「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 01:05 UTC 版)
「伊藤律」の記事における「「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について」の解説
戦後の長期間にわたって「1940年7月に伊藤が警察の取調べにおいて北林トモの名前を明かしたことから北林が逮捕され、その北林の供述によって宮城与徳が検挙されてゾルゲ事件の発覚につながった」という説が唱えられ、一時は定説化していた。 この説が最初に出てくるのは1942年8月の『特高月報』である。この号には同年5月に報道機関に公表されたゾルゲ事件についての報告が掲載されたが、その中に上記の経緯が記された。しかし、『特高月報』は特高内部でも限られた者しか見ることができない内部文書で、この時点ではこの説は広く伝えられたわけではない。だが、その情報は刑事・司法関係者から少しずつ事件関係者に伝わっていた。横浜事件の際に訊問を受けた風見章は検事から「伊藤が尾崎を売った」といった話を聞かされており、伊藤が収監前に風見に会ったときには「本当に尾崎を売ったのか」と詰問されたと回想している。なお、当時の情勢であれば格好の共産党攻撃の材料となるはずのこの説が事件公表時に明らかにされなかった点について、伊藤が近く保釈となって過去の新聞を目にすることを特高は考慮したのではないかと渡部富哉は推論している。 終戦後の1945年10月に、日本共産党の関係者が戦時中に押収された文書や党関係の資料を警視庁から持ち出した際、伊藤を取り調べた特高刑事の伊藤猛虎について、ゾルゲ事件検挙による内務大臣功労賞授与を諮った稟議書が含まれており、その中に「伊藤律に(発覚の)発端となる供述をなさしめたことをもって褒賞を申請する」という一節があった。これを受けて共産党がおこなった調査が1951年の志賀義雄談話の内容にあたる。つまり、この時点では共産党は伊藤と事件の関係を否定していた。 赤狩りの中で1951年にウィロビー報告が発表される。このときも共産党は志賀談話によって否定し、幹部が北京に渡った後も徳田は訪ソの際にソ連共産党に経緯を説明して、伊藤には問題がないことで了解を得ていた。しかし、共産党が徳田の死後に、ゾルゲ事件を主な罪状として伊藤を除名したことでこれを否定する者がほとんどいなくなった。のちには、上記の特高の功労賞稟議書には伊藤が自筆した供述書も添付されていたという話も加えられた。 一方、日本では尾崎秀実の異母弟である尾崎秀樹や、事件で実刑を受けた川合貞吉らが1948年に「ゾルゲ事件真相究明会」を発足させる。川合は伊藤が発覚の端緒であることを支持し、それを補強する証言をおこなった。「事件の当事者」である川合の発言はそれなりの重みを持って受け止められ、尾崎秀樹も特高警察資料やウィロビー報告と川合の証言に依拠する形で伊藤を「ユダ」として告発する研究書を刊行した。1960年代に『日本の黒い霧』で事件を取り上げた松本清張もこの説を採用し、伊藤不在の状態で「定説」化していった。尾崎秀樹は伊藤の帰国後もその態度を変えなかった。 1978年、東京大学助教授だった伊藤隆が、伊藤を取り調べた元特高警察の宮下弘にインタビューをおこない、「最初の逮捕時に伊藤は共産党員であることも認めようとはせず、転向を口にはしたが本気には見えなかった。スパイではない。釈放後にも会ったが特に情報はくれなかった」「2度目の逮捕の際に偽装転向で赦免させる腹で、『知り合いの女性がアメリカの手先だ』という言質を得た。結果的にその女性(北林トモ)がアメリカ共産党とつながりがあることがわかったが、伊藤はゾルゲ事件に関係していないと思う」という証言を得たことが報じられたが、定説を覆すには至らなかった。 伊藤の没後に、晩年の伊藤が執筆した手記を読んだ渡部富哉は、1990年代初めに事実関係の確認をおこなった。その結果、次のような点が明らかになった。 『特高月報』で「伊藤の供述」に触れた箇所では「某女(北林トモ、五十六歳)」と、その時点で供述したとすれば不自然な記載(あえて「某女」とする必要がない、1940年当時の北林の年齢(数え年)より1歳多い)がなされている。 当時特高課長だった中村絹次郎(山村八郎)は、戦後の著書『ソ連はすべてを知っていた』(紅林社、1946年)で「伊藤の供述から渋谷にあった北林の自宅を監視し、交番の巡査を装って接触した」と記しているが、北林は1939年12月には夫の郷里である和歌山県粉河町(現・紀の川市)に転居しており、「1940年7月に伊藤が供述した」あとに渋谷の家で北林を監視・接触することは不可能である。 警視庁の特高からの依頼により、粉河で北林夫妻の監視に当たった和歌山県警特高の刑事は、監視を始めたのは「1940年初春から」であると証言した。 