虐殺があったとする証言とは? わかりやすく解説

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虐殺があったとする証言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:40 UTC 版)

南京事件の証言」の記事における「虐殺があったとする証言」の解説

実際に従軍した元日本軍人、外交官報道記者などの証言多数存在する。ただし、証言者によって目撃した事件現場被害者それぞれ異なることに注意陸軍 谷壽夫当時陸軍中将第10軍隷下第6師団長。南京攻略時、南側より南京城攻めた戦後日本南京事件責任者一人として逮捕南京軍事法廷送られた。当人自身部隊軍紀厳正虐殺はしていないしながら中島・末松らの部隊が行ったものだと主張した。これは司令官クラス公に南京虐殺存在認めた唯一のものだとされる中島今朝吾事件当時陸軍中将南京攻略時、第16師団長として北側より南京城攻めたその日記がジャーナリスト木村 久邇典中島評伝をまとめるために遺族取材をしていた際に提供され中央公論助け得て分析された。その日記には、この戦いにおいて捕虜取らない方針であること、麾下佐々木到一少将等の部隊それぞれ捕虜を千や超える単位処理したものがあること、彼自身七、八千人捕虜まとめて「片付くる」予定だが、それには「大なる壕を要し中々見当らず」代案考えていること、刀の使い手が来たのでたまたまいた捕虜7人を試し斬り使ったこと等の記述がある。なお、中島掠奪積極的に参加しており、南京国民党政府宝物類を組織的に掠奪している。一方、他の将兵掠奪については、日記に、他の部隊士官・兵士中島管轄地域にまで入って盗みを働くこと、しかも司令部標識出されている建物でさえ平気で盗みを働くことが、頻発していることに驚き本人自身管轄地域で行う分にはよいが其処までいくと行き過ぎだ非難している。また、掠奪について松井大将が「(国民党政府財宝類の)かっぱらい主人方面軍幕僚なりと突込みたるに、是はさすがにしらばくれて居りたり」(←この記述から中島自身財宝類の盗み働いている幕僚らの黒幕であると思われる。)と書き、さらに中島一流ホテルから掠奪した家具自身南京での居所運び込んでおり、「(松井大将が)家具問題何だけちけちしたことを愚須愚須言い居りたれば、国を取り人命を取るのに家具位を師団持ち帰る位が何かあらん、之を残して置きたりとて何人が喜ぶものあらんと突ぱねて置きたり」と述べている。 田中隆吉憲兵隊統括する兵務課長、さらに兵務局局長太平洋戦争中東条首相当時務める。その際各種報告書見たという。また、陸軍内に人脈も広い。双極性障害があり、その症状として見られることがあるとされる驚異的な記憶力を持つ。東京裁判備えたGHQ検察局尋問で、南京事件当時総司令官である松井大将がやめさせようとしたが彼の力ではできなかったので其の責任を負わねばならないだろうと語っていた事、中島今朝吾中将蒋介石住居から大量財宝持ち帰ったことを調査した事、佐々木到一中将が誰よりもひどい人物だったと思う事、その他に谷壽夫中将柳川中将の軍、朝香宮の軍も問題のあったものとして挙げて証言している。 佐々木到一は、南京攻略時中今朝中将麾下歩兵30旅団長(当時少将)を務める。中島今朝吾日記で門で1万5千人処分したことを聞いたと書かれた人物南京警備司令官となり、南京城内の敗残兵剔抉担当本人書いたものによれば12月22日粛清委員長となり、24日査問開始1月5日まで続く。敗残兵ばかりでなく、些細な理由根拠単なる住民・難民多数剔抉され連れ去られたが、その後無事に帰らされた者は少数とされる南京全体での大量虐殺証言多く佐々木による剔抉はじめから殺害予定であったケースが殆どであった事が疑われるが、他の者が行った虐殺との区別も困難である。捕らえられた者たちの裁判が行われた記録少ない。敗戦とともに、軍や政府命令で、南京においても関係諸機関資料証拠隠滅のため廃棄・焼却されたために、文書の形での物証は殆ど残っていないが、逆に彼の措置問題なかった事を示す資料殆どない憲兵統括する兵務課畑の長い田中隆吉は、GHQ検察局尋問対し佐々木が誰よりもひどい人物だったと思うと答えている。佐々木死後遺族のもとにあった遺稿出版された。(本人回想自伝通常解されているが、厳密にいえば回想記日記体風の自伝的小説分からない。)その中では、南京攻略戦戦闘激昂し兵士降伏してきた敵兵上官制止聞かず殺した事件のことや、南京陥落後の査問等による拘束者については”収容と書いてある一方で城外近郊捕捉し敗残兵について下関で何千人処分”したと書いている。 小川次郎第十軍(柳川兵団)に同行した法務官。その陣中日記には、上海から南京及び其れ以降における日本兵行った暴行・窃取・掠奪・強姦・殺人・放火また日本軍内部では上官脅迫記されている。事態憂慮しつつも、とくに南京あたりからは個人判断として強姦悪質なものを除いて裁かないことにした(このため憲兵からは苦情受けている)等の記述見える。