開館準備期(2013年度-2015年度)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 00:24 UTC 版)
「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の記事における「開館準備期(2013年度-2015年度)」の解説
2013年(平成25年)7月、安田喜憲(静岡県補佐官、東北大学大学院教授・当時)を委員長とする「ふじのくに自然系博物館基本構想検討委員会」を設置し、新たな博物館の基本構想づくりを開始。同年9月、3か月にわたる改修計画の作成が終了した。 2014年(平成26年)1月、改修工事に着手する。同年3月、「ふじのくに地球環境史ミュージアム基本構想」が策定、同年7月に改修工事が完了し、順次収蔵品等の移転が行われる。 同年10月23日 、香川県高松市のアルファあなぶきホールにて開催された第17回自然系調査研究機関連絡会議(NORNAC17、香川県環境保健研究センター主催)において、ミュージアム開設についての口頭発表を行う。翌10月24日 、NORNAC構成機関による連絡会議において、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」のNORNACへの加入が決議された。同年 12月13日 、市民見学会を開催している。 2015年(平成27年)3月11日、初代館長に安田喜憲が就任することが発表される。4月、ふじのくに地球環境史ミュージアム開設。 同年 6月、 静岡県内巡回展「ミュージアムキャラバン」を開始。同年11月25日 、静岡県環境衛生科学研究所とともに、第19回自然系調査研究機関連絡会議(NORNAC19)の開催地機関になることが発表された。同年 12月21日 から 2016年(平成28年)1月6日 にかけて、 富士川楽座で巡回展を開催。 2016年(平成28年) 3月24日には、地域住民と報道関係者を対象とした内覧会を開催し、3月25日には記念式典が開かれた。式典には、川勝平太静岡県知事らが出席し、静岡県舞台芸術センター(通称SPAC)による舞台パフォーマンスも披露された。
※この「開館準備期(2013年度-2015年度)」の解説は、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の解説の一部です。
「開館準備期(2013年度-2015年度)」を含む「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の記事については、「ふじのくに地球環境史ミュージアム」の概要を参照ください。
開館準備期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 05:40 UTC 版)
「浜松市秋野不矩美術館」の記事における「開館準備期」の解説
天竜市は、1960年(昭和35年)に開館した市民会館のみが市の大型文化施設となっており、老朽化と施設不足から新たな文化施設整備が求められていた。このことを受けて1991年(平成3年)、天竜市は第3次市総合開発計画に新たな文化施設建設を組み込み、同年9月に市文化施設建設計画審議会(以下、審議会)に基本的構想を諮問した。以降、審議会によって検討していたが、その中で文化振興のため必要な施設のひとつとして、地元出身の日本画家であり、天竜市名誉市民の秋野不矩の美術館も挙げられていた。 1992年(平成4年)6月、審議会は市民の意見を求めるため中間報告を行い、秋野不矩美術館(以下、美術館)の建設候補地としては天竜二俣駅周辺や山王地区を検討しているとした。1993年(平成5年)6月15日、審議会は文化施設基本構想の最終答申をまとめ、中谷良作市長(当時)に提出し、美術館については市民ホールとの併設が望ましいとしながらも、より早期の整備を重要視し適切な用地が確保できれば単独建設もあるとした。 1994年(平成6年)4月、天竜市は文化施設建設の基本計画を策定し、二俣町にある天竜市立中央公民館東側の丘陵地を建設候補地として、同年度内に測量と設計を実施し、建設工事を経て1996年度(平成8年度)中の完成を目指すとした。しかし、その後の地質調査の結果、地盤の強度に問題があることが分かり、地盤改良を含めた造成工事を行うことで美術館の建設工事の予定が遅れることが見込まれ、美術館の開館時期は当初より1年後となる1997年度(平成9年度)中に予定変更となった。 1996年(平成8年)9月30日、美術館建設予定地で起工式が行われた。この時、美術館の仮称は天竜秋野不矩美術館で、建築予定面積は746m2、土地造成費を除いた建設費用は約5億1千345万円であった。 1998年(平成10年)1月には、美術館の建物部分が完成し、館内の乾燥作業が行われ、その後4月の開館に向け駐車場や道路整備などが行われた。同年2月の天竜市議会では、天竜市側から美術館に係る設計、用地取得、建設費全体の事業費が10億3千346万円となる見通しであることが報告された。同年4月21日、全国巡回していた秋野不矩作品71点が美術館に搬入され、22日と23日に展示作業を行って、24日の落成式に向けての直前準備が行われた。
