列福・列聖
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「ベネディクト16世 (ローマ教皇)」の記事における「列福・列聖」の解説
2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後5年を待たないと列福調査は開始されないが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かった上、自身が司式した葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト、イタリア語で「すぐに聖人に」)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて福者になる。福者になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。 翌5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープ(英語版)である。彼女はモロカイ島のダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日と定められた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世はこの在任最初の列福式の司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。その後ダミアン神父は2009年に、マリアンヌ・コープは2012年にそれぞれ列聖されている。 2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。 2011年1月にはヨハネ・パウロ2世の列福が決定、5月1日には列福式を自ら司式し、ヨハネ・パウロ2世は福者にあげられた。
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列福・列聖
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「パウロ6世 (ローマ教皇)」の記事における「列福・列聖」の解説
パウロ6世の死から36年後の2014年10月19日に、教皇フランシスコによって列福された。胎児の脳腫瘍が消えたのが彼の執りなしによる奇跡と認められたのだった。列福式には前教皇ベネディクト16世も出席した。 2018年3月6日、フランシスコはパウロ6世を含む福者5名の列聖に必要な奇跡を認め、教令の発布を承認した。5月19日には福者6名の列聖が決定し、10月14日にバチカンで列聖式が執り行われることを発表。予定通り同日に教皇フランシスコによって福者7名の列聖式が執り行われ、パウロ6世は聖人であると宣言された。この結果、ヨハネ・パウロ1世以外の、20世紀後半に着座した教皇全員が聖人となった。
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列福・列聖
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「ファウスティナ・コヴァルスカ」の記事における「列福・列聖」の解説
1965年に、カロル・ヴォイティワ(Karol Wojtyła)大司教・後の聖ヨハネ・パウロ2世が教皇庁に接触して、1967年に目撃者たちへの証言の収集をし、バチカンにファウスティナの文書のいくつかを提出し最初に公式にファウスティナの列福の申請をした。これは、1968年に開始され、それは1993年4月のファウスティナの列福式で実を結んだ。 公式なファウスティナの列福は、アメリカ合衆国のマサチューセッツのモーリーン・ディガン(Maureen Digan)ケースが係わってくる。1981年の3月にディガンがファウスティナの墓の前で祈っている間の治癒の状況を説明している。ディガンはリンパ水腫を病んでいた。この腫瘍のため、足の切断手術を含む10回の手術をしていた。ディガンの説明によると、 ファウスティナの墓の前で祈っている間に彼女は「私への助けを願いなさい。私はあなたを助けてあげます。」という声が聞こえてきた。すると、彼女のずっと続いていた痛みが止まった。2日後、普通はディガンの靴は体液が腫瘍に流れ込んで膨れ上がってしまうのだが、それが治った。アメリカ合衆国に帰るとすぐに、5つのボストン地区の医師が彼女は治っている。(医学的に証明は付かない)と述べた。そしてこのケースは奇跡であると1992年にヴァチカンで宣言された。 ファウスティナは1993年4月18日に列福され、2000年4月30日に列聖された。ファスティナの記念日は10月5日 であり、神の慈しみの日曜日は復活祭の次の日曜日である。バチカンに記録されているファウスティナの伝記には、いくつかの尊重すべきイエスとの会話がそのまま記録されているが、それは多くの他の幻視家の報告の中でも際立っているものである。著作家で司祭のベネディクト・グロウシャル(Benedict Groeschel)は神の慈しみを崇敬するカトリックのキリスト者は2010年までには1億人程度になると推定する。ヨハネパウロ2世は「ファウスティナがもたらしたメッセージは、恐ろしい悲劇によって跡がついた現在の人類に対して、神が答えたかった質問に対する適切で鋭い回答と予想である。イエスはある日、シスター・ファウスティナにこう語った。『人類は決して平和を見つけることは出来ない。神の慈しみを信用するまでは。』」 2011年10月、数人の枢機卿と司教は教皇ベネディクト16世に対し、ファウスティナを教会博士にするよう請願した。
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列福・列聖
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「ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の記事における「列福・列聖」の解説
