南海・ダイエー時代
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引退して福岡への帰郷を決意していたが、同僚(同期入団)だった久保康生に引き留められ大阪に残り、久保から紹介されたバッティングセンター(キンキクレスコ・池田バッティングセンター)でアルバイトをしながら練習していた時期に、当時南海ホークス監督の穴吹義雄から誘われて1983年、南海に入団。背番号は59。近鉄二軍時代、南海二軍監督の穴吹はウエスタン・リーグで対戦する山本の実力を高く評価していて、他球団の選手にもかかわらずアドバイスを与えていた。そして自身の南海二軍監督から一軍監督への異動と、山本の近鉄戦力外通告が重なり、山本の南海への入団につながった。山本一義打撃コーチの指導で頭角を現し、背番号29に変更した1984年に右翼手のレギュラーを獲得。練習のし過ぎで過労で倒れて入院するほどの努力が実り、後述の右耳の難聴を乗り越え、7月14日のロッテ戦(川崎球場)では投手時代の自慢の強肩と正確な送球で1950年の2リーグ制以降では、日本記録タイとなる1試合3補殺を記録し、1985年5月23日古巣近鉄バファローズ戦では、恩人・久保康生と対戦した際、恩に報いる先制2ランを放ち、その後の打席で満塁、ソロの3本塁打計7打点をマークし、チームの勝利に貢献した山本は、初めて130試合フル出場を果たした。1986年にはオールスターゲームに監督推薦で出場し、ゴールデングラブ賞を受賞。 その後、南海ホークス・福岡ダイエーホークスで門田博光、佐々木誠らと共に主力選手として活躍、類い稀な勝負強さを発揮した。南海がダイエーに身売りし、フランチャイズが大阪市(大阪スタヂアム)から福岡市(平和台野球場)へ移転した際、読売テレビの取材で「私自身大阪球場が最高の球場だと思っておりましたもので、非常に残念です」とコメントした。また、後に近鉄に復帰したにもかかわらず「最高の野球ファンはホークスファン」と公言していた。1989年以降は、数少ない地元福岡県出身の選手ということもありチーム随一の人気選手であった。1994年シーズン途中の5月中旬、長年その顔つきからドラキュラを略した「ドラ」と呼ばれていた自らのニックネームについて「学校で子どもがいじめられる」という理由で球団に登録名の変更を申請、約2か月後の7月25日の試合から登録名をカズ山本に変更し出場、『バントをしない2番打者』として打率でイチローに次ぐリーグ2位、かつ自己ベストの打率.317の成績を残し、同年末の契約更改で年俸が2億の大台に達する。 1995年、開幕早々左翼手としてプレー中に右肩を亜脱臼し、戦線離脱。ホークス移籍後最低となる年間僅か46試合の出場で、成績も打率.201、本塁打0に終わる。38歳という年齢や2億円を超えていた年俸が原因で事実上の戦力外通告を受け、自由契約となる。
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南海・ダイエー時代
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1988年は速球とチェンジアップを武器に、ルーキーながら一軍に定着し、主にリリーフとして登板し、防御率4点台と安定感を欠いたものの43試合に登板し、チームに貢献した。 1989年(2年目)は先発ローテーション入りし、初の2桁となる10勝を記録した。 1990年は田淵幸一が監督に就任したが、この年は5勝10敗・防御率5.01と成績を落とした。 1991年も4勝6敗・防御率4・17と成績を落とした。 1992年は2度目の2桁勝利(11勝)で、初のオールスターゲームに出場した。3完封は前年の初完封の相手でもある日本ハムから全て挙げている。 1993年からは根本陸夫監督の下福岡ドーム元年となったが同年は7勝14敗・防御率4.62の成績で終わってしまった。 1994年は開幕投手を務め、4月には4勝3完投1完封で月間MVP受賞、2度目のオールスターゲーム出場を果たした。同年は8月5日時点でハーラートップの11勝(5敗)を挙げチームは1位西武とゲーム差1の2位となり自身も最多勝のタイトルの可能性があったものの、ここから吉田は1勝6敗と大きく負け越しチームも吉田の不調をカバーするのがやっとの5割前後の勝率しかできず4位に終わる。自身は自己最多12勝を挙げたが11敗と貯金がわずか1に終わった。またシーズン終了後、同期入団で3歳下の吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー賞を受賞した。 1995年は新監督に王貞治が就任した。同年は8勝8敗の成績を残した。 1996年は不振に陥り、18試合の登板で1勝3敗・防御率5.41でシーズンを終えた。5月9日の「生卵事件」が起きた日の試合は先発投手だった。 1997年は先発での登板は3試合の登板に終わり、中継ぎで投げることが多かった。最終的に27試合に登板したものの防御率6.14と安定感を欠いた。オフにはFA権の行使を示唆するも、王監督らの慰留があり、行使せずに残留した。 1998年は入団以来の背番号11をエースナンバー18に変更し心機一転を図るが、開幕から一軍での登板はなくシーズン途中に金銭トレードで阪神タイガースに移籍した。この期間の吉田の様子を追った番組「にんげんドキュメント"二軍"」(NHK制作)が放送され話題となった。番組では、吉田が雁ノ巣球場で若手選手と共に汗を流す様子や、当時の二軍監督だった石毛宏典が二軍選手達を集めて吉田のトレードが決定したことを伝え、「野球選手である以上トレードはある意味で宿命である」と訓示を述べるシーンが登場した。