※この「開館準備期」の解説は、「浜松市秋野不矩美術館」の解説の一部です。
「開館準備期」を含む「浜松市秋野不矩美術館」の記事については、「浜松市秋野不矩美術館」の概要を参照ください。
開館準備期(2002-2004)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 06:32 UTC 版)
「山中湖情報創造館」の記事における「開館準備期(2002-2004)」の解説
山中湖情報創造館の開館前は、公民館図書室が毎週水曜日の午後だけ図書館としての役割を果たしていた。当時の山中湖村では「この村に図書館利用者などいないだろう」という考えがあり、1998年(平成10年)頃まで図書館を設立しようという機運すらなかった。 2002年(平成14年)になり特定防衛施設周辺整備調整交付金を利用して図書館建設が検討されると、2003年(平成15年)2月に山中湖村のボランティア団体「図書館を育てる会」がアドバイザーとして小林是綱を招き、勉強会を開催した。この勉強会に教育委員会の社会教育主任がおり、小林の発言を聞いて図書館準備室のメンバーに招聘(しょうへい)、2003年(平成15年)4月1日に初代館長として小林に辞令を発した。時を同じくして地方自治法の改正により指定管理者制度が導入され、山中湖村では開館と同時に笛吹市に拠点を置くNPO法人地域資料デジタル化研究会に運営を委託することを決定した。小林はNPO法人の理事長を務めるとともに、山梨県立図書館職員や石和町立図書館(現・笛吹市石和図書館)館長の経験を持つ人物であった。2002年(平成14年)9月に着工した。 「民間人」として館長に就任した小林は、公務員でないことを最大限に生かした図書館運営を行うため、休館日を最小限に抑え、開館時間を長くし、24時間貸出可能なシステムを作ることにした。この方針は2003年(平成15年)4月中に固められた。一方で図書館職員には公務員以上に厳しい守秘義務を課すことを村長に宣誓した。開館前の2004年(平成16年)3月4日には『未来をつくる地域図書館』と題して菅谷明子の講演会を開催、菅谷が紹介したニューヨーク公共図書館や菅谷からの助言・提案を図書館運営の目標に据えた。
※この「開館準備期(2002-2004)」の解説は、「山中湖情報創造館」の解説の一部です。
「開館準備期(2002-2004)」を含む「山中湖情報創造館」の記事については、「山中湖情報創造館」の概要を参照ください。
開館準備期(1973-1982)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:15 UTC 版)
「常総市立図書館」の記事における「開館準備期(1973-1982)」の解説
水海道市立図書館の開館前には公民館図書室が図書館サービスを提供していた。水海道公民館に図書室が設けられたのは1973年(昭和43年)7月のことで、蔵書約3,000冊で開室した。公民館図書室は市民向けの読書活動を展開し、子ども文庫やPTA母親文庫の活動が行われた。活動が活発になるにつれ、1人の中学生が市長に図書館の設置を求める手紙を送り、独立した図書館建設を求める声が市民の間で高まった。1979年(昭和54年)4月の市長選では図書館建設を公約に掲げた候補が当選し、同年10月に社会教育課長補佐を担当者として図書館計画が始まった。水海道市助役をトップとする「図書館建設連絡会議」が設置され、基本構想、基本設計、実施設計と順を追って慎重に計画が進められた。また市の社会教育担当者は連絡会議の議題に関する勉強会や検討会を開き、住民の意思を吸い上げると同時に、行政側に対しては視察対象をリストアップし、住民が視察会に参加できるように取り計らった。こうした設置準備は当時の水海道市にとって異例のことであった。 図書館の基本計画策定にあたっては、1980年代の図書館界の潮流であった自由開架制、貸出中心主義、児童書重視が強く反映され、サービスの柱として貸出・閲覧・レファレンスを掲げた。設計は1980年(昭和55年)12月から1981年(昭和56年)6月にかけて行われ、1981年(昭和56年)7月から1982年(昭和5年)3月に建設工事が行われた。本体・外構工事費は3億7300万円、施工者は鈴縫・堀越JVであった。運営面では資料費の折衝が重ねられ、市民1人当たり1冊となる約4万1千冊を開館までに確保できた。
※この「開館準備期(1973-1982)」の解説は、「常総市立図書館」の解説の一部です。
「開館準備期(1973-1982)」を含む「常総市立図書館」の記事については、「常総市立図書館」の概要を参照ください。
- 開館準備期のページへのリンク