初代(1964年-1986年)A30/31/32/33型
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「三菱・デボネア」の記事における「初代(1964年-1986年)A30/31/32/33型」の解説
1963年(昭和38年)のモーターショーでデビューし、1964年(昭和39年)に製造開始。以後、1986年のモデルチェンジまでの22年間、基本設計・デザインの変更無しに生産され続けたことから、製造期間の後期以降は古色蒼然とした現行モデルであることを形容した「走るシーラカンス」という通称で有名になった。日本製の自家用(白ナンバー)向けセダン型乗用車でこれを上回るほど長期間製造された例は、トヨタ・センチュリーの初代モデル(1967年 - 1997年)のみである。 1960年代初頭、三菱重工業(当時)は国内競合メーカーの2,000cc級乗用車に比肩するクラスの乗用車生産を目論んでいた。当初は欧州車の導入も検討され、イタリアのフィアットに高性能で知られた最新型セダン「フィアット・1800/2100」シリーズのライセンス生産も打診したが、不調に終わっていた。 このため三菱では自社開発に方針を切り替えた。構造はモノコックボディに前輪ウィッシュボーン独立、後輪半楕円リーフリジッドで後輪駆動という、平凡だが手堅いレイアウトとし、全長・全幅とも道路運送車両法施行規則の小型車規格ぎりぎりのサイズで設計された。また、三菱重工業の企業パンフレットでは「回転半径5.3mの機動性も随一で,国情にマッチした使いやすさで他の追随を許しません」と説明されており、取り回しの良さも重視した設計であったことが伺われる。 スタイリングは、元ゼネラルモーターズのデザイナーであるハンス・S・ブレッツナーが担当した。1960年代のアメリカ製大型乗用車のデザインをモチーフとし、ボンネット・テール部分の両脇にエッジを立てフロントグリルを広く取った押し出しの強いスタイルは、その雰囲気から見た目こそかなりの大型に見えるが、日本では小型車扱いの5ナンバー規格に収まるサイズである。。 1965年5月、オートマチックトランスミッション(AT)、前席電動セパレートシート、パワーウインド、パワーステアリングを装備した「パワー仕様」追加。 1967年12月、一部変更でインパネを衝撃吸収タイプに変更される 1969年4月、仕様変更でフロントディスクブレーキを標準装備すると同時にホイールを14インチ化。テールエンドのフィニッシャー(いわゆるロケットテール)の廃止。 1970年9月、マイナーチェンジと同時に搭載エンジンの変更で型式をA31に変更。「デボネア・エグゼクティブ」となる。当初の直列6気筒のKE64型1,991ccOHVから、新開発の6G34直列6気筒1,994ccSOHC(サターン6エンジン)に変更され、130馬力にパワーアップした。これらは少ない生産量によるコストの制約から、既存の4気筒エンジンの気筒数を2気筒増やした設計とし、4気筒エンジンの生産設備を利用して、熟練工の技術で限定生産されたものである。 1973年10月、大幅なマイナーチェンジで後期形へ移行。フロントドアの三角窓の廃止、テールランプデザイン変更(Lテール廃止)、フロントウインカー位置の変更。 1976年6月、再度のマイナーチェンジで「デボネア・エグゼクティブSE」(C-A32)となり、エンジンが2.6Lになり3ナンバーとなる。ラジアルタイヤ、および電動リモコン式タルボ型フェンダーミラーなどを標準装備すると同時にオプションのエアコンはトランク組み込みタイプのクーラーからヒーター組み込み型になる。マニュアルトランスミッション車は廃止。オイルショック後のコスト削減と排ガス規制で、条件の厳しい在来型6気筒エンジン(6G34・1,994ccSOHC)の生産をやめ、量産車用のバランサーシャフト(サイレントシャフト)付き直列4気筒SOHCを限界一杯まで排気量拡大した昭和51年排出ガス規制適合のG54B型2,555cc・120馬力エンジンに換装されている。このエンジンは一般には2,600ccと称し、以後最後までこの大排気量4気筒のまま生産された。 1978年4月、昭和53年排出ガス規制適合で型式がE-A33になる。 1979年6月、一部変更で昭和54年騒音規制適合となる。外観はカラーリングのみの変更であったが、内装はシート形状が変更され、シート地もジャガードからベロアに変更。後席でも操作可能の後席ラジオコントロール機能を備えた電子チューナーラジオを採用。ABSに相当するアンチスキッドブレーキという安全装置がメーカーオプション設定された。 1982年11月、一部変更でフロントグリルのエンブレムを「2600」から「MMC」に変更と同時にトランクリッドの「MCA-JET」エンブレム廃止。 変速機はコラムシフトのマニュアルトランスミッションのほか、3速ATも用意された。最終期の2,600cc直4エンジン車はATのみの設定。AT本体はアメリカ合衆国の大手変速機メーカー、ボルグ・ワーナーのロングセラー製品である「BW-35」型3速ATが、初期型から最終型まで一貫して用いられた。 三菱自動車のフラッグシップであったことから、三菱グループの各企業で重役専用車として多用される一方、6気筒エンジンしかなかったため、競合他車のトヨペット・クラウン、日産・セドリック、プリンス・グロリアなどに比べ割高感があったこと(発売当初は、競合他車の上級グレードに相当するモノグレードのみ。翌5月、パワー仕様という更に上級のグレードをいち早く導入)、また、そのことから当時は割と重視されていたタクシー需要も見込まれず、販売拠点の整備も遅れていたため、シェア争いに敗退する。また、そのイメージを嫌った企業(特に、非三菱系列の大企業関係者)に敬遠された。更に、70年代に入ると、基本設計もデザインも徐々に古臭さが目立つようになり、結果として、一般ユーザーにはほとんど売れなかったのが実情であった。 しかし古き良き時代のアメリカ車風の雰囲気を保ちつつ1980年代半ばまで生産されていたことが、後には逆に独特の希少性を産むことになった(初代デボネアより長い27年間継続生産されていた日産のY31型セドリックでも類似のケースが見られた)。モデル末期にはブライダル用として人気が高まり、特装車として後席左側屋根が開くブライダル仕様が作られるほどであった。三菱水島製作所の改造により、後期形ベースでオープンボディとしたパレードカー仕様も製作されている。 生産終了後になってからの近年、古い自動車の中では程度の良い個体が手に入りやすく、生産期間中の不人気車ぶりとはうって変わって、旧車好きの間で人気が高まった。ローダウンや派手な塗装を施すなど、アメリカ風にアレンジする改造ベースにもなっている。このため、2000年代以降は、程度の良い個体(新車時からフルノーマル仕様)、ないし1973年までのフロントドアの三角窓&リヤのLテール(テールランプ)仕様は高価で取引されている。さらに初期のA30型(KE64型OHV搭載)は極端に流通台数が少ない希少モデルであったため、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作中では「動く60年代の生き証人、現代の反逆児」「(運転者及び所有者は)どんな思想を持ってるやつか知れん」と揶揄される場面があった。 なお法人需要が多かった関係から、現存する個体は黒塗が多い。 1973年改良型 エグゼクティブ リア
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