短期間いた南京自体では裁判について触れられていないが、南京出立後、彼の下に送致されてくる事件が行った先での事件南京から追って送られてきた事件不明である。また、南京への途上で度々国際問題になることを恐れて証拠隠滅策を講じることを献策している。 航空兵団所属田中大尉よりの通信下関揚子江突出してゐる桟橋の端で、捕虜敗残兵斬殺及び銃殺処分している所を見て来たとし、河には「あるある首のない奴、首ばかりの奴何百と浮きつ沈みつしています」と、当時極秘扱いとされた文書述べている。 秦賢介1957年山田支隊幕府山で2万人捕虜虐殺したと書いた。但し、両角連隊長当人現場にいなかったものの福島民友新聞郷土部隊戦記」でこれは暴動のような状態になったため自衛発砲であった反論している。山田支隊従軍した福島民報の箭内正五郎は、当時賢介南京にも上海にも行っていないので、戦後兵隊酒飲み話に話したことを書いたのだろうと述べている。鈴木明は秦賢介の文はフィクションであるとし、本多勝一も「不正確な伝聞」と評し板倉由明は秦賢介は「ニセ証言者」と否定した。(ただし、小野賢二当時兵士取材した研究によれば初めから処刑のための準備なされてたとするまた、清水潔調査によれば両角連隊長主張戦後だいぶ経ってから加害者側の自己弁護として言い出されたものであり、自衛発砲説の方が寧ろ信頼できない説とされている。) 田所耕三 は1971年に『アサヒ芸能』で、「私ら下関南京城西北端の船着場)にいた。鉄条網鉄条外して捕まえた連中十人ぐらいずつ束にして、井げた積み上げて油をかけて燃やしちゃった。(略)女が一番の被害者だったな。年寄りから何から全部やっちまった。トラック部落乗りつけて、女ども略奪して兵隊にわける。兵隊十五人から二十人女ひとり支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから必死なんだろうけど、なかなかいい」「見せしめ為に捕虜を傷つけることもやった。耳を削ぎとる。鼻をけずる。口の中に帯剣差し込んで切り開く目の下帯剣を横にして突っ込むと、魚の目のようなドロリとした白いものが五寸くらい垂れる。こんなことでもやらないと、ほかに楽しみがない。上陸以来久しぶり遊戯なんだから。将校知らんぷりをしていたな」と証言その後田所証言洞富雄アイリス・チャン本宮ひろ志の『国が燃える』で引用された。またニューズウィーク1997年11月30日田所証言(第114師団)を紹介しながら、1971年インド・パキスタン分離独立でのパキスタン軍兵士によるベンガル女性へ集団レイプを除くならば、南京事件での集団レイプ世界史最大だったと主張した。しかし、板倉由明によれば水戸兵士なら第102連隊下関までは行っていないし、また数日後には南京から転進しており、証言信憑性がないとしてニセ証言者」であると主張した。ただし、兵士たち時間空いたようなときに他の部隊管轄する地域にも遊びで行くようなことがよくあることは佐々木倒一の私記でも書かれている阿羅健一主張では、後に彼が田所面会すると「(ルポライターが)南京での残忍な話に執心するので、しばらくして南京での作り話してやると、ルポライター目の色を変えてそれらを書き留めだした。その態度見て、わたしはいっそう膨らまして話をした。ルポライターはさらにのってきた。それがあの証言で、私自身城内入ってもいなければ下関にも行っていない。あの話はまったくのウソなのだ」と言ったとする。 赤星義雄 (歩兵13連隊二等兵)は1979年創価学会青年部反戦出版委員会本で、14日下関揚子江岸で「広い川幅いっぱいに、数え切れないほどの死体浮遊し」「5万人以上」「ほとんどが民間人死体」が流れていた、と証言板倉由明は、流速時速キロとみて数時間たてば南京から見られなくなる。濁っており一部しか水面上に出ていない水死体遠望して軍民別、年齢などが解かるわけがない下関中国軍によって焼き払われ住民避難していたと思われる城門9日閉鎖され住民出入りできない状態だった。揚子江上にいた米、英、日の艦船連絡線乗組員便乗新聞記者碇泊場司令部日記にはこのような記録がない、等の疑問点挙げた。(対してあまりに死体多く屡々絡み合って停滞することは考えられる又は虐殺続き次から次へ大量死体流されていた可能性がある、下関はもともと揚子江渡ろうとしていた住民殺到していたし建物等12日でも半分程度か焼払われていなかった、他国艦船上流避難しており遅れて南京戻っている等の点が無視されていることが指摘しうる。) 高城守一 (輜重6連隊小隊長)も同創価学会青年部反戦出版委員会本で、南京2日いた。1937年12月14日下関(シャーカン)の兵站まで物資取り行った下関には数隻の輸送船護衛艦見えた揚子江に「民間人思われる累々たる死体浮かび」「十名前後クーリー射殺されるのを目撃した」「おびただしい糧秣揚陸されていた」と証言。しかし、板倉は、軍艦突入12月13日15時40分で、「軍艦以外の貨物船などが南京まで運航するのは、機雷除去進んだ18日以降であり、14日というのはおかしい」と批判。