ハンセン病を患った人物
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「ハンセン病に関連した人物」の記事における「ハンセン病を患った人物」の解説
ダミアン神父 ダミアン神父は、ベルギー人のカトリック司祭で、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島でハンセン病患者たちの介護看護に生涯をささげ、自らもハンセン病を発病、命を落とした。1873年、許可を得てハワイのモロカイ島に渡り、ハンセン病患者の救済に尽力した。神父の活動は世界に報じられ、やがて救ライの使徒と呼ばれるようになった。1884年12月にダミアン神父はハンセン病(LL型)を発病した。このとき、癩菌発見に関わった細菌学者ナイセルの弟子の一人であり、当時ハワイでハンセン病の研究中だったアーニングがダミアン神父を診察した。当時はハンセン病に対する医学知識が乏しく、多くの医師が梅毒とハンセン病の区別がつかないばかりか、「梅毒はハンセン病の第4期」と考えていた学者さえいるほどであった。このためダミアン神父のハンセン病罹患の原因を「患者の女性と関係を持ったこと」であるという中傷さえ行われた。その後、ダミアン神父の発症原因については多くの研究が行われたが、そのうちの一人であるジョプリングはダミアン神父が発病したのは患者の世話などでらい菌に対する露出が濃厚であったことと、体質的に発病しやすいタイプであったと考えられると発表している。 ダミアン神父は1995年福者に、2009年、聖者となった。(列聖) 詳細は「ダミアン神父」を参照 スタンレー・スタイン スタンレー・スタイン。(Stanley Stein, 1900,6 - 1967,12) 本名シドニー・モーリス、レヴィソン、米国テキサス出身の薬剤師。21歳の時にハンセン病と診断され1931年3月カーヴィル国立療養所に入所。1931年5月 個人雑誌Sixty Six Starを発行。教会を攻撃して廃刊。失明。1944年6月1日、丁度ハンセン病に有効なプロミンができた時期に、ハンセン病への誤解偏見を解くべく雑誌The Starを発刊、編集長につく。1967年12月没。Alone No Longerの著者。なお、The Starは2001年まで続いた。 ベティ・マーティン ベティ・マーティン(Betty Martin), 本名 エドウィナ、メイヤー。『カーヴィルの奇蹟』の著者。プロミンなど化学療法により健康を回復し、患者の夫と暮らし、90代まで生きた。本はReader's Digestに要約して発表された。カーヴィル療養所の50周年記念祭で挨拶した写真がThe Starに掲載された。 北条民雄 北条民雄(1914-1937年)は、働く傍ら各種学校に通い、苦労した。ハンセン病患者。文学者。同人誌なども手がけた。昭和9年21歳で全生病院に入院。絶望、不安、孤独の中で文学の世界で活路を見出す。川端康成に手紙を送り真価を認められた。「間木老人」、「いのちの初夜」、「らい院受胎」など小説、随筆を発表、文壇に確固たる地位を占めた。「いのちの初夜」は第2回文学界賞をうけた。24歳で腸結核で永眠。 明石海人 明石海人(あかしかいじん、1901-1939年)は、静岡県沼津市出身でハンセン病を患いながらも「日本歌人」・「日本詩壇」・「文芸」・「短歌研究」・「水甕」などに短歌を発表した歌人である。亡くなる年の1939年にはベストセラー歌集「白描」(はくびょう)を発刊する。 村越化石 村越化石(むらこしかせき、1922年 - 2014年3月8日)は、静岡県藤枝市生まれの俳人。15歳で治療のために郷里を離れた。1941年から群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園で暮らす。40年前に失明した後も、妻や職員の手を借りて句作を続けた。本田一杉、大野林火に師事。角川俳句賞、蛇笏賞、詩歌文学館賞、山本健吉文学賞など。 島比呂志 島比呂志は、1918年香川県観音寺市生まれ。生物化学を専攻。1940年大陸科学院勤務。1944年東京農林専門学校(現東京農工大)助教授。1947年大島青松園入園。翌年星塚敬愛園に転園。1958年より、同人雑誌「火山地帯」を主宰。1999年社会復帰。独特の皮肉な筆遣いで小説を書いた。また、国賠訴訟を開始する切っ掛けを作った。西日本ハンセン病国賠裁判名誉原告団長。2003年3月22日逝去。享年84。 大谷吉継 大谷吉継。日本の戦国時代後期の武将であり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍に匹敵する武功を挙げた。顔が爛れていたので業病といわれたがハンセン病と考えられる。石田三成と固い友情で結ばれていたと言われ、関ヶ原の戦いでは東軍有利と思いつつも、三成との友情に報いるために西軍について闘い、最後は自刃して果てた。ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へと渡して回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきたという伝承が今に伝わっている。 詳細は「大谷吉継」を参照 Joseph Pavlakis 神学を学んだ牧師である。ハンセン病を発病し、1903年に遺棄の島と指定されたギリシアのクレタ島東部に位置するスピナロンガ島に送られた。スピナロンガ島は、トルコ系の人が逃げ出し続々とハンセン病の患者が送られて悲惨な状態となっていたが、医師は来たことがなかった。Joseph Pavlakis は患者を集め建物班を作るなど組織化し、水の確保・住宅の建設を行った。その他、ダンスホールや劇場まで建設した。 塔和子 塔和子(1929年 -)は、愛媛県生まれ。1943年発病。大島青松園に入園。1961年以来詩集を26冊発行。 ボードゥアン4世 ボードゥアン4世はエルサレム王。在位1174-1185年。死去1185年。ボードゥアンが皮膚の病(感覚のないハンセン病)に冒されていることがわかり、医者に診せても治療ができないことが明らかになった。 冉伯牛 冉伯牛冉伯牛(ぜんはくぎゅう、紀元前544年 - ?)は春秋時代の儒学者。姓は冉、名は耕、字は伯牛。魯国(現:中国山東省南部)出身。『論語』では単に伯牛とも記載される。孔門十哲の一人。『論語』において、孔門十哲に関する記述(先進第十一)、もう一つは冉伯牛が重い病(ハンセン病)にかかり、窓越しに孔子の見舞いを受けた(雍也第六)記述がある。 藤本松夫 藤本は藤本事件の死刑囚。ハンセン病に罹患しているとし菊池恵楓園への入所を勧告されていたが、その逆恨みで被害者職員宅にダイナマイトをしかけた。有罪となり収容されたが脱獄。その直後被害者職員が惨殺された。熊本地裁は藤本に死刑判決を下した。控訴、3度の再審請求を行ったが、いずれも棄却された。1962年9月14日死刑執行。ハンセン病に対する偏見誤解から、裁判における手続的保障が十分でなかったとされる。 ヤショーヴァルマン1世 ヤショーヴァルマン1世(在位期間 889-910年)は、カンボジア・アンコール朝の王。碑文には名君であり優れた建設者として「獅子の男」と讃えられている。910年にハンセン病で死亡。 玉木愛子
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