事件を担当した検事の玉沢光三郎や、特高関係者の情報を得た山本勝之助は「北林の名前は青柳喜久代の供述によって出てきた」と記している。事件担当検事の吉河光貞も戦後これを認める発言をし、思想部次長検事だった井本台吉は座談会で「伊藤律なんか殆ど関係ないよ。あれを伊藤律が全部ばらしたようにしちゃったんだね」と述べている。 1945年に伊藤猛虎の功労賞稟議書を回収した関係者で現存していた人物は、いずれも稟議書に伊藤の供述書はついていなかったと証言した。また伊藤猛虎はゾルゲ事件で功労賞を受けていない。 これにより、「伊藤の供述」以前に警察が北林トモの監視をおこなっていたこと、北林の名前は伊藤以前に警察に伝わっていたことが明らかになった。伊藤猛虎の稟議書が賞を受けるための作文で、自筆供述書もなかった可能性が高まった。 渡部はさらに、尾崎秀樹や川合貞吉、松本清張らが「伊藤が警察のスパイである傍証」として挙げた点についても検証した。 「伊藤は北林から東京で特徴を持った立地の家探しを頼まれ、そのことを警察に供述した」 →北林は伊藤と接触する以前から渋谷に住んでおり、尾崎秀樹らが書いているような立地条件とも合致しない。 「尾崎秀実の家で家政婦が交代することになった際、密偵として家政婦を紹介しようとした」 →川合貞吉の証言通りなら時期は1941年8月以降だが、特高側ではすでに検挙の準備が進み、伊藤は再拘留が目前の時期である。家政婦が交代した話も裏付けられない。 「1941年の伊藤の拘留が北林逮捕の翌日なのは偶然とは思えない」 →上記の通り伊藤が再度拘留されることは事前に決まっていた。むしろ特高側が北林の逮捕を作為的に伊藤の拘留日近くに設定した疑いがある。 渡部はこれらを総合して、「伊藤の供述が端緒である」という説は特高側が事件の発覚経緯を隠すために作為的に仕組んだ「罠」であると結論付けた。また、尾崎秀樹の著書では青木喜久代や北林に関する事実検証がずさんであることや、明確な根拠を示さずに伊藤を「スパイ」と決めつけている記述が散見されることを指摘し、「何の根拠も裏づけもない、妄想の所産といってもいいほどのもの」と強く非難した。同じ親族でも、尾崎秀実の妻は伊藤が共産党を除名された後も伊藤端緒説やスパイ説に同意せず、尾崎秀樹とは対立した立場にいた。 渡部は1992年に尾崎秀樹と公開討論をおこない、自身を含む有志で結成した「伊藤律の名誉回復を求める会」が「伊藤スパイ説」の撤回を申し入れたりしたが、尾崎秀樹は亡くなるまでこれに応じなかった。 その後、加藤哲郎が新たに公開されたアメリカ陸軍諜報部の日本関係文書を2007年に調査した結果、川合貞吉は戦後エージェントとしてウィロビーが率いるGHQ参謀第2部(G2)からゾルゲ事件や共産党の情報提供に対する報酬を受け取っていたことや、ゾルゲ事件を反共宣伝の材料とするウィロビーの意に沿って、共産党幹部だった伊藤を「事件発覚の端緒」とする証言をおこなっていたことが明らかになり、川合の証言に対する信憑性は著しく低下した。文書資料の中で、川合は警護のために接触した警視総監の田中栄一に対して「伊藤律は共産党の裏切り者で、尾崎の絞首刑に責任があり、自分は伊藤律の破滅のために働きたい」と述べたり、共産党や「尾崎・ゾルゲ事件真相究明会」や共産党の「内情」を伊藤をおとしめる形で伝えたと記され、川合が個人的動機で伊藤を誣告していたことも明らかになった。 また、ゾルゲの活動当時モスクワの参謀本部諜報局極東課で暗号電文の翻訳を担当したM.I.シロトキンは戦後の1964年に記した回想録で「伊藤律は『ラムゼイ』(ゾルゲのコードネーム)の諜報網と、何の関係も持っていなかった」と証言している。 これらにより、現在では「ゾルゲ事件発覚の端緒は伊藤の供述だった」という説を支持する見解は、日本の事件研究者の間ではほぼ見られなくなっている。 2013年、伊藤の遺族および渡部富哉が代表を務める「伊藤律の名誉回復する会」が文藝春秋に対して、伊藤をスパイとして記述した松本清張の『日本の黒い霧』の該当話数の出版取りやめを求めていることが報じられた。これを受けて文藝春秋は、『日本の黒い霧』の該当話数に伊藤の証言の引用とスパイ説を否定する文献への参照を促す注釈を、編集部の文責で入れることを決めた。伊藤の遺族は伊藤の帰国当時に日本共産党の党籍があったためにこの件について公に発言できなかったが、党を退いたことで申し入れが可能になったという背景もあった。
※この「「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について」の解説は、「伊藤律」の解説の一部です。
「「ゾルゲ事件発覚の端緒」説について」を含む「伊藤律」の記事については、「伊藤律」の概要を参照ください。
- 「ゾルゲ事件発覚の端緒」説についてのページへのリンク