(しかし、当時新聞記事によれば軍艦13日夕には下関あたりに来ており、記者がどの程度実態把握しうるかはともかくとして、それは機雷除去順調に果たし遡上し、着いたものとされている。そもそも機雷除去済んだのは18日乃至その直前とすることに何ら根拠挙げておらず、自身結論合わせて勝手に作った自説思われる。) 中川誠一郎(仮名野砲六連隊) も同創価学会青年部反戦出版委員会本で中華門攻撃加わり陥落後、「南京城素通りして、ただちに蕪湖へと向かった」。途中下関で、延々と黒焦げの何百台という自動車と何百人にのぼる住民死体見た。「『この肉もうまいぞ』と出された肉を何人かの兵が食べた」。それは中国兵大腿部の肉だったと後で聞かされた、と人肉食証言した秦郁彦はこの証言者の「老農夫をなぐり殺したシーン見た」「二百人近敗残兵・・・“捕虜をつれて戦ができるか”と一喝され数日後皆殺しにしたと聞かされた」回想を、下関釈放捕虜行く末だった可能性が高いとして採用中華門南京城南端で、蕪湖南京南南西90キロ辺りにある。下関南京北西端城外だから、素通りしたら下関通らない応召し(兵歴記載無し)砲の取扱い訓練経ず6日後には分隊長となり、蕪湖では野砲離れ宣撫班班長になった軍歴は不自然である。 中山重夫(陸軍戦車隊の上等兵修理兵)は、1984年6月23日朝日新聞で「南京入城2日前、郊外雨花台で」「白旗掲げて来る中国人を壕の上に座らせては、日本兵次々銃剣刺し殺していく。一突きでは死に切れ苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、子どもであろう見境なしの殺りくが続いた」「4時余り凝視していた」と証言戦争語り部として記録映画なども紹介された。しかし、その後の畝本正巳や板倉由明調査で、中山所属していた戦車第一大隊岩仲義治大佐)は中山門正面戦闘をしており、雨花台目撃することは場所的に時間的に不可ではないかとの指摘があった。また田中正明朝日新聞事実確認依頼する拒絶された。 曽根一夫1984年頃、 手記で、分隊長として面子から捕虜斬首をした、分隊先頭決死渡河をした、分隊員を率い掠奪、(分隊員の後で輪姦殺人をした、等々と記す。 笠原十九司執筆した教科書世界史B』(平成5年検定)は曽根文章似た文を引き、“掠奪”は軍の命令だったとした。板倉原本提示要求したが、笠原一橋出版無視した板倉文部省改定要求し、『諸君!』に論考発表するなど各方面働きかけて、出版側は「命令」が曽根本からの引用であることを認め内容修正された。もともと曽根一夫戦友の名誉を守るためとして所属部隊については明かしていなかった。 板倉由明によれば曽根取材断られたことから調査行いその結果曽根手記あるよう歩兵隊分隊長ではなく砲兵隊馭者であったとする。但し、その調査戦友会名簿から曽根と同じ字(アザ)出身の6名に尋ね2名から曽根歩兵ではなく砲兵聞いた別ルートからもその人物を知る人会えたというものだが、板倉自身がこの地域曽根姓が多いことを述べており、彼らの言う曽根果たし問題曽根一夫であるのか、単なる同姓同名ではないのか、判然としない。この当時一般に第三者による住民票調査に対して自治体規制が緩やかであった頃だが、板倉曽根親族等への確認行った形跡はない。板倉当時曽根写真襟章白っぽく見えるところから、砲兵襟章黄色であるためで曽根砲兵であったことは間違いないとしている。その一方で板倉自身が、連隊にいた元兵士から提供され昭和13年編制表では曽根一夫観測徒歩通信となっていたとし、これらの食い違い放置している。この時期曽根自身体調崩して入院し其の儘亡くなったともいわれ、本人乃至その親族への確認はない儘となっている。また板倉は、曽根身元だけでなく手記内容そのもの否定し馭者である曽根南京辺りであまり出歩くことがあるとは考えられ掠奪などありえないとする。その証として、例え曽根南京光華門で辻・街角と書いているが、此のあたりに人家など無いからこれ虚偽とする。但し、板倉清野戦術(焦土戦術)で人家焼き払われたことを人家がなかった根拠とするものだが、むしろ曽根焼け跡見てそれらを辻や街角だと述べている。また、板倉曽根死体散乱していたと述べていることに対し清野戦術で人が追い払われていたから死体がある筈がないとしている。これは近郊農民全て清野戦術焼け出され南京城内の安全区全て逃げ込んだ筈だとする板倉本人自説に基づく主張であり、南京城外には通常の農民居住者もとより寧ろ城内から逃れ出てきた市民、また他地域から日本軍逃れて流入してきた難民多数いて、南京城外にも幾つかの難民集落さえあった事実無視している。また、日本軍補給無視して南京進軍したことが糧秣欠け現地部隊掠奪やそれに伴う非行招き南京での軍の非行繋がったとする曽根主張対し板倉当時兵士日記等を根拠南京向けて出発した当初11月半ば頃の時期補給最悪その後改善されており、曽根説明糧秣欠乏時期半月ずらされており、虚偽とする。