プロ入りから最初の引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:46 UTC 版)
「野中徹博」の記事における「プロ入りから最初の引退まで」の解説
1983年ドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受け、入団。阪急について知識がなく予想外の指名であり、あまり情熱が沸かなかったという。1年目は二軍の投手コーチの指導で投球フォームを改造したが肩を故障。将来のエース候補として2年目の1985年には一軍登板を果たしたが、ウイルス性肝炎を患い1か月余り入院。オフには肩を手術するが完治せず練習生に格下げとなる。翌年以降は肩やひじの故障に悩まされて満足な成績が残せなかった。1988年、8月に打撃コーチ(翌年二軍監督)の住友平から打者転向を勧められ内野手(主に三塁手)に転向。9月に背番号は18から0に変更し登録名も野中徹博から野中崇博に変更した。 球団がオリックスに身売りされた1989年、ウエスタン・リーグで住友二軍監督の下積極的に起用され打率3割を残したが一軍出場はなく、自由契約となり現役を引退。引退後は地元に帰って健康器具の販売やテレビクルーの助手などを経験した後、札幌でラーメン店の修行を積んだり、東京に出ては広告代理店業にも従事。会社員の傍ら水島新司主宰の草野球チームでプレーした。水島のチームでは野手を務めていたが、テレビ番組の企画で行われた吉本興業の芸能人チームとの対戦で投手を務めた際の投球が138km/hを計測。肩の痛みもなかったため再度プロで投げたいとの気持ちが沸いてきたという。
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