通勤新線の建設正式表明以降とは? わかりやすく解説

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通勤新線の建設正式表明以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:37 UTC 版)

東北・上越新幹線反対運動」の記事における「通勤新線の建設正式表明以降」の解説

前節示され埼玉県知事の4条件対し国鉄がその条件受け入れ表明。それを契機埼玉県軟化し1978年昭和53年5月には北区条件付き賛成転向した。それでも建設反対する3市の住民側は、1978年昭和53年8月26日から「一坪運動」を開始した。これは、一坪の(あるいは十分狭い)土地数十名で共有し権利関係複雑にすることで、用地買収難しくする活動である(一坪地主参照)。 1978年昭和53年11月22日には「通勤新線赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可運輸省現・国交通省)に申請同年12月16日森山欽司運輸大臣通勤新線建設認可その結果1979年昭和54年6月7日知事は4条件整った判断し新幹線建設促進態度表明した。 これを受け、住民組織側も同年8月には浦和市組織が、同年12月には与野市戸田市それぞれの組織が、条件付き賛成条件闘争への軟化転じた ため、三市連が事実上分裂状態になったまた、1979年昭和54年11月20日には「三市連」代表と地崎宇三郎運輸大臣会談して、これを境に反対運動収束向かい徐々に反対運動から条件闘争へと移ってゆくが、戸田市浦和市与野市埼玉県南3市では、長らく一部住民らによる「絶対反対」の運動続けられ1980年昭和55年4月24日には、埼玉県南部の3市(与野市浦和市戸田市)で認可取り消し求め行政訴訟起こされたが、当時埼玉県知事畑和提案などによって沈静化し、最終的に建設合意至った。 この合意について、当時国側の用地買収責任者だった岡部達郎 は次のように述べている。 過去住民対策経験生かす機会到来した判断し全力作戦を練ることにしました要は推進主体運輸省 - 国鉄本社 - 工事局 - 良識派住民代表 - 関係住民ということとして、この間に強い信頼パイプ構築し反対派思想宣伝党勢拡張、あるいは補償金目当てのプロリーダーを排除していくことです。当方内部お互い不信感があったり、上層部無責任な言動などがあると、反対派のプロリーダーに絶好チャンス与えることになります。彼らは弁護士マスコミ学者政治家自治体など、ありとあらゆる方に手を伸ばして問題こじらせ業務遂行不能にしてしまうわけです。 (中略こうした中で、堂々と住民大会乗り込み、彼らに敵ながら天晴れ言わしめた工事局職員や、おどしに屈しない良識派リーダー施工業者人々努力忘れてならない思います。 — 「公共工事住民パワー」『汎交通1992年4月 1982年昭和57年5月7日には大宮駅以北区間最後まで残った大宮市桜木団地19世帯移転まとまり、「一坪運動」も1983年昭和58年12月3日全面解消している。 一方埼玉県南3市が建設合意に至ろうとしている最中東京都北区赤羽台トンネル付近では、1980年昭和55年3月12日星美学園赤羽駅 - 荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事中止求め仮処分申請したまた、北区沿線反対派住民運動組織である「北区新幹線対策連絡協議会北新連)」により結成され203名の原告団が、1980年昭和55年9月23日東北新幹線建設差し止め求め民事訴訟行ったこのうち25名の原告赤羽台トンネル直上部の居住であった。 しかし、これまで強硬に反対していた星美学園は、法廷において交渉続けられ結果騒音振動により環境阻害されないよう措置すること、建設工事支障及ぼさないこと、区分地上権設定すること、相当額用地譲渡建物補償応じることを条件として、1982年昭和57年11月25日和解成立した。 さらに、北新連側の住民も時とともに理解得られるようになり、太平洋戦争中崖下から台地向けて掘られ防空壕調査して埋め戻すことを条件として、土砂運搬導坑掘削認められるようになった1984年昭和59年6月30日に、トンネル上部支障住宅移転完了し8月8日には地元工事に関する協定書正式に調印された。