しかし、軍中央の命に背いて事前に計画無かった南京進軍始めながら補給改善されるとは考えにくく、まさに曽根述べ通りに、南京進軍途上あらたな土地での掠奪により補給状況改善され可能性高く実際に山砲兵第19連隊のある兵士日記には16日から中国人家屋から徴発始め25日には酒の掠奪できることを喜ぶ者が出るまでになっていることが書かれている。さらに、板倉は、曽根糧秣受取下関地区行った際に南京城内を斜めに切って目的地にまっすぐ向かわず城壁外側沿ってわざわざ北回り下関行ったこと、帰路下流側迂回してさらに遠回り帰ったことを理由に、手記偽りとしている。が、曽根手書き地図渡されただけで、南京城内の道路多数存在する門の位置関係分かっているわけではなく確実に下関行こうとすれば寧ろ城壁沿って行くのが自然である。また、往路焼けた瓦礫道路にも散らばり進みにくかったとあり、荷物増えた帰路はそれを避けたものと、普通に手記理解が可能である。また、板倉糧秣受領輜重主計・大行李などの仕事であり事件当時の他の者にも糧秣受領出たものはいなかったとしているが、逆に曽根馭者であったならば輜重部隊から協力求められ可能性もある。先の編制表での通信手との記載食い違いなどもあり、確かな人事の動きやこの時期扱いについての確認が必要である。板倉曽根糧秣受取関し下関兵站基地になったのは12月下旬以降であるから偽りとするが、もともと下関水上交通主体とはいえ物資集積地であり倉庫等が蝟集し、以前からの中国側物資日本軍が既に陸路運び込んだ物資集積されていた可能性がある。米人記者ダーディンによれば12日段階下関施設清野戦術による焼き払いにもかかわらず、まだ半分程度残っていたとされる。現に、のちにマギー神父下関に残る外国人資産現地人資産区分のため、下関への同行日本側から求められている。また、下関水上輸送回復したのは12月下旬以降とする説は、あくまで後記梶谷日記あるように、明らかに下関地区における死体片付け終了後18日停泊場の看板上げをし、その後本格稼働した考えられるためであるが、板倉特段根拠なくそれまで機雷除去がすんでいなかったという前提設けてそれゆえ下関地区艦艇機雷強行突破かまわず来ていても商船は全く来ていなかった筈という自説に基づく主張をしている。実際には、たびたび揚子江岸や下関では捕虜の処刑や敵死体持ち込みが行われており、後記太田供述梶谷日記見られるように、12月下旬以前から死体片付け一部水上輸送を度々繰り返しており、また、近辺商船待機していた可能性も高い。現に、太田日記では商船便乗して太田はいったん15日夕に下関来ている。また、当時の新聞報道からは、海軍による機雷除去水上封鎖除去13日南京到着までに順調に進んでいるように見える。そのほかには、下関大虐殺戦友残虐談・部落襲撃もその戦友らは否定している、日記創作であったとする。一方で秦郁彦は「ほぼ(事態解明したいとの)要望答えてくれる絶好証言記録」として評価し」、他の「伝聞記」でなく曽根手記から捕虜殺害例、紫金山付近住民殺害クーニャン狩り残虐行為心的要因引用した板倉由明は秦に曽根手記の全削除要求した東史郎1987年頃、日記日本共産党新聞赤旗連載し自著『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』を刊行証言では、1938年1月23日南京転出のため立寄った下関思しき波止場で、なぎさに敵兵死体が山となって転がっており、毎日トラック敗残兵積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた産経新聞によると、隠れている女の子を見つけると犯した1人ではなく5人で犯したその後殺し、火をつけて燃やした罪悪感はなかった、上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人郵便袋の中に入れガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言したとされる。しかし、元上官から名誉棄損提訴された。1993年笠原十九司東史郎手記から農民虐殺について教科書世界史B』に引用していたが、上杉千年出版社対し出典示せ裁判係争中東日記からの引用であれば不適切だと主張し、さらに、板倉出版社に8回以上のファックス電話で「勝手にデモでもかけなければだめか」と伝え教科書編者笠原十九司には「こちらから出向く」と簡易書留送ったという。板倉は、停泊司令部12月28日までに港湾死体処理を終わらせた、敗残兵掃蕩第二次便衣狩り1月5日完了しているという自説基づいて東史郎証言その内容抵触するため事実反するものと主張した前記名誉棄損裁判批判的な立場の者からは、もともと日記仮名書かれており、当人目される人物も無関心であったところ、板倉自身加わった周辺の者の奨めによって、裁判自体起こされており、前記教科書内容真偽をめぐる裁判係争中であると抗議して内容差し替えさせる目的であり、裁判藉口して言論表現出版の自由妨害しようとするためのマッチポンプだとして批判された。