意していたが、同僚同期入団)だった久保康生引き留められ大阪残り久保から紹介されバッティングセンターキンキクレスコ池田バッティングセンター)でアルバイトしながら練習していた時期に、当時南海ホークス監督穴吹義雄から誘われて1983年南海入団背番号59近鉄二軍時代南海二軍監督穴吹ウエスタン・リーグ対戦する山本実力高く評価していて、他球団選手にもかかわらずアドバイス与えていた。そして自身南海二軍監督から一軍監督への異動と、山本近鉄戦力外通告重なり山本南海への入団つながった山本一義打撃コーチ指導頭角現し背番号29変更した1984年右翼手レギュラー獲得練習のし過ぎで過労倒れて入院するほどの努力実り後述の右耳の難聴乗り越え7月14日ロッテ戦川崎球場)では投手時代自慢強肩正確な送球1950年2リーグ制以降では、日本記録タイとなる1試合3補殺記録し1985年5月23日古巣近鉄バファローズ戦では、恩人久保康生対戦した際、恩に報いる先制2ラン放ちその後打席満塁ソロ3本塁打計7打点マークしチーム勝利貢献した山本は、初め130試合フル出場果たした1986年にはオールスターゲーム監督推薦出場しゴールデングラブ賞受賞その後南海ホークス福岡ダイエーホークス門田博光佐々木誠と共に主力選手として活躍類い稀な勝負強さ発揮した南海ダイエー身売りし、フランチャイズ大阪市大阪スタヂアム)から福岡市平和台野球場)へ移転した際、読売テレビ取材で「私自身大阪球場が最高の球場だと思っておりましたもので、非常に残念です」とコメントしたまた、後に近鉄復帰したにもかかわらず「最高の野球ファンはホークスファン」と公言していた。1989年以降は、数少ない地元福岡県出身選手ということもありチーム随一人気選手であった1994年シーズン途中5月中旬長年その顔つきからドラキュラ略したドラ」と呼ばれていた自らのニックネームについて学校で子どもがいじめられる」という理由球団登録名変更申請、約2か月後の7月25日試合から登録名カズ山本変更し出場、『バントをしない2番打者』として打率イチローに次ぐリーグ2位、かつ自己ベスト打率.317の成績残し同年末の契更改年俸が2億の大台達する。 1995年開幕早々左翼手としてプレー中に右肩を亜脱臼し戦線離脱ホークス移籍後最低となる年間僅か46試合出場で、成績打率.201、本塁打0に終わる。38歳という年齢や2億円を超えていた年俸原因事実上戦力外通告を受け、自由契約となる。

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南海・ダイエー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:59 UTC 版)

吉田豊彦」の記事における「南海・ダイエー時代」の解説

1988年速球チェンジアップ武器に、ルーキーながら一軍定着し、主にリリーフとして登板し防御率4点台と安定感欠いたものの43試合登板しチーム貢献した1989年2年目)は先発ローテーション入りし、初の2となる10勝を記録した1990年田淵幸一監督就任したが、この年は5勝10敗・防御率5.01成績落とした1991年も4勝6敗・防御率4・17成績落とした1992年2度目の2勝利11勝)で、初のオールスターゲーム出場した。3完封前年の初完封相手でもある日ハムから全て挙げている。 1993年からは根本陸夫監督下福岡ドーム元年となった同年は7勝14敗・防御率4.62の成績終わってしまった。 1994年開幕投手務め4月には4勝3完投1完封月間MVP受賞2度目オールスターゲーム出場果たした同年8月5日時点ハーラートップ11勝(5敗)を挙げチームは1位西武ゲーム差1の2位となり自身最多勝タイトル可能性があったものの、ここから吉田は1勝6敗と大きく負け越しチーム吉田不調カバーするのがやっとの5割前後の勝率しかできず4位に終わる。自身自己最多12勝を挙げた11敗と貯金がわずか1に終わった。またシーズン終了後同期入団3歳下の吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー賞受賞した1995年は新監督王貞治就任した同年は8勝8敗の成績残した1996年不振に陥り、18試合登板で1勝3敗・防御率5.41でシーズン終えた5月9日の「生卵事件」が起きた日の試合先発投手だった。 1997年先発での登板は3試合登板終わり中継ぎ投げることが多かった最終的に27試合登板したものの防御率6.14と安定感欠いたオフにはFA権行使示唆するも、王監督らの慰留があり、行使せずに残留した1998年入団以来背番号11エースナンバー18変更し心機一転を図るが、開幕から一軍での登板はなくシーズン途中金銭トレード阪神タイガース移籍したこの期間の吉田様子追った番組にんげんドキュメント"二軍"」(NHK制作)が放送され話題となった番組では、吉田雁ノ巣球場若手選手と共に汗を流す様子や、当時二軍監督だった石毛宏典二軍選手達を集めて吉田トレード決定したことを伝え、「野球選手である以上トレードある意味宿命である」と訓示述べシーン登場した

