通勤新線の建設正式表明以降
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「東北・上越新幹線反対運動」の記事における「通勤新線の建設正式表明以降」の解説
前節で示された埼玉県知事の4条件に対し、国鉄がその条件の受け入れを表明。それを契機に埼玉県が軟化し、1978年(昭和53年)5月には北区が条件付き賛成に転向した。それでも建設に反対する3市の住民側は、1978年(昭和53年)8月26日から「一坪運動」を開始した。これは、一坪の(あるいは十分狭い)土地を数十名で共有し、権利関係を複雑にすることで、用地買収を難しくする活動である(一坪地主参照)。 1978年(昭和53年)11月22日には「通勤新線」赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可を運輸省(現・国土交通省)に申請、同年12月16日に森山欽司運輸大臣が通勤新線の建設を認可、その結果、1979年(昭和54年)6月7日に知事は4条件が整ったと判断し、新幹線の建設促進の態度を表明した。 これを受け、住民組織側も同年8月には浦和市の組織が、同年12月には与野市と戸田市のそれぞれの組織が、条件付き賛成や条件闘争への軟化に転じた ため、三市連が事実上の分裂状態になった。 また、1979年(昭和54年)11月20日には「三市連」代表と地崎宇三郎運輸大臣が会談して、これを境に反対運動は収束に向かい、徐々に反対運動から条件闘争へと移ってゆくが、戸田市・浦和市・与野市の埼玉県南3市では、長らく一部の住民らによる「絶対反対」の運動が続けられ、1980年(昭和55年)4月24日には、埼玉県南部の3市(与野市、浦和市、戸田市)で認可取り消しを求める行政訴訟が起こされたが、当時の埼玉県知事・畑和の提案などによって沈静化し、最終的には建設合意に至った。 この合意について、当時国鉄側の用地買収の責任者だった岡部達郎 は次のように述べている。 過去の住民対策の経験を生かす機会が到来したと判断し、全力で作戦を練ることにしました。要は推進主体を運輸省 - 国鉄本社 - 工事局 - 良識派住民代表 - 関係住民ということとして、この間に強い信頼のパイプを構築し、反対派の思想宣伝や党勢拡張、あるいは補償金目当てのプロリーダーを排除していくことです。当方の内部でお互い不信感があったり、上層部の無責任な言動などがあると、反対派のプロリーダーに絶好のチャンスを与えることになります。彼らは弁護士、マスコミ、学者、政治家、自治体など、ありとあらゆる方に手を伸ばして問題をこじらせ、業務の遂行を不能にしてしまうわけです。 (中略)こうした中で、堂々と住民大会に乗り込み、彼らに敵ながら天晴れと言わしめた工事局職員や、おどしに屈しない良識派リーダー、施工業者の人々の努力を忘れてはならないと思います。 — 「公共工事と住民パワー」『汎交通』1992年4月 1982年(昭和57年)5月7日には大宮駅以北区間で最後まで残った大宮市桜木団地の19世帯の移転がまとまり、「一坪運動」も1983年(昭和58年)12月3日に全面解消している。 一方、埼玉県南3市が建設合意に至ろうとしている最中、東京都北区の赤羽台トンネル付近では、1980年(昭和55年)3月12日に星美学園が赤羽駅 - 荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事の中止を求める仮処分を申請した。また、北区沿線の反対派住民運動組織である「北区新幹線対策連絡協議会(北新連)」により結成された203名の原告団が、1980年(昭和55年)9月23日に東北新幹線の建設差し止めを求める民事訴訟を行った。このうち、25名の原告が赤羽台トンネル直上部の居住であった。 しかし、これまで強硬に反対していた星美学園は、法廷において交渉が続けられた結果、騒音・振動により環境が阻害されないように措置すること、建設工事で支障を及ぼさないこと、区分地上権を設定すること、相当額の用地譲渡と建物補償に応じることを条件として、1982年(昭和57年)11月25日に和解が成立した。 さらに、北新連側の住民も時とともに理解が得られるようになり、太平洋戦争中に崖下から台地へ向けて掘られた防空壕を調査して埋め戻すことを条件として、土砂運搬導坑の掘削が認められるようになった。1984年(昭和59年)6月30日に、トンネル上部の支障住宅の移転が完了し、8月8日には地元と工事に関する協定書が正式に調印された。裁判も10月3日に和解が成立し、全体の着工が可能となった。 