板倉は、教科書中の証言内容引用を、自説前提に、検証なき引用主張した。元となった東史郎手記戦後本人浄書したもの原本紛失していた。板倉はこれを何故浄書などしたのか、改竄等し行為非難した。これに対し本人浄書するのが何故いけないのか、松井大将も裁判準備用に自身日記まとめていた、それをも非難するのかとの反論を、板倉東支持者らから受けた。さらに、板倉裁判にあたって南京大虐殺無かったことや東史郎手記誤り証明できる別人資料発見された、これが裁判起こす決め手となったとして雑誌等喧伝していた。しかし、原告側は、東側からこの資料不審な点指摘され説明ができなくなり抄録については他の者がまとめ直したのであることを原告側認めるに至った。さらに、そのおおもととなる元の日記原本自体も、裁判前関係者間でやり取りされる間に紛失していたことが東支持者側から日記書き手へのインタビューにより明らかにされた。しかし、教科書自体抗議受けて東支持者らのいう所によれば、"板倉狙い通りに"内容差し替えられた。名誉棄損裁判自体は、南京虐殺自体裁判所判断するところのものではないとされ二審までに、上官がやったという、冬服人間郵便袋に入れて殺害物理的に不可能であり、日記数年後書いたもので、元の手も本当にあったものか疑わしい判断され被告側上訴したものの損害賠償最高裁確定した。これについては、厚手冬服とはいえ大型郵便袋に入れられないとは限らないという批判の他に、なぜ元の手記の存在まで否定するのか、原告側ですらそこまで主張しておらず、さすがにこれは法的に最高裁勇み足ではないかとの批判さらには、後から現物発見されもすれば裁判所にとってもいい恥晒しではないかとの声が出たという。その後中国側研究者日記の内容検証、そこに書かれ習俗実際に現地存在している事を確認少なくとも元となる手記存在したことは間違いない判断されたという。東は訪中するたびに、周囲圧力跳ね返して真実認めた英雄として各地歓迎を受け、アメリカで2015年カリフォルニア州公立高校世界史授業東証言が教材として使用されている。 太田寿男 が撫順戦犯管理所1954年供述した内容1990年報道された。(産経新聞1990年9月4日毎日新聞1990年12月14日夕刊) 。供述では、A少佐昭和12年12月14日から15日まで下関死体処理作業携わり6.5死体のうち3.5万人揚子江流し、3体を対岸焼却太田16日から18日まで1.9万人、A少佐は1.6死体流した南京碇泊場司令部14から18日までに処理した死体10万人(産経新聞)。同司令部以外の南京攻略部隊による5万人の死体処理合計する15死体処理したとする。毎日新聞は、供述事実なら、中国側155千余」と合わせ南京大屠殺30」が証明されることになり、『侵日軍南京大屠殺史稿』他に要旨載せた報じた。これに対して板倉由明梶谷日記12月25日に「常熟より太田少佐外来る」とあり、板倉はこれを太田少佐それまで現場である下関に全くいなかったものと考え、したがって太田少佐には死体処理に関わっていないアリバイがあるとして、太田戦犯管理所中国側意を迎え虚偽供述したもの解した。これに対しては、死体処理の話自体正しいものの単なる太田少佐記憶違い(事件から17年後の1954年供述)により日付等にズレ生じたものと見る説だけでなく、寧ろ太田少佐記憶正しく太田少佐は許浦鎮→下関(死体処理作業)→常熟蕪湖配属移動し蕪湖への移動途中で下関にまた立ち寄ったと見る説等がある。いずれにせよ太田少佐陸軍船舶輸送司令部(陸軍海上・河川等の水上輸送担当する部署)に所属しており、常熟・下関間を輸送のために往来した河川港死体処理為に駆り出されたりすることに何ら不思議はない当時揚子江は冬の渇水期日に日に水位下がっており、日本軍揚子江流したつもりの死体あまりに多すぎて互いに絡み合い河底河辺ひっかかり水位低下とともにそれらが水面顕われるに連れ桟橋河岸輸送船接岸できなくなるため、死体処理を行わねばならなくなった伝えられるまた、これらの処理は度々行われた可能性がある。現に、南京陥落直後下関地区敗残兵狩り携わっていた梶谷も、他の同輩らが去ったと見られる26日以降になって新たに必要となったとみられる1000体ほどの死体処理携わっている。板倉は、死体処理梶谷日記にある梶谷部隊だけが行った26日以降1000体のみで、それまで開設準備多忙のために死体処理には取り掛かれなかったと主張太田供述は後から見聞きした話を元に作話したものとし、毎日新聞社報道や対応に抗議しているが、社は謝罪しなかった。板倉太田供述は「客観的に信憑性ゼロ」と主張している。産経新聞部下日記を下にしたとして信憑性否定した毎日新聞は「内容信用できる」と報じた江口板倉への書簡で、梶谷日記(の内容)に触れないことは説得力欠けると考えており、竹田昌弘記者から毎日梶谷日記触れなかったことについては説明受けたこと、また同記者には自分コメント表現がより断定的になっている事に苦言呈したこれ以上毎日と争うつもりはないこと、しかし板倉がこのことを問題にすることに自分書簡等を使う事は書簡編集等せず原文通りに使う分には差支えないことを伝えたとされる。