プロ入りから南海・ダイエー時代
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「佐々木誠 (野球)」の記事における「プロ入りから南海・ダイエー時代」の解説
水島工業高校時代は投手として活躍、1983年春季中国大会県予選では準々決勝に進むが、岡山朝日高に0-1で惜敗。打者としての才能を見込まれ、1983年ドラフト会議で南海ホークスから6位指名を受けて外野手として入団。4年間プレーして通用しなかったら野球をやめるつもりだったという。 1年目は高校生気分が抜けきらない面があったものの、山本一義や長池徳士らコーチ陣のもとで厳しい練習を積んだ。 1985年には早くも一軍で54試合に出場した。 1987年には6月30日の日本ハム戦で、リーグ10人目となる2試合連続初回先頭打者ホームランを達成するなど、レギュラーとなって125試合に出場し、リーグ9位の打率.288を記録している。 1988年は初めてオールスターゲームに出場。夏場にダイエーへの球団売却が決まり言葉にできないほどショックを受けたものの、同年の大阪スタヂアム公式戦最終試合やシーズン最終戦でともに本塁打を放つなどの活躍で、人気選手となっていった。さらにオフの日米野球では翌年から本拠地となる平和台球場で同年のワールドシリーズMVPのオーレル・ハーシハイザーから本塁打を挙げている。ダイエーホークスのユニフォーム発表会では加藤伸一とともにモデルを務めるなど注目を集め、監督の杉浦忠からも全国区のスターになれると評された。なお、新ユニフォームの写真を用いた垂幕広告が、博多駅の井筒屋の壁面に飾られた。 約80%の大幅増となる年俸3,200万円(推定)で契約更改し、結婚して迎えた1989年は、ハーシハイザーから打った本塁打からのイメージを引きずり、長打を狙って打撃のバランスが崩れ、打率が.235と大きく悪化し三振も激増した。 1990年は、開幕から2番打者を任されたが、バントやエンドランなどを打席で考えすぎてパニックに陥ったという。後に打順は1番に変わり、同年はリーグ最多の33二塁打を記録。日米野球では21打数9安打の活躍で敢闘賞を受賞した。 1991年は初の3割となる打率.304を記録し、1番打者ながら21本塁打を放った。また、初のゴールデングラブ賞とベストナインに選ばれている。 前年の成績で自信を付けた1992年は、開幕戦での初回先頭打者本塁打を達成し、オールスターゲームでは第3戦で北別府学からソロ本塁打を放つなどの活躍で、優秀選手賞を受賞した。同年は 1964年の広瀬叔功以来NPB史上2人目となる首位打者と、盗塁王を同時獲得し、前年に続いてゴールデングラブ賞も受賞など、走攻守三拍子揃った外野手として活躍。なお、同年の平和台球場における西武ライオンズ戦でレフトへの打球がワンバウンドして外野フェンスと上部の金網との間に挟まり、三塁まで到達したもののボールデッドのため二塁に戻るよう塁審から指示が出されてベース上でへたり込んだシーンがプロ野球珍プレー・好プレー大賞で取り上げられた。オフの契約更改では3,300万円増でチーム最高となる年俸9,800万円(推定)となっている。 1993年は、前年苦手にしていた渡辺久信から開幕戦で猛打賞を記録するなど好調なスタートを切ったが、5月22日に打撃練習で右肋間筋に挫傷を負い、一軍登録を抹消された。同年のオールスターゲームでは第1戦で決勝点となる本塁打を含む3安打を挙げ、好返球による補殺もあって優秀選手賞を受賞している。レギュラーシーズンでは3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインを受賞した一方、この年から本拠地になった福岡ドームの広さにチーム全体で苦しみ、佐々木も本塁打はわずか7本に終わる。
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