出版以降の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:37 UTC 版)
本書自体が評判を取り流布したと見られるが、それ以降に本書に続く流れは大きく二つあり、祐天上人の伝記としての継承と、浄瑠璃、歌舞伎などの翻案でいわゆる「累もの」と呼ばれる作品群である。祐天の伝記はほぼ本書内容を継承しており、本書は史実として受け入れられていた。なお浄土宗正史の祐天伝には、当然異端となる除霊活動は書かれていない。しかし馬琴が「新累解脱物語」を執筆するに際し、版元の河内屋太助が本書を馬琴に送り、本書は「文辞粗漏にして婦幼の耳目を楽しまするものにあらず。願はくは先生修飾してその奇を増すを乞ふ」としていて、本書自体が大きな評判を得たにもかかわらず、馬琴の作品にある様な娯楽性を欠いた、文学作品ではない実録であり、伝奇や説話中心のそれまでの仮名草子とは異なるノンフィクションであると受け止められていて、このような見方は近年まで続いた。その本書を端緒として「祐天上人一代記」などの虚実ない混ぜた祐天伝が作られる中で、羽生村事件も読本や実録本として書き継がれ、「累もの」とは別に歌舞伎、講談に翻案された。また祐天自身が浄土宗門の要職に就いて以後祐天伝は宗門の説法に用いられ、説教本としても受け継がれることとなる。 本書を取り入れた祐天の伝記書(実際は大同小異だがさらに多数ある) 『新著聞集』寛延二年(1749年) 『祐天大僧正御伝記』宝暦十三年(1763年) 『祐天上人一代記』享和四年(1804年)(伝記とはいっても大幅な創作が入った読み本) 山東京伝『近世奇跡考』文化元年(1804年)(羽生村を訪れ、累の殺害現場を累ヶ淵とした) 祐海『祐天大僧正利益記』文化五年(1808年) 山東京山『かさね得脱実記』天保十一年(1840年) 仮名垣魯文『成田山御利生記』安政二年(1862年) 一方「累もの」の発展流布は津打治兵衛の「大角力藤戸源氏」享保十六年(1731年)に始まり、土佐浄瑠璃の「桜小町」享保十九年(1734年)を経て以後多数の作品が出た。「桜小町」で原作にない美醜が表裏の関係という小町伝説にからめた設定が採用されている。また「伊達競阿国戯場」では同時代の寛文十一年(1671年)に起こった伊達騒動と結び付けることで時代性を強調している。本書における「親の因果が子に報い」という概念の導入は浄土宗の法理にはないもので、本書の勧化の本筋からも外れたものである。本書において累の怨霊が説く「因果の理(ことはり)」とは当人の現生の悪事により来世では地獄で罰を受けるということである。仏教の六道輪廻の考えでは、現世の親子でも前世、来世ではそれぞれの因果を背負った赤の他人か人間ですらないものなので、親の所業が子に及ぶということはない。前記の日本霊異記の話も、女人と障害児がそれぞれ前世で確執のある同士の生まれ変わりのための因果応報の物語になっており、親子の間に因果の関係があるのではない。もし日本霊異記や因果物語などの法理に従うなら、累は助の生まれ変わりとして与右衛門夫妻への復讐のために転生したということで祟りの筋が通るのだが、本書では累は助とは別の存在であり、因果の理が計りがたく筋が通らない。本書において因果応報の原理が破綻しているのは、本書の主眼がそこになく、むしろ地獄極楽の後生の興味本位な描写にあるからだという見方もあり、本書のプロパガンダ出版説とも符合するが、この不条理な因果こそが本書の眼目でもあって、累はまったく無辜の身でありながら、親の罪障により醜く生まれて障害に苦しみ、嫌われ疎まれて惨殺されなければならなかった。累がこのような親の因果を背負っているという点がそれまでの仏教説話にないもので、この酷さ惨めさ、理不尽さが、当時の作者たちを刺激して、続く「累もの」の主要主題になった。歌舞伎における、累が本来は美しい女だったというそれまでにない設定は、女形を引き立てるためだけでなく、祟りの理不尽さ、惨めさを一層強調するためだったとも考えられる。特に鶴屋南北はこの物語に強い関心を持ち、以後いくつかの「累もの」の作品を残しているが、本来勧善懲悪を旨とした因果応報の法理が土俗的な信仰と合体して、江戸後期には南北にあっては善悪の法理を脱却した「異界的空間」の構成に、勧善懲悪に留まった馬琴にあっては「暗鬱なニヒリズム」の中に展開することになったという見方がある。 