後に毎日梶谷日記についても報じた一方早稲田大学教授中原道子太田供述を“真実”とする。板倉中原著作7論点11ヵ所に真実ある証明求めたが、「日中両国専門家研究をふまえ」とのみ岩波側から回答があった。中原板倉の証明要求を「前向き建設的な姿勢いささかも読み取ることができ」ないと言い、自らは「戦争知らない世代歴史真実伝える」として板倉一蹴したその後1993年出版され南京戦史資料集第2巻を見ると、26日まで開設準備多忙のために死体処理には取り掛かれなかったとの板倉主張には潤色があり、実際に18日には既に一通り開設準備終わり19日からは板倉表現では曖昧に業務と船の投錨となっていたものの、実際には荷揚作業もいったん本格的に開始していたこと、さらに梶谷日記記載されたものだけでも22日にも使役兵を使って数百体の死体揚子江投棄が行われていたことが記されていた。(26日梶谷死体処理は、太田供述にある18日までと梶谷日記にある22日揚子江投棄され死体が、河の水位低下とともに水面上に再露出したのである可能性が高い。)しかし、編集者基本的に板倉見解に立ち、その論拠は、梶谷日記根拠として概ね以下の通り。①(本題とは関係ないが)太田停泊司令部小舟南京着いたとするが、陸路到着しているという点で太田供述一般的な信用性欠ける、②太田15日南京到着し16-18日死体処理携わったとするが、到着次第本来の輸送業務着手する筈、③太田以前安達少佐6.5万人死体処理をしたことになっているが、安達実質行えたのは1日だけで6.5体の処理は不可能な筈、④17~18日佐官以上は入城式や慰霊祭参加死体処理不可能。ただし、実際には、①太田供述には、司令部小舟常熟11日出発したとあるだけである、寧ろ梶谷日記では撫順11日部隊長らが明日来ると聞いて迎え準備始め12日同所合流13日自動車手配できたので出発したとしており、太田供述一致している、また、南京までの距離を考えれば乗換えは当然と思われる、②下関地区にあった死体市内から運び込まれる死体道路塞がり、それを撤去しないと物資輸送どころではなかったと考えられるまた、梶谷自身15日敗残兵捜索等で本然業務の筈の輸送業務に現に取り掛かれていない、③この部分はあくまで太田安達から聞いた話である、また、梶谷部隊以外の安達少佐部下全て安達少佐自身含めて当初から死体処理従事していた可能性が高い、実際に13日夕を最後に梶谷日記から消えていた安達少佐部隊長が、地区分担とはいえ太田少佐手伝い入って余裕出来たとも考えられる16日になって、ようやく梶谷日記梶谷とともに下関地区巡視する形で再登場してくる、④梶谷日記自体入城参加者全体の1/3とあり、実際に幕府山田山大隊長少佐)は捕虜処分のため入城式に出席していない等、佐官以上は全て出席したとは限らない、まして太田そもそも南京攻略戦参加者ではなく初めから死体処理の手伝い南京に来ただけの者であり、板倉もそれを分かっていた筈である、全くの読者欺くためだけの記述である。また、梶谷日記には16日後続部隊来たるとあり、これが15日夕に下関到着した太田少佐らのことで、死体処理の手伝いをして、その終了後、いったん太田は元の配属地区戻っていた可能性がある。 船橋照吉 は、 1991年石原発言許さない京都集会実行委員会冊子歴史偽造するのは誰か?』で証言した。しかし、板倉由明主張によれば当時改訂版準備中の『南京戦史』の資料編載せることも考えて文書電話でいろいろ板倉確認すると、基本的事項あやふやで、肝心の点は忘れたといい、板倉によれば証言歩兵連隊実戦記録異なる点があるものの、それへの説明もなかったとする結局板倉資料価値無し判断したものの、その後船橋の方からコンタクトをしてきて、東史郎悪口まで送ってきた上、結局船橋電話別の者に自身輜重特務であったことを告げたという。板倉は、輜重特務であれば(この板倉説明曖昧であるが)経歴矛盾少なくなるとし、(はっきり言えることとしては)自身トーチカ攻撃をしたり、捕虜機関銃虐殺したのは架空の話となるとする(目撃した可能性は残る)。さらに、大小田正雄の立会会談で、船橋日記偽造したものだと認めた板倉はする。船橋は「東史郎赤旗記者下里正樹(「隠され連隊史」著者)、吉田保京都機関紙印刷センター代表)などに説き伏せられてイヤイヤやったものだ、とか、旅費は持つから中国行こう、と誘われた」とも語ったと、板倉はする。このようなことが起こることについて、板倉は、体験談創作して人気者なりたい小遣い稼げるという人間現れるであろうとしたが、もし、板倉言った通りのことが実際に起こったであれば、むしろ、この経緯は、船橋南京大虐殺論に組しても大して利にならなかったため、今度虐殺否定論に鞍替え図ろうとしたことを物語っている。であれば板倉は、船橋日記偽造白状したとするが、実際には、初めから虐殺否定論に鞍替えするための当人の持込ネタであった可能性が高い。