ハンセン病・ポリオ患者支援
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:16 UTC 版)
「ゲルハルト・フィッシャー (外交官)」の記事における「ハンセン病・ポリオ患者支援」の解説
北京でボランティア活動をしていたハンセン病患者支援は彼のライフワークであり、外交官として赴任したアディスアベバや香港でも自由時間には同様の活動をしていた。 インドにおけるハンセン病支援活動を開始したのは1960年、彼が西ドイツの総領事としてマドラス(現チェンナイ)に赴任した年から始まった。ドイツ人医師のエリザベス・ヴォムスタインは、フランス人のある修道女がセーラム近郊のチェティパティでハンセン病患者の支援をしていることを聞きつけ、一緒に活動をするために労働許可を申請しようと考えた。ヴォムスタインから労働許可の申請を手伝ってほしいと頼まれたフィッシャーはそれを手助けし、彼女らと共にチェティパティへと向かった。彼はマドラス駐在中の4年間、この町にヴォムスタインが建てた療養所を何度も視察し、この療養所が模範となると考えるようになった。 1985年に外務省を退職した彼は、1年間の半分をインドで過ごし、残りの半分をバイエルン州にあるキーム湖のほとりの小さな農場で家族と過ごすようになった。妻のアンも彼の活動を手伝い、主に組織運営や寄附金集め、広報などを担った。夫妻は組織的な運営はしないと決めていたため、全ての活動を夫妻だけで行った。後に彼がガンディー平和賞を受賞した際、「妻は賞の半分を受けるに値する」と述べた。 彼は長年にかけてエリザベス・ヴォムスタインと共に彼女が運営するチェティパティの療養所で活動した。彼は彼女のことを「非常に気難しい」と評したが、同時に「もし彼女がそのような性格でなかったなら、38年間も活動を続けられなかっただろう」とも評している。1991年、彼はヴォムスタインとの活動を十分にやり遂げたと思い、独自の活動を始めるようになった。既にヒマラヤ山脈の麓に自分のハンセン病療養所を建てていた彼は、その後ヘルスセンターの設立や、インド中の学校でのワークショップ開催、井戸や屋外トイレの設置、車両の寄付などを行った。また、ネパールやベトナムでの活動にも携わった。 フィッシャーは、投薬に加えて十分な食事とケアがあればハンセン病治療は比較的容易だと考えていた。そのため、彼は治療後の回復過程(リハビリテーション)により重きを置いて活動した。病気によって足や指を失った患者が療養所の外で働くのは非常に難しいと感じた彼は、患者たちにサンダルやテーブルクロス、マットレス、ベッドカバーなどを作る技能を教えた。そして、寄附金ではなくそれらの製品を販売した売上げで療養所を運営することが理想と考えた。
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