長久手の戦いとは?

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小牧・長久手の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/28 14:35 UTC 版)

(長久手の戦い から転送)

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。当時は長久手ではなく長湫と表記された。




  1. ^ 秀吉の正室ねねの父、杉原定利とする説があるが、信長の元で奉行職などを勤めた別人説もあり、現状では両説共に確証はない。
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  1. ^ 家康自身は「一万余」を討ち取ったと主張している(『愛知県史』資料編12、381号他)。本願寺の記録で、顕如右筆・宇野主水による『顕如上人貝塚御座所日記』には、その後の噂として「三千」程度が実際の死者だったと記されている。
  2. ^ 家康の侵攻を認める秀吉の書状が現存している。「天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史」より
  3. ^ 3月7日に松平家忠のもとに酒井忠次は信雄が3家老を切腹させたので明日尾張に出陣すると連絡があり、翌日家忠は出陣した。参考文献の7、52頁。
  4. ^ 弟信孝を滅ぼした信雄は「天正十二年の春、自らも又亡ぼさるべきに極まって大きに驚き、徳川殿を頼み申され…」と家康に援助を乞うた。→参考文献の8、91頁。
  5. ^ 改正三河後風土記
  6. ^ 『長久手町史』本文編
  7. ^ この辺の展開は江戸時代中期以降の軍記物・家譜より散見される。実際問題として、岩崎城は長久手を通って三河国に出る隘路の直ぐ側にあり、これを落とすことは当然の処置である(日本戦史戦国編 河合秀朗 学研M文庫 2001年)
  8. ^ 武田茂敬『蟹江城合戦物語』武田茂敬、2008年(原文献『浅野家文書』)


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