また、東史郎らの言う「中国へ行く」とは、自らの行為告白・謝罪のために現地訪問をすることであり、板倉自身東史郎告白まで虚偽扱いしており気付いてないようであるが、板倉の話が事実であれば、むしろ東史郎自身同様に船橋現地でその体験語って同様な活動取組んで然るべき人間本心から信じていたことになる。 松岡環編纂証言集南京戦閉ざされ記憶尋ねて-元兵士一〇二人証言」(社会評論社)が証言者を仮名にして2002年刊行された。取材記録自体ビデオ写真等に録ってあるとされ、実際に一部ニュース・ステーション関連して放送された。東中野修道阿羅健一らの否定派証言一部内容不自然さ間違いがあると主張して批判しただけでなく、小野賢二らの虐殺存在派からも証言者の細かな誤認等をそのまま紹介しており、それがいわば虐殺否定派口実として利することになりかねないとみるような批判があった。これに対し証言集め活動をしている市民団体メンバーである伯耀は、兵士たち自身体験係わるような部分については史料基づいて否定派こそ実態知らず誤っていることを示して反論、さらに単なる誤植による兵士生まれ年誤り突いて揚げ足をとるような否定派やり方への批判だけでなく、大虐殺否定派・存在派共に証言者の証言重箱の隅を突つくような事をするではなく当人たちに当時伝わり当人たちが信じていたままの証言忠実に録る事こそ大切で、それらを突き合わせることで見えてくる真実があるのではないかとの反論をした。 海軍 奥宮正武1997年著書で、1937年12月25日、碼頭の下流倉庫群に約30名の中国人無蓋トラック運ばれ構内広場では、縛られ中国人十数名が軍刀銃剣惨殺され揚子江投棄されていた。12月27日にも同じよう処刑が行なわれていたので、混乱もなく中国人どうやって連れてきたのかと、下士官尋ねると、下司官は「城内で、戦場跡片付けをさせている中国人に、”腹のすいた者は手を上げよ”と言って手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラック乗せているとのことです」と説明また、日本刀銃剣処刑しているのは、弾薬節約のために上官から命じられたと答えた証言2014年、第24駆逐隊海風信号兵だった三谷翔は松岡環募集に応じて証言をするようになった証言によれば12月12日烏竜山砲台を揚子江から攻撃し12月13日中山埠頭の方から中国人死体載せた4隻の筏を目撃陥落4日後の中山北路広場にあった5060体の死体の山の「多く老人女性で、子どももおり、すぐに一般市民であることがわかった」との証言中国網インタビュー答えた12月18日午後軍艦ブリッジ見張りをしていると、下関南岸から機関銃銃声聞こえたので望遠鏡で見ると中国人処刑されていた、その後数日、朝から晩までトラック20人、30人連行され処刑された、「南京離れたのは12月25日だが、それまで下関の岸では毎日うだった」と証言三谷は「中山北路だけがこうだったわけでなく、南京全体地獄だったはずだ。陸軍恥知らずで、やりすぎた」と述べている。江蘇省社会科学院孫宅巍は、この証言は、時、地点死体処理方法など既存大虐殺史実符合し重要な史料的価値持っている評価した三谷2015年日本テレビNNNドキュメントでもインタビュー答えた報道今井正剛 (朝日新聞)は1956年に、(1937年12月15日夜)「数百人、数千人」の中国人下関(シャアカン)、揚子江の碼頭で射殺された音を聞き今井は「おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であつたほかは、その大部分南京市民であつただろうこと想像難くなかった」として、敗残兵でない者も含まれていたとした。さらに、早朝遺体処理していた苦力たちも射殺され、ある将校は約2万人をやったと言った、として「完全な殲滅掃蕩」である、とした。当時新聞紙面にのった12月17日東京朝日新聞座談会では事件について触れていない。南京虐殺者数を限定する立場に立つ阿羅健一は、座談会出席していた橋本登美三郎が、当時虐殺について聞いていないと戦後自分答えたまた、当時の報道規制について、何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたと、答えたとしている。しかし、現に検閲逮捕摘発怖れての自主的な社内検閲当時実際に行われており、例え当時新聞では戦地地名や軍の部隊名は全て伏字となっており、雑誌社から派遣され石川達三著作生きている兵隊』は削除伏字多数施してなお、発禁を受け、作者逮捕されることとなっている。橋本登美三郎戦後自民党から国会議員立候補しロッキード事件逮捕され失脚するまで長く自民党の有力議員としてキャリア積んできた人物であり、その縁故そのように言ったか、橋本・阿羅いずれか誤り言っているものと考えられる阿羅は、さらに東京朝日新聞足立和雄は「今井君は自分見て書く人じゃなかった。