史料的価値
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 22:34 UTC 版)
『梅松論』の分類は、「歴史書」とする立場と「軍記物」とする立場があるが、いずれにせよ史料としての信憑性は高いと考えられている。一般論として、完全な軍記物である『太平記』と記述が衝突した場合は、『梅松論』の方が信頼性に優るとされる。 無論、無条件に信頼して良い訳ではなく、他の古史料と同様、取り扱いには注意が求められる。たとえば、足利貞氏(尊氏の父)の死を2年ずらして、元弘3年/正慶2年(1333年)に父の喪に服す尊氏を北条氏が強制的に元弘の乱後半戦に出兵させたかのように描き、尊氏の鎌倉幕府裏切りを正当化するかのような作為が見られる。戦闘の細かい描写についても、稀に『太平記』の方が史実を反映している場合があり、例えば建武の乱の第一次京都合戦で、尊氏と新田義貞が交戦した場所が『太平記』巻第14では大渡、『梅松論』では宇治となっているが、一次史料も交えて比較すると、この場合は『太平記』の方が正しいと考えられている。
※この「史料的価値」の解説は、「梅松論」の解説の一部です。
「史料的価値」を含む「梅松論」の記事については、「梅松論」の概要を参照ください。
史料的価値
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 20:10 UTC 版)
正長の土一揆において、実際に民衆がどのような徳政を勝ち得たのかを理解する史料は乏しく、例えば京都においては、幕府が徳政禁止令を出したことは確認されているが、徳政令そのものを出したことを確認する史料はない。だが、奈良においては、興福寺関係の文書とならび、「柳生の徳政碑文」が残されているため、徳政令の具体的な内容をうかがうことが可能となった。また、領主側の立場からの史料ではなく、農民側の立場からの史料である点にも、史料価値が認められる。 永原慶二は、興福寺に残される文書「禁制 徳政令 条々」(正長元年11月)を、徳政の実施規則を定めた文書であるとの見解を示している。この文書と碑文の年次が一致するため、永原は、大和では興福寺が徳政令を発布し、その結果、「柳生の徳政碑文」が刻み付けられたと結論づけている。
※この「史料的価値」の解説は、「柳生の徳政碑文」の解説の一部です。
「史料的価値」を含む「柳生の徳政碑文」の記事については、「柳生の徳政碑文」の概要を参照ください。
- 史料的価値のページへのリンク