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南海・ダイエー時代
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当時の南海は小川史、中尾明生、湯上谷宏、坂口千仙など似たタイプの選手がレギュラー争いをしていた。5月から主に遊撃手として起用され、同年は65試合に先発出場した。 「福岡ダイエーホークス」となった1989年には、二塁手、三塁手を兼ねるユーティリティープレイヤーとして活躍し、自己最多の70試合に先発した。 以降は守備固め要員として起用され、1990年頃から藤本博史・湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。 1993年は、藤本が一塁手に回り、その後継として開幕から三塁手として起用されるがレギュラー確保とはならず、1994年の松永浩美の移籍入団以降は出場機会が減り、1996年限りで現役を引退した。
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南海・ダイエー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 14:38 UTC 版)
1987年ドラフト3位で南海に入団。 1989年、内野手に転向。 1990年は1A・サリナス・スパーズに野球留学し、オールスターにも出場。終盤に帰国し、三塁手としてスタメンで初出場している。その後は湯上谷宏、馬場敏史、森脇浩司ら柳田と同じ小技に長けたタイプの内野手の陰に隠れ、また藤本博史、若井基安ら打力に勝る選手を脅かすには至らなかった。 ウエスタン・リーグでは1992年に盗塁王、1993年には首位打者(打率.346)を獲得している。同年オフ、高野光との交換トレードでヤクルトへ移籍。
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南海・ダイエー時代
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シュートを武器として1年目の1984年シーズンから活躍し、中継ぎや抑えでの登板が多かったが、5勝4敗4セーブ・防御率2.76の成績を残した。セーブ数は高卒新人歴代最多。 同年代である藤本修二、畠山準と共に「トリオ・ザ・10代」と呼ばれ、2年目の1985年シーズンからは先発として投げ、阪急との開幕第2戦でプロ初完投勝利。オールスターゲームまでに防御率3.25で8勝をあげ、監督推薦でオールスターに初出場した。後半は右ひじに違和感を覚えた後は登板間隔を空けたりリリーフに回ったりするなど最終的にシーズントータルで9勝11敗1セーブ・防御率4.09であった。 3年目の1986年シーズンも右ひじ痛の影響で3勝10敗2セーブ・防御率4.68と精彩を欠き、翌4年目の1987年シーズンは防御率3点台と良化したものの、14試合で4勝5敗に終わった。南海最終年の1988年は防御率4.54と再び安定感を欠いたが、8勝10敗3セーブの成績を残した。 1989年には、球団名が「福岡ダイエーホークス」となる。3月に博多駅の井筒屋の壁面に成長株の同僚である佐々木誠(同い年同期入団)と「福岡の、新しい顔です」というコピーとともに、新球団の真新しいユニフォームに身をつつんだ全身写真の垂幕が飾られた。移転1年目の同年は、開幕3戦目の日本ハム戦でダイエー球団としての初勝利をあげるなど、自身初の2桁勝利となる12勝を挙げた。 1990年シーズンは、田淵幸一新監督から開幕投手に指名されていたが、キャンプを右肩関節周囲炎で離脱すると、そのままプロ入り後初めて一軍登板なしに終わった。 1991年は2年ぶりに一軍登板し、4月21日の日本ハム戦で550日ぶりに勝利投手となる。14試合で2勝7敗・防御率6.03に終わったが、登板間隔は前半戦は月2回ペースだったのが8月以降は週1回登板するまでに回復した。 1992年シーズンはキャンプで再び右肩が悪化したため、7月に右肩の手術を受けた。同年のシーズンと1993年シーズンの2年間は右肩のリハビリのため一軍登板なしに終わった。 1994年シーズンはリハビリから復帰し、オープン戦で結果を残してローテーション入りした。5度目の先発登板となった5月18日近鉄戦で998日ぶりに勝利投手となる。7月5日のロッテ戦で1721日ぶりの完投勝利をあげるなど、17試合で3勝5敗・防御率4.82の成績を残し、完全復活への足掛かりをつかんだかに見えた。 1995年シーズンは故障で出遅れて二軍登板が可能になった頃には一軍はBクラスに低迷し、若手中心の起用に切り替わっていたため一軍登板できず、同年のシーズンオフに戦力外通告を受けた。
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