裁判10月3日和解成立し全体着工が可能となった上記などの紆余曲折経て東北・上越新幹線建設され1982年昭和57年6月23日東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が開業し同年11月15日上越新幹線大宮駅 - 新潟駅開業した。そして1985年昭和60年3月14日東北・上越新幹線上野駅 - 大宮駅間が延伸開業した当初の計画からルート変更した結果上野駅 - 大宮駅間は半径800m以下のカーブ17箇所にのぼり、半径1500m以下のカーブのない区間連続するのは最長でも6kmに満たない区間となったこのような線形上の理由から、頭打ち速度としてアナログATCATC-2型)の110km/h以下での運行となったJR東日本2002年デジタルATCDS-ATC)の導入合わせて東京駅 - 大宮駅間のスピードアップ検討着手し2006年頃の所要時間短縮目指す発表した。しかしこの区間増速計画大幅に遅れ、デジタルATC以降も、同区間ATCによる速度制限は110km/hであったが、2018年5月にようやく上野駅 - 大宮駅間のうち荒川橋梁以北埼玉県内区間で、騒音対策工事に約2年掛けたうえで、最高速度最大130km/hに向上させることが発表された。これによる時間短縮効果最大1分程度としている。一方荒川橋梁以南東京都内区間については依然として増速具体的な動きはない。 年表 1978年昭和53年8月26日 - 建設反対する3市の住民側による「一坪運動」が始まる。 11月22日 - 「通勤新線赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可申請12月16日 - 森山欽司運輸大臣通勤新線建設認可1979年昭和54年6月7日 - 畑知事上記の4条件整った判断し新幹線建設促進態度表明する11月20日 - 「三市連」代表と地崎宇三郎運輸大臣会談。これを契機に、住民側の反対運動沈静化へと向かう。 1980年昭和55年3月12日 - 東京都北区星美学園中心となって赤羽 - 荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事中止求め仮処分申請する民事訴訟起こされる4月24日 - 埼玉県南部の3市(与野市浦和市戸田市)で認可取り消し求め行政訴訟起こされる9月23日 - 東京都北区住民運動組織である「北区新幹線対策連絡協議会北新連)」により結成され203名の原告団が東北新幹線建設差し止め求め民事訴訟提訴する1982年昭和57年5月7日 - 大宮駅以北区間最後まで残った大宮市桜木団地19世帯移転がまとまる。 6月23日 - 東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が開業11月15日 - 上越新幹線大宮駅 - 新潟駅間が開業11月25日 - 赤羽台トンネル建設での補償問題などについて星美学園側と合意し和解成立1983年昭和58年12月3日 - 「一坪運動全面解消12月22日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル伊奈線大宮駅 - 羽貫駅間が開業1984年昭和59年10月3日 - 国鉄北新連が公害防止協定を含む和解書を作成訴訟終結する1985年昭和60年3月14日 - 東北・上越新幹線上野駅 - 大宮駅間が延伸開業7月11日 - 通勤新線愛称を「埼京線」と命名し同時に赤羽線池袋駅川越線川越駅まで直通運転開始川越線全線電化)させることを発表する9月30日 - 埼京線赤羽駅 - 大宮開業1986年昭和61年3月3日 - 埼京線池袋駅 - 新宿駅延伸開業1990年平成2年2月17日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル伊奈線)の羽貫駅 - 内宿駅間にある中核派団結小屋対し行政代執行8月2日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル伊奈線羽貫駅 - 内宿駅延伸開業全線開通1991年平成3年6月20日 - 東北・上越新幹線上野駅 - 東京駅延伸開業東北・上越新幹線当初の建設区間全線開通

※この「通勤新線の建設正式表明以降」の解説は、「東北・上越新幹線反対運動」の解説の一部です。
「通勤新線の建設正式表明以降」を含む「東北・上越新幹線反対運動」の記事については、「東北・上越新幹線反対運動」の概要を参照ください。

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