累ものの中の累の人物像も、生来醜く性悪な女から貞淑な美女と嫉妬に狂った鬼女まで入れ替わるものなどさまざまである。本書では夫と野良仕事に出かけ夫より重い荷を背負ったり、地獄問答では予め「腹を立てないように」と気遣ったりしており、更に菊を苦しめたとあるが、本書の展開では菊は累が憑依している間に体外離脱して冥途見物をむしろ楽しんでいて、累に苦しめられた記憶はない。その間に累が菊に入れ替わって死の苦しみを演じて見せていただけと見られ、村人が菊に問いかけると、すぐ苦しむのをやめてすらすら返事をするのも、累の自演らしさをうかがわせる。ただ物語後半では本当に菊を苦しめている模様である。また怨霊の再三の出現も与右衛門への復讐は最初の犯行暴露のみで、四谷怪談のお岩のように執念深く周囲を巻き込んだ凄惨な報復をするわけではなく、与右衛門自身も物語の最初の二段しか登場しない。累は二十六年間恨んで祟り続けたわけではなく、累の言葉では二十六年ぶりにやっと地獄からこの世に戻ってきただけで、その間の与右衛門の妻六人の死と不作続きの困窮という不幸は、累が死に際に残した呪いと自らの悪業が招いた自業自得だという。累はその後も再三現れはするが、与右衛門のことなど忘れかえったように、村人との問答で因果の理を説き、専修念仏に導き、仏像を建立させるという、むしろ結果的に進んで村人を勧化する役割を演じていて、後代、因果と復讐に絡め様々に変遷した累像とは全く異なる。累が地獄問答において、村人の親たちの旧悪を次々暴露して村を存亡の危機に陥れたのは、累殺害を黙認した村全体への報復だという見方もあるが、悪事の暴露を「其科を出すべし」と要求したのは村人の方で、そもそもこの地獄問答自体も村人の提案である。「知らぬもあらんか」とためらう累に、名主が強引に「くわしくかたりて聞せよ」「知りたるばかり答えよ」と要求し、累が「かまへて腹ばしたたさせたまふな」と断って答えた結果であって、累が勝手に言いふらしたのではない。本書では羽生村の二十六年前からの伝承では「かだましきゑせもの=ひねくれた嫌われ者」とされていて、この容貌に伴う心根の醜さが古今犬著聞集から累ものに至る累の変容の端緒とする見方もあるが、本書ではむしろ暗に累の実像を良く修正している。後世の累ものは、本書には全くない恋愛、情欲や嫉妬などの要素を加味するため、これら全てを累の上に背負わせたと見られ、元禄から近世を通じて人々は累に深い同情と共感を寄せていたといえる。 明治以降本書自体は顧みられなくなったが「祐天大僧正御伝記」などが講談として語られ、またその頃、怨霊事件から百年後の安永・天明・寛政年間に同じ羽生村で起こった別の惨劇の話として作られたスピンオフ作品、三遊亭圓朝の怪談噺「真景累ヶ淵」は何度か映画化されて今日に至っている。これは全く別の怪談噺だが、縺れ合う因果の連鎖というストーリーは本書から累ものに連なる説教の系譜の延長上にあり、また幽霊=幻覚(=神経病=真景という掛詞になっている)として扱われているという本書の趣向も継承されている。累ヶ淵という地名はこの作品から広まった。 「累もの」の主要作品 津打治兵衛『大角力藤戸源氏』享保十六年(1731年) 浄瑠璃『桜小町』享保十九年(1734年) 藤本斗文『曽我累物語』「累解脱蓮葉』元文四年(1739年) 桜田治助『伊達競阿国戯場』安永七年(1778年) 曲亭馬琴『新累解脱物語』文化四年(1807年) 鶴屋南北『阿国御前化粧鏡』文化六年(1809年) 鶴屋南北『法懸松成田利剣』文政六年(1823年) 三遊亭圓朝『累ヶ淵後日の怪談』安政六年(1859年)(後に「真景累ヶ淵」と改題) 河竹黙阿弥『新累女千種花嫁』慶応三年(1867年) 石月正広 『月の子』平成十九年(2007年)幻冬舎 松浦だるま『累-かさね-』平成二十五年(2013年) 山本隆世『解体-死霊解脱物語聞書-累麻疹』平成三十年(2018年)
※この「出版以降の推移」の解説は、「死霊解脱物語聞書」の解説の一部です。
「出版以降の推移」を含む「死霊解脱物語聞書」の記事については、「死霊解脱物語聞書」の概要を参照ください。
- 出版以降の推移のページへのリンク