南海・ダイエー・ソフトバンク時代
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「大道典良」の記事における「南海・ダイエー・ソフトバンク時代」の解説
南海ホークスでは最後となった1987年のドラフト会議で4位指名を受けて入団するも、レギュラー定着には至らなかった。入団当時の体重は70kgで、現役晩年よりも30kg以上痩せていた。 一軍デビューは球団がダイエーに譲渡された初年度で、1989年10月14日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)に代打で初出場し、阿波野秀幸からプロ初安打を打った。 1994年にはドラフトで主砲候補と期待されていた小久保裕紀が入団し、小久保の練習風景を見てパワーに驚愕した。以後「これでは飯を食えない」と、持ち味の長打力を捨てて、藤本博史の右打ちを参考に「大柄な体を小さく曲げ、バットを極端に短く持つ」という独自の流し打ち打法を作り上げた。 1996年はスコット・ライディの不振によってチャンスを得ると、流し打ちの練習による効果が出てレギュラーに定着し、規定打席不足ながら打率.325・10本塁打・51打点の成績を残した。1997年は前年より数字は落ちたものの3番に定着し、規定打席にも到達。1998年以降は柴原洋・村松有人との併用により打席数は減少したため、規定打席に到達したのはこの年のみだった。 1998年シーズン終了後、吉永幸一郎・柳田聖人と共にスパイ疑惑が西日本新聞によって報道されたが、証拠不十分として処分には至らなかった。 2000年の日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では、第6戦において敗戦につながる失策を犯している。 2001年から登録名を「大道 典嘉」に改める。この年以降、スタメン出場では指名打者・一塁手が中心となった。それでもトニー・ミッチェルの不振によってレギュラーを奪取すると、夏場以降は右投手・左投手それぞれの対戦打率が3割を超えた。 2002年は前年より若干数字を落としたものの、モーガン・バークハートの不振によって再びレギュラーに定着する。この年に行われたプロ野球史上初の台湾遠征2連戦(対オリックス・ブルーウェーブ戦)では1戦目・2戦目で追撃の本塁打を放っている。 2003年は開幕から指名打者としてスタメン出場を果たしていたが、外野で起用する予定だったフリオ・ズレータがデビュー戦で守備難を露呈したため、指名打者で大道と併用されるようになる。この年、オールスターゲームにファン投票で選出された。 2004年はズレータが指名打者に定着したこともあって、出番が激減した。しかし後半には一軍に昇格し、主に代打や相手先発が左投手での右翼手で起用された。 2005年も前年と同じ起用法だったが、この年の出場は全て代打、もしくは一塁手としてだった。この頃から打撃不振によって一軍と二軍の往復を繰り返すようになる。 2006年は開幕を二軍で迎えたが、チーム全体が打撃不振に陥ったことから5月下旬に一軍昇格。6月までは打率.313を記録していたが、7月に入ると成績が低下し、後半戦は代打での出番も少なくなった。そして、シーズン終了直後の同年10月15日に戦力外通告を受ける。本人が「あまりに急な出来事だった」と述べているように、妻との外出中に携帯電話が鳴り、出ると球団幹部からの戦力外通告だったという。これについて、「南海からホークスの選手として頑張った自負があったし、引退試合ぐらいはさせてもらえると思っていた。それだけに、携帯電話での戦力外通告というのはショックだった」と語っている。このため現役続行を決断したが、3日後に王貞治の計らいによって、深刻な右打者不足に悩む読売ジャイアンツへ無償トレードされた。背番号は44。
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