独ソ不可侵条約とは? わかりやすく解説

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独ソ不可侵条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:07 UTC 版)

バルト諸国占領」の記事における「独ソ不可侵条約」の解説

詳細は「独ソ不可侵条約」を参照 1939年8月24日早朝ソビエト連邦ドイツは期間10年の独ソ不可侵条約に調印した。この条約には1945年ドイツ敗戦後になってから初め明かされる秘密議定書含まれていた。その条項によるとヨーロッパ北部東部国々ドイツソビエトの「勢力圏」に分割されていた。北部ではフィンランドエストニア、およびラトビアソビエト勢力圏割り当てられていた。ポーランドについてはナレフ川ヴィスワ川サン川東側地域ソビエト西側地域ドイツ占領することになっていた。東プロイセン隣接するリトアニア当初ドイツ勢力圏となる予定だったが、1939年9月合意され次の秘密議定書ドイツ・ソビエト境界友好条約)ではリトアニア大部分ソ連割り当てられた。秘密条項により、リトアニア戦間期にはポーランド支配されていた、かつての首都ヴィリニュス取り戻した

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独ソ不可侵条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 04:37 UTC 版)

勢力圏」の記事における「独ソ不可侵条約」の解説

1939年ナチス・ドイツソビエト連邦極秘裏に独ソ不可侵条約を結んだことにより、両国北欧および東欧を己の勢力圏として分割することになった北欧ではフィンランドエストニアラトビアソ連分け前とされた。ポーランドは独ソで分割されナレフ川ヴィスワ川サン川以東ソ連が、以西ドイツ占領した東プロイセン隣接するリトアニアは、当初ドイツ勢力圏に入る予定だったが、1939年9月第二秘密条約原案によってソ連勢力圏となったルーマニア一部だったベッサラビアモルダビア自治ソビエト社会主義共和国次いでモルダビア・ソビエト社会主義共和国領土となり、モスクワからの統制下に入った1940年6月28日ソ連ブコヴィナ占領したのも、独ソ不可侵条約でこの地域ソ連勢力圏内にあると枢軸国から承認されたためであったソ連秘密協定存在否認し続けたが、その崩壊後ロシア政府全面的にその存在認めた

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独ソ不可侵条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)

ルイ・アラゴン」の記事における「独ソ不可侵条約」の解説

1939年8月23日スターリンヒトラーと独ソ不可侵条約を締結共産党狼狽した党幹部ソ連方向転換理由と、この条約によってもなお、共産党反ファシズムソ連政策への支持両立し得ることを説明する必要があり、『リュマニテ』紙上で「独ソ不可侵条約は、ナチズム基本的教義全体の突然の放棄である」と弁明したアラゴンまた、『ス・ソワール』紙の編集長としてこれを正当化するために、8月23日付『ス・ソワール』紙には「平和万歳」、翌24日は「すべて侵略国に抗して」と題する社説掲載したが、翌8月25日ダラディエ内閣は、『リュマニテ』紙、『ス・ソワール』紙のほか、共産党すべての機関紙押収し発禁処分とし、さらに、集会宣伝活動禁止した。そのうえ、アラゴン極右デモによって攻撃を受け、8月末までチリ大使館保護された。なお、『ス・ソワール』が再刊されるのは、戦後パリ解放後)の1944年9月末のことであり、これ以後廃刊となる1953年までアラゴン編集長務めたアラゴン1939年9月2日軍医補として動員されベルギー前線送られた。まやかし戦争の間は、ジャン・ポーランガストン・ガリマール説得しガリマール出版社刊行の『新フランス評論』に引き続き二階馬車乗客たち』を発表した1940年5月ナチス・ドイツフランス侵攻アラゴン部隊ブリュッセル東方ティーネン郊外ベルギー軍陣地救援することになっていたが、英仏連合軍敗北によりダンケルクへの潰走始まったアラゴン部隊ダンケルク到着したのは5月29日。このときのことを詩「ダンケルクの夜」に書いている。1940年6月14日ドイツ軍パリ無血入城パリ陥落)。アラゴンの「リラ薔薇」は、パリ陥落前のリラが咲く5月(「のなかった五月」)と陥落後の薔薇が咲く6月(「胸えぐられ六月」)の間に「消えうせた数世紀」としてこの「恐ろしい悲劇」を語った詩である。この詩は1940年7月に『フィガロ』紙に掲載された。ジャン・ポーランアラゴンにこの詩を見せられたときに丸暗記して掲載したものであったアラゴンはクロワ・ド・ゲール勲章を受け、1940年7月ドルドーニュ県リベラックで復員した後、エルザ再会し南部の自由地域カルカソンヌレ・ザングルフランス語版)に向かい、ここでピエール・セゲルス(フランス語版)に合流し12月30日ニース到着した

