ハンセン病を患った人物とは? わかりやすく解説

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ハンセン病を患った人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 17:12 UTC 版)

ハンセン病に関連した人物」の記事における「ハンセン病を患った人物」の解説

ダミアン神父 ダミアン神父は、ベルギー人カトリック司祭で、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島ハンセン病患者たちの介護看護生涯をささげ、自らもハンセン病発病命を落とした1873年許可得てハワイモロカイ島渡りハンセン病患者救済尽力した神父活動世界報じられ、やがて救ライ使徒呼ばれるようになった1884年12月ダミアン神父ハンセン病(LL型)を発病した。このとき、癩菌発見に関わった細菌学者ナイセルの弟子一人であり、当時ハワイハンセン病研究中だったアーニングダミアン神父診察した当時ハンセン病対す医学知識乏しく多く医師梅毒ハンセン病区別がつかないばかりか、「梅毒ハンセン病第4期」と考えていた学者さえいるほどであったこのためダミアン神父ハンセン病罹患原因を「患者女性と関係を持ったこと」であるという中傷さえ行われたその後ダミアン神父発症原因については多く研究が行われたが、そのうち一人であるジョプリングはダミアン神父発病したのは患者世話などでらい菌対す露出濃厚であったことと、体質的に発病しやすいタイプであった考えられる発表している。 ダミアン神父1995年福者に、2009年聖者となった。(列聖詳細は「ダミアン神父」を参照 スタンレー・スタイン スタンレー・スタイン。(Stanley Stein, 1900,6 - 1967,12) 本名シドニー・モーリス、レヴィソン、米国テキサス出身薬剤師21歳時にハンセン病診断され1931年3月カーヴィル国立療養所入所1931年5月 個人雑誌Sixty Six Star発行教会攻撃して廃刊失明1944年6月1日、丁度ハンセン病有効なプロミンができた時期に、ハンセン病への誤解偏見を解くべく雑誌The Star発刊編集長につく。1967年12月没。Alone No Longer著者。なお、The Star2001年まで続いたベティ・マーティン ベティ・マーティン(Betty Martin), 本名 エドウィナ、メイヤー。『カーヴィルの奇蹟』の著者プロミンなど化学療法により健康を回復し患者の夫と暮らし90代まで生きた。本はReader's Digest要約して発表された。カーヴィル療養所50周年記念祭で挨拶した写真The Star掲載された。 北条民雄 北条民雄(1914-1937年)は、働く傍ら各種学校通い苦労したハンセン病患者文学者同人誌なども手がけた。昭和9年21歳全生病院入院絶望、不安、孤独の中で文学世界で活路見出す川端康成手紙送り真価認められた。「間木老人」、「いのちの初夜」、「らい院受胎」など小説、随筆発表文壇確固たる地位占めた。「いのちの初夜」は第2回文学界賞をうけた。24歳腸結核永眠明石海人 明石海人あかしかいじん、1901-1939年)は、静岡県沼津市出身ハンセン病患いながらも「日本歌人」・「日本詩壇」・「文芸」・「短歌研究」・「水甕」などに短歌発表した歌人である。亡くなる年の1939年にはベストセラー歌集白描」(はくびょう)を発刊する。 村越化石 村越化石むらこしかせき1922年 - 2014年3月8日)は、静岡県藤枝市生まれ俳人15歳治療のために郷里離れた1941年から群馬県草津町国立療養所栗生楽泉園で暮らす。40年前失明した後も、妻や職員の手借りて句作続けた本田一杉大野林火師事角川俳句賞蛇笏賞詩歌文学館賞山本健吉文学賞など。 島比呂志 島比呂志は、1918年香川県観音寺市生まれ生物化学専攻1940年大陸科学院勤務1944年東京農林専門学校(現東京農工大助教授1947年大島青松園入園翌年星塚敬愛園転園1958年より、同人雑誌火山地帯」を主宰1999年社会復帰。独特の皮肉な筆遣い小説書いたまた、国賠訴訟開始する切っ掛け作った西日本ハンセン病国賠裁判名誉原告団長2003年3月22日逝去享年84大谷吉継 大谷吉継日本の戦国時代後期武将であり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍匹敵する武功挙げた。顔が爛れていたので業病といわれたがハンセン病考えられる石田三成固い友情結ばれていたと言われ関ヶ原の戦いでは東軍有利と思いつつも、三成との友情報いるために西軍について闘い最後自刃して果てた。ある時開かれた茶会において、招かれ豊臣諸将茶碗入ったを、1口ずつ飲んで次の者へと渡して回し飲み始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗誰もが嫌い、後の者たちは病気感染恐れて飲むふりをするだけであったが、石田三成だけ普段変わりなくその飲み一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗落ちたが、三成はその膿ごと飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきたという伝承が今に伝わっている。 詳細は「大谷吉継」を参照 Joseph Pavlakis 神学学んだ牧師である。ハンセン病発病し1903年遺棄の島と指定されギリシアクレタ島東部位置するスピナロンガ島送られた。スピナロンガ島は、トルコ系の人が逃げ出し続々ハンセン病患者送られ悲惨な態となっていたが、医師は来たことがなかった。Joseph Pavlakis患者集め建物班を作るなど組織化し水の確保住宅建設行った。その他、ダンスホール劇場まで建設した塔和子 塔和子1929年 -)は、愛媛県生まれ1943年発病大島青松園入園1961年以来詩集26発行ボードゥアン4世 ボードゥアン4世エルサレム王。在位1174-1185年。死去1185年ボードゥアン皮膚の病(感覚のないハンセン病)に冒されていることがわかり、医者に診せても治療できないこと明らかになった。 冉伯牛 冉伯牛冉伯牛ぜんはくぎゅう紀元前544年 - ?)は春秋時代儒学者。姓は冉、名は耕、字は伯牛。魯国(現:中国山東省南部出身。『論語』では単に伯牛とも記載される孔門十哲一人。『論語』において、孔門十哲に関する記述先進第十一)、もう一つ冉伯牛が重い病(ハンセン病)にかかり、窓越しに孔子見舞い受けた(雍也第六記述がある。 藤本松夫 藤本藤本事件死刑囚ハンセン病罹患しているとし菊池恵楓園への入所勧告されていたが、その逆恨み被害者職員宅にダイナマイトしかけた有罪となり収容されたが脱獄。その直後被害者職員惨殺された。熊本地裁藤本死刑判決下した控訴3度再審請求行ったが、いずれも棄却された。1962年9月14日死刑執行ハンセン病対す偏見誤解から、裁判における手続保障が十分でなかったとされるヤショーヴァルマン1世 ヤショーヴァルマン1世在位期間 889-910年)は、カンボジア・アンコール朝の王。碑文には名君であり優れた建設者として「獅子の男」と讃えられている。910年ハンセン病死亡玉木愛子

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