トラック島の防衛体制
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「トラック島空襲」の記事における「トラック島の防衛体制」の解説
1943年(昭和18年)10月頃の連合艦隊は、ラバウルを拠点に南東方面を重視し、またトラック泊地を中核とする邀撃作戦を準備していた。だが連合軍のカートホイール作戦でトラック南方のラバウルの孤立化が進む中、連合艦隊司令部(司令長官古賀峯一大将、参謀長福留繁中将)は同年12月29日に敵機動部隊がトラック島に来襲した場合の防備計画「T作戦」を立案し、T作戦警戒を発令した。しかし実際のトラック空襲時においては、移動中に立ち寄っている部隊や在泊艦艇こそ多かったが、トラック固有の防備兵力としては第四艦隊(兵力部署では内南洋部隊、内南洋部隊指揮官は第四艦隊司令長官小林仁海軍中将)所属の航空隊(七七五空、陸攻1個中隊9機、水上偵察隊等)、軽巡洋艦那珂、水上機母艦秋津洲、配属陸軍部隊が所在する程度であった。トラック泊地は潜水艦作戦をおこなう第六艦隊(司令長官高木武雄中将、海兵39期。区分においては先遣部隊)の拠点でもあったが、2月17日空襲時点でトラック泊地に居た潜水艦は伊10、呂36、呂42だけだった。 1944年1月26日から28日にかけて、ラバウルから第十一航空艦隊(司令長官草鹿任一中将、南東方面艦隊司令長官兼務)所属部隊(第二十六航空戦隊麾下の二〇四空と二〇一空)がトラック泊地に移動した。これは第二航空戦隊の搭載機(98機)のラバウル派遣(1月25日、南東方面部隊に編入を発令)と交代であった。二六航戦(司令官酒巻宗孝少将)は消耗が激しく、草鹿長官(南東方面部隊指揮官)の指揮下で部隊の再編と訓練を実施、邀撃作戦では第四艦隊司令長官の区処で行動する。そのため、テニアン島の七五五空から陸攻1個中隊が移駐した。また連合艦隊の予備兵力として、南西方面より第十三航空艦隊・第二十三航空戦隊麾下の七五三空(陸攻装備)と第二十八航空戦隊麾下の五五一空(天山艦攻26)が内南洋方面に増強された。 連合艦隊の決戦兵力たる第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)は、ブーゲンビル島攻防戦にともなう「ろ号作戦」(ブーゲンビル島沖航空戦)で受けた打撃を回復するため、日本本土などに下げられていた(展開航空兵力の詳細は#航空機参照)。第一航空戦隊の再建には約3ヵ月以上必要と見込まれ、さらに第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹、龍鳳)の艦載機も南東方面に派遣してしまったので、中部太平洋方面での基本邀撃方針「Z作戦」は事実上実施できなくなった。第二航空戦隊と、編制予定の第三航空戦隊(瑞鳳、千歳、千代田)の再建と完成も、やはり昭和19年3月から4月末程度と見込まれていた。この段階に至っても、日本海軍の作戦重点は南東方面(ラバウル、ニューギニア)に向けられていた。 日本側はトラックを絶対国防圏に含め、陸上防備についても強化を図っていた。しかし、米潜水艦の活動は1943年半ばを過ぎると急速に活発になり、トラックに向かう輸送船も次々と沈められた。最も典型的なケースは1943年11月23日に横須賀を出港した第3123船団である。この船団の積荷は殆どがトラックの基地強化の為の建設資材やセメント、分解された航空機や対空火器、及びその弾薬等計7000トンであった。しかし、途中マリアナ西方沖にて待ち伏せに遭い、4隻が沈められ、12月4日、1隻だけがトラックに到着した。揚げることの出来た積荷は10%に過ぎなかったと言う。また独立混成第五連隊の第二次輸送部隊は1944年(昭和19年)1月15日に内海西部を出発したが、米潜水艦スタージョンの雷撃で船団3隻(赤城丸、涼月、初月)のうち駆逐艦涼月が大破する。25日、輸送船4隻(赤城丸、愛国丸、靖国丸、東海丸)は駆逐艦3隻(満潮、白露、雷)に護衛されて再度内地を出発した。1月31日に潜水艦トリガーの雷撃で靖国丸が沈没、さらにマーシャル諸島情勢急変にともない、目的地をトラック泊地に変更した。2月1日、赤城丸と愛国丸はトラック泊地に到着し、そのまま2月17日のトラック島空襲に遭遇することになった。 こうした損害は基地の拡充や防備強化を直接的に遅らせた。空襲時、多数の船舶が在泊していた理由の一つは、揚搭施設機構が不十分で待ち時間が生じていたためであった。トラックには本土の港湾や真珠湾のような整った荷役設備は無かった。 