レコンキスタとは? わかりやすく解説

レコンキスタ【(スペイン)Reconquista】


レコンキスタ 【Reconquista スペイン】


レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 02:32 UTC 版)

レコンキスタスペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動[1]。レコンキスタの結果、グラナダはキリスト教国家の支配下に置かれることになり、アルハンブラ宮殿もキリスト教式に改変の手が加えられた[1]


  1. ^ a b 戸谷英世・竹山清明『建築物・様式ビジュアルハンドブック』株式会社エクスナレッジ、2009、157頁。 
  2. ^ 『名画で読み解く「世界史」』祝田秀全(監修)、世界文化社、2013年、106頁。ISBN 978-4-418-13225-6 
  3. ^ 高橋和夫 (2014年2月26日). “スペインは、15世紀に追放したユダヤ人の子孫に市民権を与えるのか?”. Astand (朝日新聞社). オリジナルの2013年3月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140308163433/http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2014022500003.html 2014年3月8日閲覧。 



レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)

十字軍」の記事における「レコンキスタ」の解説

詳細は「レコンキスタ」を参照 イベリア半島においてはキリスト教国だった西ゴート王国711年ウマイヤ朝敗れて滅亡した後、北部キリスト教勢力中南部イスラム勢力とが抗争繰り返していた。1031年後ウマイヤ朝滅亡するキリスト教勢力南進し、この中で1064年教皇アレクサンデル2世によって初め異教徒との戦い贖宥与えられ以後十字軍にも取り入れられた。 パレスチナ十字軍開始後も歴代教皇は度々イベリア半島十字軍宣し中でも教皇インノケンティウス3世1212年イベリア半島の諸キリスト教国家戦闘停止ムワッヒド朝対す一致団結求めた十字軍は、同年ラス・ナバス・デ・トロサの戦い勝利を収め以後キリスト教勢力急速に勢力拡大して1251年までにグラナダナスル朝を除く全てのイベリア半島手中に収めた。

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レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:11 UTC 版)

キリスト教徒による宗教的迫害」の記事における「レコンキスタ」の解説

イベリア半島ではレコンキスタの進展により、イスラム教徒キリスト教徒隷属民として処遇されることとなった1492年最後イスラーム政権となったナスル朝打倒された際、カトリック両王ムスリム信仰の自由保障し隷属民として一定の人権与えることを確約した。しかしこの約束はすぐに反故にされ、ムスリム追放改宗かという選択突きつけられた。さらに16世紀から17世紀には異端審問により隠れムスリムあぶり出し強制改宗迫った結果としてほとんどのイスラム教徒屈辱的なキリスト教への改宗受け入れるか、モロッコなどへ亡命し、その土地同化した。ユダヤ教徒同様の扱い受けたが、隠れユダヤ人としてスペイン信仰守り抜いたものも少なくなかった

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レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 14:50 UTC 版)

カラトラバ騎士団」の記事における「レコンキスタ」の解説

騎士団は、歴代の王たちとともにレコンキスタを戦い勇名轟かせた。レコンキスタにおいて、カトリック連合軍めざましい勝利となった1212年ナバス・デ・トロサの戦いにも参戦し勝利貢献した1474年カスティーリャ王エンリケ4世王位継承問題の際、アラゴン王フェルナンド2世ポルトガル王アフォンソ5世介入し騎士団内もどちらにつくかで分裂した。ロドリーゴ・ヒロン騎士団総長ポルトガルにつき、彼の部下ロペス・デ・パディージャはアラゴン側に立った1479年トーロ戦いでアラゴン側が勝ち、ポルトガル手を引いたアラゴン王和解したヒロンは、1482年ロハ包囲グラナダ王国戦ったその後、ロペス・デ・パディージャがヒロンのあとの総長となった。彼は、1487年グラナダでの戦いで戦死した。 ロペス・デ・パディージャの死後アラゴン王フェルナンドは新騎士団長選挙のため(ローマ教皇インノケンティウス8世教書をもって騎士団管理者となっていた)、招集をかけ、候補者たちに服従要求したカラトラバ騎士団政治的自治は、この時をもって終わり迎えた。そしてまもなく1492年に、グラナダ陥落とともにムーア人対するレコンキスタも終了したのである

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レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 16:04 UTC 版)

サン・フェルナンド (カディス県)」の記事における「レコンキスタ」の解説

13世紀半ばカスティーリャ王アルフォンソ10世カディス湾の島を併合した。それからサン・ロムアルド城とともにルガルの名で知られるようになった。この小さな定住地は、カディス市の中の独立した自治体で、1260年境界定まった。島はスアソ家のものとなった。そして15世紀ポンセ・デ・レオン家に島は購入され、イスラ・デ・レオンと呼ばれるようになった。島にはカスティーリャ人カンタブリア人ガリシア人移民入植した