危険な前線には出ないで、いつも後方にいたと聞いている」「今井君は人から聞いたことを脚色して書くのがうまかった」と証言した主張する竹本忠雄大原康男は、当時今井スケジュールから現場を見ることは不可であった評している(ただし、実際記載内容を見ると、15日夜の座談会後の夜更け大量兵士が行させられ連行され虐殺され事件遭遇した考えられ、なぜそれを無理と考えているのか全く不可解である。また、この種の揚子江岸で処刑するために敵兵揚子江に連れていく行進については佐々木元勝も目撃している。)。また、南京攻略軍の総司令官であった松井石根大将陣中日誌南京事件無かったのような方向改竄し出版したとの非難受けたことで知られる田中正明は、普段今井同行していた朝日新聞記者森山喬から「そんな話はついぞ聞いたとがない」と聞いた主張する東京日日新聞佐藤振寿カメラマンは、その手記に、南京中山門内の励志社先で百人ほどの武器持たない無抵抗敗残兵日本兵殺害されるのを見たことを記録している。また、後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問され、「写真撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかったと述べている。 守山義雄1964年以前証言初出不明)、非戦闘員市民数多く殺した多く婦女子暴行加えて殺した少なくとも4万人殺害されたと証言また、戦時中ドイツ留学生だった篠原正瑛守山からの伝聞として、日本軍は、老人婦人子供など三数千中国人城壁内に追い込んで城壁の上から手榴弾機関銃皆殺しにし、城壁内は血の海長靴がつかるほどだったと述べた。 ただし、南京守山同行した東京朝日新聞足立和雄は、南京で我々は「(長靴に血が流れこむなどという)そんなことは見ていないし、後で守山君から聞いたともない」と証言している。(長靴はともかく、城壁のほとりに生民死体ツクダニのように折り重なっていたことは、杉山平助当時朝日新聞寄稿している。少なくともこれを含めて杉山被害状況無辜生民受けた被害として述べている。また、当時朝日新聞尾張版には、兵士市民不明ながら南京城内外揚子江あちこち万という死体があることが述べられている。 大宅壮一 (従軍記者)は1966年、 「入城前後入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模虐殺があったということは、 私も目撃者として十分いえるね。」と証言している。 読売新聞の 真柄 カメラマンは、入城式の二日ぐらい前に土手のある小さい川に中国人二百人位が「機関銃やられていた。あれが世にいう南京大虐殺”だったのではないのか」と証言映画南京」の製作者白井茂 は「虐殺現場二度見た。一度は柵があったように思う。はるか離れているところで、銃殺していた。数は覚えていない。揚子江でない川のところで、機関銃撃っているところも見た。(略)川にとび込んで向う泳ぎついた者もいた。二百人ぐらいいたと思う。場所は覚えていない。当時、“大虐殺”という噂はなかった。」と証言映画南京」の録音技師藤井慎一 は「挹江門付近は物凄い死体で、死骸の上に板を渡し、その上自動車通っているほどだった。空襲のあとが生々しかった。小さな川の傍らの門の中で捕虜らしき者を撃っているのを見た。(略)白井氏と一緒だった。(略)それ以外にも、銀行の裏百人以上が殺されているのを見た。(略)虐殺の噂はきいたように思うが、見たのはこの時だけである。」と証言文官 事件当時南京大使館参事官であった 日高信六郎 (外交官) は東京裁判松井行動問題がなかったことを証言するために弁護側証人として出廷自身尋問供述基づいて弁護をした。読み上げられ尋問調書の中で既に、1938年1月1日上海松井会って部下中に悪いことしたものがいると初め知ったと語るのを聞いてそれまで松井知らなかったのだという印象持った述べていたが、退廷直前裁判官質問に対して正月挨拶行った際に酒をのみ自分質問したわけでなく松井自ら語ったことと回答し当時の報道では、寧ろ日高が口をすべらして、あらため虐殺存在裏付けたように受止められている。1966年には、「残虐事件最大原因一つは、上層部命令徹底しなかったことであろう。たとえば捕虜の処遇については、高級参謀松井さん同様心胆砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心手伝って無闇に殺してしまったらしい揚子江岸に捕虜たちの死骸数珠つなぎになって累々打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。(中略)兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種嗜虐的心理なるらしい。(中略荷物市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった」と語っている。

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