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南海・ダイエー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:13 UTC 版)

森脇浩司」の記事における「南海・ダイエー時代」の解説

当時南海小川史中尾明生湯上谷宏坂口千仙など似たタイプ選手レギュラー争いをしていた。5月から主に遊撃手として起用され同年65試合先発出場した。 「福岡ダイエーホークスとなった1989年には、二塁手三塁手兼ねユーティリティープレイヤーとして活躍し自己最多70試合先発した以降守備固め要員として起用され1990年頃から藤本博史湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。 1993年は、藤本一塁手回りその後継として開幕から三塁手として起用されるがレギュラー確保はならず1994年松永浩美移籍入団以降出場機会減り1996年限り現役引退した

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南海・ダイエー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 14:38 UTC 版)

柳田聖人」の記事における「南海・ダイエー時代」の解説

1987年ドラフト3位南海入団1989年内野手転向1990年1A・サリナス・スパーズに野球留学し、オールスターにも出場終盤帰国し三塁手としてスタメン初出場している。その後湯上谷宏馬場敏史森脇浩司柳田と同じ小技長けたタイプ内野手陰に隠れ、また藤本博史若井基安打力に勝る選手を脅かすには至らなかった。 ウエスタン・リーグでは1992年盗塁王1993年には首位打者打率.346)を獲得している。同年オフ高野光との交換トレードヤクルト移籍

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南海・ダイエー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 00:31 UTC 版)

加藤伸一」の記事における「南海・ダイエー時代」の解説

シュート武器として1年目1984年シーズンから活躍し中継ぎ抑えでの登板多かったが、5勝4敗4セーブ防御率2.76の成績残したセーブ数は高卒新人歴代最多同年代である藤本修二畠山準と共に「トリオ・ザ・10代」と呼ばれ2年目1985年シーズンからは先発として投げ阪急との開幕第2戦でプロ完投勝利オールスターゲームまでに防御率3.25で8勝をあげ、監督推薦オールスター初出場した。後半は右ひじに違和感覚えた後は登板間隔空けたりリリーフ回ったりするなど最終的にシーズントータルで9勝11敗1セーブ防御率4.09であった3年目1986年シーズンも右ひじ痛の影響で3勝10敗2セーブ防御率4.68と精彩欠き、翌4年目1987年シーズン防御率3点台と良化したものの、14試合で4勝5敗に終わった南海最終年1988年防御率4.54と再び安定感欠いたが、8勝10敗3セーブ成績残した1989年には、球団名が「福岡ダイエーホークス」となる。3月博多駅井筒屋壁面成長株同僚である佐々木誠同い年同期入団)と「福岡の、新しい顔です」というコピーとともに、新球団真新しいユニフォームに身をつつんだ全身写真垂幕飾られた。移転1年目同年は、開幕3戦目の日本ハム戦でダイエー球団としての勝利をあげるなど、自身初の2勝利となる12勝を挙げた1990年シーズンは、田淵幸一監督から開幕投手指名されていたが、キャンプ右肩関節周囲炎で離脱すると、そのままプロ入り初め一軍登板なしに終わった1991年2年ぶりに一軍登板し4月21日日本ハム戦で550日ぶりに勝利投手となる。14試合で2勝7敗・防御率6.03に終わったが、登板間隔前半戦は月2回ペースだったのが8月以降は週1回登板するまでに回復した1992年シーズンキャンプで再び右肩悪化したため、7月右肩の手術を受けた同年シーズン1993年シーズン2年間は右肩リハビリのため一軍登板なしに終わった1994年シーズンリハビリから復帰しオープン戦結果残してローテーション入りした。5度目先発登板となった5月18日近鉄戦で998日ぶりに勝利投手となる。7月5日ロッテ戦で1721日ぶりの完投勝利をあげるなど、17試合で3勝5敗・防御率4.82の成績残し完全復活への足掛かりつかんだかに見えた1995年シーズン故障出遅れ二軍登板可能になった頃には一軍Bクラス低迷し若手中心起用に切り替わっていたため一軍登板できず、同年シーズンオフ戦力外通告受けた

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