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レコンキスタ

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バレンシア王国」の記事における「レコンキスタ」の解説

後でバレンシア王国となる地方征服は、アラゴン王ジャウマ1世アラゴン軍を大部分率い、モレリャを獲得した1232年始まった。そのすぐ後の1233年ブリアナペニスコラタイファであるバランシヤ(Balansiya、アラビア語バレンシア意味する)から奪われた。 ハイメ1世がバランシヤのタイファ破った1237年、第2の拡大の波は起きた。彼は1237年10月9日バレンシア入城した。これがバレンシア王国夜明けだと考えられている。 第3段階は1243年始まり1245年終わりジャウマ1世と、カスティーリャ王継承予定者である王子アルフォンソ1252年アルフォンソ10世として即位)との間で国境確定された。これらの国境は、カスティーリャアラゴン間のアルミスラ条約によって引かれた。この条約は、彼らの影響与えられる望ましい地域確立することで、南方ムーア人勢力押しだすレコンキスタの尽力調整することになった。アルミスラ条約は、現在のアリカンテ県北部ビアル=ブソト線をつくり、アラゴン王国拡大南方国境として確立させた。 大多数占めムデハル住民問題が、より南の戦線から次第残っていった。彼らはやがてカトリック改宗させられモリスコ呼ばれるが、最終的に1609年一団となって追放されるまで(モリスコ追放)、征服過程の非常に初期からとどまっていた。追放されるまで、彼らは新設され王国複雑な問題表していた。モリスコその人数の多さから経済活動本質的に欠かせない存在であり、しばしばムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール (en) のような地元イスラム教徒との協定励起した。彼はキリスト教君主から、モリスコ文化様々な寛容程度与えることを許されていた。しかし一方で、彼らはキリスト教君主対す忠誠欠けモリスコ救援のためにオスマン帝国連れてくるという実際または想像上共謀をしているとみなされていた。 キリスト教徒支配対しイスラム教徒側から反抗がしばしば起きた。最も恐れられたのはムーア人首領ムハンマド・アブー・アブダラ・ベン・フザイル・アル・サフイール(アル=アスラクとも)による反乱だった。1244年1248年1276年に彼は重要な反乱率いた。これらの反乱初期には、彼は事実上フカル川南部土地イスラム独立国家として獲得した。しかし、彼はすぐに降伏させられた。二度目反乱では、ハイメ1世もう少し戦闘で死ぬところであった。しかしアル=アスラクも最終的に捕らわれ彼の生命これまでのキリスト教君主との長期関係を理由助命された。三度目反乱では、アル=アスラク自身殺害されたが彼の息子イスラム教徒社会的不安を助長し続け地元イスラム反乱は常に視界中に残り続けた1283年ペドロ3世は、バレンシア海事商務館(enアラゴン王国の準司法組織で、海事・商法処理するためにその後地中海沿岸都市広まった)を設置した。これはスペイン初のことだった。 ジャウマ1世の孫であるジャウマ2世は、ビアル=ブソト協定よりさらに自軍南進させる最終攻撃を、1296年始めた彼の遠征ムルシアとベガ・バハ・デル・セグラ周辺肥沃な田園地帯向けられた。その地域は、地元イスラム教徒支配者カスティーリャとの協定によって縛られ王国代理人として治めていた。カスティーリャ軍は、どんな場合定まっていなかった王権主張するためにしばしば一帯略奪したカスティーリャ軍の略奪は、軍事境界線上の小競り合いそして常に変化する同盟関係特徴づけられていた。 ジャウマ2世指揮下の遠征は、以前カスティーリャ合意した境界南部となる、バレンシア王国範囲拡張するという点で成功したジャウマ2世軍はオリウエラムルシア獲得したカスティーリャアラゴン間の有限国境となるはずだったものは、最終的に1304年のトーレリャス条約 (Sentencia Arbitral de Torrellas) で合意され1305年エルチェ条約によって修正された。エルチェ条約ではムルシアカスティーリャ渡されオリウエラアリカンテエルチェバレンシア王国渡った。これでバレンシア王国南部国境線確定したキリスト教国による征服過程で、バランシヤ、アルプエンテ、デニアムルシア4つタイファ征服された。当時標準考慮すると、ほとんどの領域開始から50年未満獲得され最大領土拡張1世紀未満完了したので、やや迅速な征服とみなすことができる。この速い過程支払われることになっていた、社会的政治的な不安の代価は、王国内に多くいるイスラム教徒人口存在だった。彼らはキリスト教国の一部になることを望まず、彼らはイスラム教徒ある限り機会与えられなかった。

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レコンキスタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 19:53 UTC 版)

メルトラ」の記事における「レコンキスタ」の解説

レコンキスタの状況において1238年ポルトガル王サンシュ2世によって征服された。メルトラ地方におけるイスラム支配世紀はここに終わったは、南部ポルトガルキリスト教徒による征服で欠くことのできない役割担った騎士修道会サンティアゴ騎士団封土となった騎士団拠点1316年までメルトラ置かれた。レコンキスタ時代からある城の大半頑丈なダンジョンを含む)、そして封建的な権利特権en)の証書1254年授けられた。 北アフリカ固く結ばれていたつながり断たれメルトラグアディアナ川経済的な重要性レコンキスタ後衰退した15世紀から16世紀ポルトガルマグレブにおいて数カ所の都市征服したとき、メルトラはつかの間の経済関連復活果たした北アフリカ展開するポルトガル軍穀物供給するためであった1512年マヌエル1世新し特権授けた

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レコン・キスタ

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ゼロの使い魔の用語一覧」の記事における「レコン・キスタ」の解説

アルビオン中心に起こった宮廷革命運動及び、その中心組織「聖地」奪回貴族共和制による統治という大義掲げ国家越えたメイジたちの集まり結成された。代表はオリバー・クロムウェル配下フーケ(マチルダ・オブ・サウスゴータ)、ジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルド。

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