ヨハネ・パウロ2世の後継に就任したベネディクト16世教皇は、2005年5月13日にヨハネ・パウロ2世の列福調査の準備を始めたことを宣言した。以降、教皇庁列聖省(英語版)内での審査の過程においてはヨハネ・パウロ2世は「神のしもべ」の位にあった。同年6月28日には正式の調査が開始された。通常、列福調査は死後5年を待たないと始めることができないが、ヨハネ・パウロ2世は特例として死後まもなくの調査開始となった。 死後丸2年が経過した2007年4月2日にはクラクフでの調査が完了し、資料がバチカンの列聖省へ送付された。以降、同省内での審査の過程においてはヨハネ・パウロ2世は「尊者」の位にあった。 2011年1月14日、ベネティクト16世教皇はヨハネ・パウロ2世を「福者」に認定し、同年5月1日に列福式を執り行うと発表し、予定通り同日に列福式が行われた。福者に認定される基準である「奇跡」は、パーキンソン病患者であったフランスの修道女がヨハネ・パウロ2世の死後に祈りを捧げると病気が快方に向かっていったという事例を挙げ、これを「奇跡」と認定した。 列福に先立つ2011年4月29日、ヨハネ・パウロ2世の棺は墓から取り出されて列福式後に崇敬を受けた後、サン・ピエトロ大聖堂内のサン・セバスティアーノ礼拝堂の祭壇に再埋葬された。ここにはインノケンティウス11世の遺体が安置されていたが、4月8日に聖堂内の別の場所へ移葬されている。 2013年7月2日、聖人になる条件である二つ目の「奇跡」が認定され(列福式当日の2011年5月1日、重病のコスタリカの女性がヨハネ・パウロ2世に祈り続け、回復した出来事が奇跡と認められた)、3日後の7月5日にはフランシスコ教皇がこれを承認し、列聖が確定された。9月30日には、同時に列聖が決まったヨハネ23世とともに2014年4月27日に列聖式を執り行うことが発表され、予定通り列聖式が執り行われた。これにより死後9年25日での列聖となり、近年では最速の記録となった。列聖式にはベネディクト16世も共同司式者として出席し、現役・名誉・列聖対象者あわせて4人の教皇の揃い踏みとなった。
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列福・列聖
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1946年中には列福請願が始まり、1935年と1951年の二度、ジャシンタの遺体は掘り起こされたが、顔の箇所はまったく腐敗を免れていた。2000年5月13日、教皇庁の調査委員会はジャシンタと兄のフランシスコを福者であると宣言し、2017年5月13日には聖人であると宣言した。こうして彼女は、殉教者以外では最も幼い聖人となった。長命したルシアはその伝記の中で言っている。ジャシンタは、聖母の出現の他にも、多くの私的啓示を得ていた、と。あるものは、群衆が外で醜く叫び、窓からは石が投げ込まれる中、教皇が部屋で一人で祈っている、というものであり、他にもジャシンタは言及する。非常に大勢の人達と一緒に、汚れなき聖母の御心に祈る教皇様を見た、と。第三の秘密について尋ねられたルシアは、それらは非常に物悲しく、苦しみに満ちた教皇様についての、まさにジャシンタの言うようなものであった、と答えている。 可哀そうなパパ様、罪人の為にお気の毒な!(Coitadinho do Santo Padre, tenho muita pena dos pecadores! )
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列福・列聖
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暗殺の10年後にサンサルバドル大司教は申請代理人(ポストラトゥール、postulator)からロメロの列聖調査のための書類を準備するように命じられた。その書類は1997年に公式にヨハネ・パウロ2世および列聖省に受理され、神の僕に認定された。 ロメロの暗殺から26年経ち、列聖調査は停滞していた。2005年3月担当者のビンチェンツォ・パリヤ卿は、ロメロの調査が空前の障害を越えたと発表した。ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)による信仰上の教説に対する神学的審査を乗り切ったので、6ヶ月以内に列福されるだろうとしていた。それからヨハネ・パウロ2世はその所見から数週間で亡くなった。そして、新しい教皇になって列聖と列福の過程が減速され、ベネディクト16世はバチカン市国のいわゆる「聖者の工場」を抑制する総合的な効果をはかって典礼を改訂した。その年の終り2005年10月の列聖省長官ホセ・サライバ・マーティンズ枢機卿の会見は差し迫っていたはずのロメロ列福の見通しを妨げるように思われた。調査したパリヤの予測に対しサライバ枢機卿は「私が今日知っているほど遠くない」と切り捨てた。2005年11月イエズス会の雑誌は、ロメロの列福が「もう何年か後」になるだろうとした。 多くの者が英雄性と殉教者の宣言の遅れはロメロが直接かかわらなかった事柄、特にラテンアメリカのイエズス会士によって実践された解放の神学運動と結びつけられているためであると推測している。これに対し、列聖省はロメロが次の段階の査問に至るのに十分な基準を満たしておらず、人々が忘れている間に結果的に10年の調査期間が過ぎたと説明された。 しかしながらこのような紆余曲折を経て2015年2月に列福が正式に決まり、5月23日にサンサルバドルにて列福された。ロメロの死から35年2ヶ月0日であった。 2018年3月6日、教皇フランシスコは教皇パウロ6世とロメロを含む5名の福者の列聖に必要な奇跡を認め、教令の発布を承認した。5月19日には別件の1名を加えた福者6名の列聖が決定し、10月14日にバチカンで列聖式が執り行われることを発表した。そして同日、7月に列聖が決まったもう1名を含めた合計7名の列聖式が執り行われ、ロメロは聖人であると宣言された。ロメロの死から38年6ヶ月20日であった。
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