詳細は「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」および「クェゼリンの戦い」を参照 1944年(昭和19年)1月24日、連合艦隊はトラック泊地在泊部隊からパラオ経由リンガ泊地に回航する艦艇を抽出し、「敷島部隊」と呼称した。1月30日早朝、第一艦隊司令長官南雲忠一中将が指揮する敷島部隊は、パラオに向けトラック泊地を出撃した。直後、米軍機動部隊はマーシャル諸島に来襲し、クェゼリン環礁やルオット島に上陸を開始した。大本営海軍部は衝撃を受け、マーシャル諸島はもはや絶望的と判断し、今後の対策に乗り出した。昭和天皇は永野修身軍令部総長に「マーシャル方面今後ノ作戦ハ困難ナラン 今度ハ後方要線ヲ確ト固メヨ 何時モ後レヲトルカラ今後ハ後レヲ考ヘニ入レテヤレ」と述べている。永野は「航空兵力、特に母艦航空兵力を準備できれば敵を要線で阻止することは可能」と奉答した。敷島部隊はいったんトラック泊地に戻ると、2月1日に改めて出発した。既述のように、天皇の侍従武官(佐藤治三郎大佐)が2月8日にトラック泊地を視察する予定であり、連合艦隊の一部艦艇(武蔵、愛宕、鳥海、妙高、羽黒)が残留した。 2月3日、横須賀からきた軽空母瑞鳳と千代田および護衛艦艇(玉波、若葉、初春)はトラック泊地に到着した。 2月4日、ブーゲンビル島方面から飛来したB-24型爆撃機2機は、トラック泊地の航空偵察を実施した。連合艦隊は攻撃の危険が高まったと判断した。つづく2月5日のマーシャル諸島守備隊の玉砕は、日本軍の絶対国防圏構想に変化をもたらした。マーシャルにおける邀撃作戦「Z作戦」は根本的な変更を迫られる。日本海軍は、燃料も不足し防備も貧弱なトラック泊地からの撤退を正式に発令した。 2月7日午後、東京の大本営より山本親雄軍令部第一課長と源田実部員が空路にてトラック泊地に出張し、連合艦隊司令部と打ち合わせを実施した。翌日トラックを出発、サイパンを経由して帰京した。同日午後、連合艦隊電令作第938号と第939号により、連合艦隊残留部隊の転進が発令される。2月10日、第二艦隊司令長官栗田健男中将が指揮する遊撃部隊(第四戦隊〈愛宕、鳥海〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第17駆逐隊)も、同日にトラック泊地を出発。遊撃部隊はパラオにむかった。損傷艦阿賀野(第十戦隊)、軽巡那珂(第十四戦隊)、若干の駆逐艦がトラック泊地に残留した。同日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は戦艦武蔵に乗艦し、大本営での打ち合わせのため軽空母瑞鳳と千代田および護衛艦艇と共にトラック泊地を出発、内地へ向かった(武蔵隊は2月15日横須賀帰投、母艦部隊は呉帰投)。連合艦隊司令長官の撤退により、トラック地区の最高責任者は第四艦隊司令長官小林仁海軍中将(内南洋方面部隊指揮官)となった。 しかし、トラック環礁在泊の各種補助艦船(駆逐艦、特務艦、輸送船)には、米軍攻勢の予兆は知らされていなかった。1944年2月の時点で、日本軍のシーレーン防備を担当していたのは海上護衛総司令部(1943年11月15日新編)であった。海上護衛総司令部の初代司令長官及川古志郎海軍大将(海兵31期)は海軍大臣や軍事参議官を歴任しており、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将(海兵34期)よりも先輩格である。さらに海上護衛総司令部は天皇の直属部隊であり、連合艦隊と同列・同格・同等の立場であった。船団護衛作戦に関し、海上護衛総司令部は連合艦隊所属の軽空母や駆逐艦を臨時に指揮した。一例として、前年12月3日には空母千歳と第16駆逐隊(天津風、雪風)が海上護衛総司令部の指揮下に入った(1944年2月7日まで)。1944年2月4日、第二艦隊・第二水雷戦隊の駆逐艦藤波(第32駆逐隊)は、海上護衛総司令部麾下の第二海上護衛隊の指揮下に入った。 2月11日、第十三航空艦隊隷下第五五一海軍航空隊の天山26機が空母海鷹によりトラックに到着した。天山は楓島に配備された。零戦は竹島に配備されていた。陸軍第52師団の第二次輸送部隊(歩兵第69連隊第二大隊、歩兵第150連隊、戦車・砲兵など重機材、兵員など9000名余)をトラック泊地へ輸送中の第3206船団部隊(駆逐艦藤波、輸送船5隻)は、14日にグアム島東方で連合艦隊主力部隊とすれ違ったが、情報を与えられなかった。
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