ハンセン病国際会議を推進
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「アルバート・シドニー・アシュミード・ジュニア」の記事における「ハンセン病国際会議を推進」の解説
当時、ハンセン病はノルウェー、ハワイ、日本に蔓延していた。彼は、研究の結果、その菌はアメリカ人にとっても危険と考えた。ニューヨークに移ってから以降の、1883年には彼はアメリカがハンセン病に対して防疫線を設ける必要性を強く主張した。 彼は中国民移民によるハンセン病蔓延の危険性を主張していたパリの医師、Goldschmidt, Julesと意気投合し、二人は数年をかけてハンセン病に関する国際会議を模索し始めた。それはすべての文明国において、ハンセン病対策が法制化されるべきであるという信念からであった。ハンセンをはじめとする医学者たちにこの国際会議への参加を要請し、1897年のベルリンでの第1回国際らい会議の開催を実現させた。ただしこの会議はこの2人が当初指向した政策重視へは向かわず、学術的な検討の場となった。しかし二人の追求した 国際会議を恒常的な組織にすることと、ハンセン病者の入国拒否などの提案は一部実現されている。アシュミード自身は自分の方針と異なるためこの会議には出席しなかったが、彼は第1回国際らい会議のために「ハンセン病の制圧と予防」と題した100ページ近いパンフレットを出版している。アシュミードは第1回国際らい会議での敗北のあとも、依然として強力な移民禁止・隔離論者でありつづけた。アメリカでは、1912年に連邦政府によって、ハンセン病が感染者の移動、輸送に特別な規定が設けられる最初の疾患となった。1917年に国立療養所の設置と医務総監の定める省令・規則による判断に基づきハンセン病者を療養所に隔離することを法律で定めた。
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