上記などの紆余曲折を経て、東北・上越新幹線は建設され、1982年(昭和57年)6月23日に東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が開業し、同年11月15日に上越新幹線大宮駅 - 新潟駅間開業した。そして1985年(昭和60年)3月14日に東北・上越新幹線、上野駅 - 大宮駅間が延伸開業した。当初の計画からルートを変更した結果、上野駅 - 大宮駅間は半径800m以下のカーブが17箇所にのぼり、半径1500m以下のカーブのない区間が連続するのは最長でも6kmに満たない区間となった。このような線形上の理由から、頭打ち速度としてアナログATC(ATC-2型)の110km/h以下での運行となった。 JR東日本は2002年にデジタルATC(DS-ATC)の導入に合わせて東京駅 - 大宮駅間のスピードアップの検討に着手し、2006年頃の所要時間短縮を目指すと発表した。しかしこの区間の増速計画は大幅に遅れ、デジタルATC化以降も、同区間のATCによる速度制限は110km/hであったが、2018年5月にようやく上野駅 - 大宮駅間のうち荒川橋梁以北の埼玉県内区間で、騒音対策工事に約2年を掛けたうえで、最高速度を最大130km/hに向上させることが発表された。これによる時間短縮効果は最大1分程度としている。一方、荒川橋梁以南の東京都内区間については依然として増速の具体的な動きはない。 年表 1978年(昭和53年)8月26日 - 建設に反対する3市の住民側による「一坪運動」が始まる。 11月22日 - 「通勤新線」赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可申請。 12月16日 - 森山欽司運輸大臣が通勤新線の建設を認可。 1979年(昭和54年)6月7日 - 畑知事が上記の4条件が整ったと判断し新幹線の建設促進の態度を表明する。 11月20日 - 「三市連」代表と地崎宇三郎運輸大臣が会談。これを契機に、住民側の反対運動は沈静化へと向かう。 1980年(昭和55年)3月12日 - 東京都北区の星美学園が中心となって、赤羽 - 荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事の中止を求める仮処分を申請する民事訴訟が起こされる。 4月24日 - 埼玉県南部の3市(与野市、浦和市、戸田市)で認可取り消しを求める行政訴訟が起こされる。 9月23日 - 東京都北区の住民運動組織である「北区新幹線対策連絡協議会(北新連)」により結成された203名の原告団が東北新幹線の建設差し止めを求める民事訴訟を提訴する。 1982年(昭和57年)5月7日 - 大宮駅以北区間で最後まで残った大宮市桜木団地の19世帯の移転がまとまる。 6月23日 - 東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が開業。 11月15日 - 上越新幹線大宮駅 - 新潟駅間が開業。 11月25日 - 赤羽台トンネル建設での補償問題などについて星美学園側と合意し和解が成立。 1983年(昭和58年)12月3日 - 「一坪運動」全面解消。 12月22日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル(伊奈線)大宮駅 - 羽貫駅間が開業。 1984年(昭和59年)10月3日 - 国鉄と北新連が公害防止協定を含む和解書を作成、訴訟が終結する。 1985年(昭和60年)3月14日 - 東北・上越新幹線上野駅 - 大宮駅間が延伸開業。 7月11日 - 通勤新線の愛称を「埼京線」と命名し、同時に赤羽線池袋駅と川越線川越駅まで直通運転を開始(川越線は全線電化)させることを発表する。 9月30日 - 埼京線赤羽駅 - 大宮間開業。 1986年(昭和61年)3月3日 - 埼京線池袋駅 - 新宿駅間延伸開業。 1990年(平成2年)2月17日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル(伊奈線)の羽貫駅 - 内宿駅間にある中核派の団結小屋に対し行政代執行。 8月2日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル(伊奈線)羽貫駅 - 内宿駅間延伸開業、全線開通。 1991年(平成3年)6月20日 - 東北・上越新幹線、上野駅 - 東京駅間延伸開業。東北・上越新幹線は当初の建設区間が全線開通。
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