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独ソ不可侵条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「独ソ不可侵条約」の解説

ノモンハン戦闘が続く中、1939年8月23日スターリンナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を締結した日独防共協定締結後日独軍事同盟積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃受けており、宇垣一成その時陸軍様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどり形相」と記述している。25日には平沼内閣日独同盟の締結交渉中止閣議決定28日平沼が「欧州天地複雑怪奇なる新情勢生じ」と声明し、総辞職したナチス・ドイツヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、独ソ不可侵条約締結のためモスクワに向かう前日に、日独軍事同盟先頭立って推進してきた大島浩駐独大使呼び、独ソ不可侵条約を締結することを伝えた面目を失い怒り心頭大島対しリッベントロップは、ノモンハン事件仲介申し出てゆくゆくは日本ナチス・ドイツイタリア三国同盟ソ連加えて四国同盟発展させたいとの構想語っている。 ソ連軍総攻撃前の7月末には、日本政府停戦模索しており、東郷茂徳駐ソ特命全権大使停戦交渉指示していたが、土居明夫駐在武官からの「戦勝の裏付けがなければ見込みは薄い」との進言通り具体的な交渉には進めなかった。ソ連外交交渉による事件解決希望持っており、ソ連軍大攻勢開始直後8月22日に、東郷樺太諸問題について協議するためソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理会見した際に、ロゾフスキーから「日ソ国交正常化ソ連希望している」との話があり、東郷がそのためには国境諸問題ノモンハン示唆)を解決する必要がある力説したところ、ロゾフスキーは「日本側から具体的な申し出有ればソ連検討する」と回答している。しかし、ソ連軍大攻勢で、戦勝どころか第23師団壊滅状態に陥っていた状況下では、独ソ不可侵条約の締結日本の立場をさらに弱いものとした。独ソ不可侵条約が締結され8月23日に、リッベントロップ大島との約束通りスターリン日ソ仲介申し出たが、スターリン戦局有利に進んでいたことから「時には彼ら(日本)を厳しく取り扱わなければ」と拒絶はしなかったものの、即答避けている。 戦局は不利であったにも関わらず依然関東軍の方も強気であり、独ソ不可侵条約の締結受けて8月27日植田司令官名で『欧州情勢変転に伴う時局処理対策』という意見書作成し、わざわざ情報課長の磯村武亮大佐参謀本部説明のために派遣したその内容は「対ソ戦備を一層充実する同時にノモンハン方面ソ連対し徹底的に打撃与えつつ、ドイツイタリア利用し休戦提議せしむると共に速やかに日ソ不可侵条約締結し、更に進んで日独伊ソの対英同盟結成し東洋に於ける英国勢力根本的に芟除して支那事変の処理を促進完成する要す」と雄大だが、関東軍権限遥かに超える意見であり、その前提条件となる「ソ連から休戦申し込ませる」策として、「軍は既定方針に基づきノモンハン方面に於けるソ連痛撃与う、之がため、第2師団第7師団第23師団戦場使用」とソ連軍一撃加えて外交交渉有利に進めようというものであった参謀本部も、この時点では詳細な戦局把握できていなかったこともあり、「一撃加える」という方針では一致しており、関東軍ノモンハン戦力集中する穴埋めとして、第5師団第14師団重砲2個連隊速射砲9個中隊、飛行59戦隊などの増援大量トラックを送ることを決定している。

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