文禄・慶長の役
文禄・慶長の役
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文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]。
注釈
- ^ 1709年の初筆を1760年に模写したもの。
- ^ ただし晋州城攻略は実施した。
- ^ a b c 毛利家文書では七番隊とされる。しかし、松浦古事記等には六番隊と同じグループに書かれており、毛利輝元は実際には六番隊と行動を共にしていた。徳富蘇峰等も先駆衆を六軍とする。
- ^ a b c 毛利家文書では八番隊とされる。松浦古事記には隊に番号が付けられておらず、朝鮮国都表出勢衆を3つのグループに分けていた。
- ^ a b c 毛利家文書には書かれてない諸部隊。松浦古事記による。
- ^ 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
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- ^ 朝鮮の人口推移:1392年(554万人)、1522年(1061万人)、1591年(1409万人)、1637年(1063万人)、1822年(1621万人)、1910年(1742万人)。Estimated data are from Kwon and Sin, "Choson." Composite recorded data are from the Hogu ch'ongsu (1789); Choson Wangjo Sillok entries and T'akchiji entries are from the Seoul National University edition of the Hogu ch'ongsu; records from 1864 to 1924 are from Zensho, Chosen. The Journal of Economic History, Vol. 68, No. 1 (Mar., 2008), pp. 244-282
- ^ ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。
- ^ 19世紀末の歴史家であるジョージ・H・ジョーンズによって推定された軍人と民間人の犠牲者は100万人である。合計10万人以上の日本側の死者数と仮定すると、朝鮮・明側の死者数は90万人と推定できる
- ^ a b 日本・中国(明)の元号や朝鮮の帝王紀年。
- ^ 出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。
- ^ a b 朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」より。スオープ准教授(中国軍事史)は「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べた。また「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」とも述べている。
- ^ ここでの高麗はコリアと同じ意味。
- ^ 後述する素行の朝鮮属国説も参照(動機に関する諸説)
- ^ 出兵とすると「秀吉の朝鮮侵略戦争」(世界史用語集、山川出版社)などとの説明が必要になるため、征伐が避けられるのとは逆の理由で回避される。ただ、これはかなり最近の話で、朝鮮出兵はまだかなり用いられている。
- ^ 教科書の用語ではこの名称は使われていないが、日本史リブレットなどの副読本には登場。
- ^ 日本語読み:じんしんわらん、朝鮮語読み:イムジンウェラン(임진왜란)。
- ^ 日本語読み:ていゆうわらん、朝鮮語読み:チョンユウェラン(정유왜란)。
- ^ 日本語読み:ていゆうさいらん、朝鮮語読み:チョンユヂェラン(정유재란)。
- ^ 日本語読み:じんしんそこくせんそう、朝鮮語読み:イムジンチョグクチョンジェン(임진조국전쟁)
- ^ 後述するが、『懲毖録』によると景轍玄蘇も朝鮮との交渉において言及した。ただし徳富蘇峰は『近世日本国民史』では売言葉に買言葉で玄蘇の本音ではないと寸評している[32][33][34]。
- ^ これらは『高麗史』や『成宗実録』の記述に基づくものである。済州島の島民も倭寇に加わった(または倭寇と偽って海賊行為を働いていた)という説もあるが、韓国の研究者は高麗賤民や済州島海民の倭寇参加の事実に抵抗している。
- ^ 倭寇というものの、高麗賤民もしくは済州島海民を主体とする集団であったという説が有力。(前期)倭寇の8-9割は朝鮮人であったという朝鮮人説には異説もあるが、いずれにしても日本側から出征した勢力はわかっておらず、前者でなければ正体不明。
- ^ ただし、これについて日本側には外寇があったという記録がない。
- ^ 李承晩による竹島の占領を除く場合。
- ^ 村井 1993, p.218且つ聞く、倭人、中原に言いて曰く、「朝鮮は我に服事す、我まさに其の上に序すべし」と云えりと。乃ち厚待の恩を念わず、反りて驕心を生じ、班を上国に争う。其の言此の如く、唇のこれより大いなるは莫し。交隣の道、亦まさに節あるべく、永く絶つ能わざると雖も、此の時に及びては、裁制するが当なり—中宗39-4壬辰
すでに1540年(天文9年)の時点で、日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣した湖心碩鼎ら第18次遣明使が、「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と要請していた[37]。
- ^ ただし朝鮮においては、当時よりこの文禄・慶長の役を倭寇の最大最後のものと考えたことは注意が必要である。彼らは倭軍と称するものと倭寇とを区別しなかった。この認識の誤りは当時の対応の失敗だけでなく、(後に訂正されるまで)その後の韓国史学会の認識の誤りも生み出した。
- ^ a b 琉球王国は2年1貢や、1年1貢で、回数が多いほど重用され、冊封体制内での待遇が良いことをさす。他の冊封国では3年1貢が多い。
- ^ 毎年元旦の正朝使、明皇帝の誕生日の聖節使、明皇太子の誕生日の千秋節使、および正朝廃止後は冬至節。
- ^ 正学あるいは官学とも言う。
- ^ 編者注:「○○説」と自らの学説・主張を名乗らない学者が多く、後世の学者それぞれによって命名・分類されたため、各説の呼ばれ方には微妙に違いがある。また表記の都合で、似たような説はまとめて表記した。
- ^ 福岡藩の朝鮮通信の応接役で、柳成龍の『懲毖録』の日本版の序文を書いている人物。
- ^ ルイス・フロイスは『日本史』第55章で「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している。
- ^ この日付は岩沢愿彦の考証による推定。
- ^ 宗氏の一族で、対馬国守護代を務めた。宗義智とは意見が合わず、後に暗殺された。
- ^ これは島津氏、後北条氏、伊達氏など諸大名の平定と同じやり方で、帰順すれば許すが、逆らったり無視した場合は大軍を派すというのが、秀吉の常套手段だった。
- ^ ここで言う「これまでの国王」とは足利将軍家を指す。秀吉と足利義昭の間にはもとより主従関係はなく、秀吉は将軍位を求めなかったので、簒奪とは言えず、日本の情勢に疎かったことが窺える。
- ^ 海路不慣れで道が分からないの意味。
- ^ 柳成龍の『懲毖録』による。代々の柚谷氏は朝鮮との交渉役の家柄であったのに、懲毖録では康広が朝鮮を侮辱した言動が書かれている。日本側記録に康広の処刑の話はなく、一族(康広の息子と思われる)柚谷智広は戦役後の国交回復交渉に携わって朝鮮で獄死した。
- ^ 宗義調は隠居してすでに死去。子の宗義智が継いでいた。
- ^ 宗氏のいつものやり口で無関係の囚人を引き渡した。
- ^ 柳成龍の『懲毖録』によるとこれが朝鮮が手にした最初の日本製の火縄銃だということだが、兵器廠に死蔵され顧みられなかった。
- ^ a b 宣祖は側室の仁嬪を寵愛し、その息子の信城君を溺愛していたが、群臣は光海君に従っていた。鄭澈(西人派)は仁嬪の弟の金公諒が専横の傾向があるので排除しようとしたが、李山海(東人派/北人派)の子を通じてその話が金公諒に漏れ、仁嬪が国王に泣きついたことから、宣祖は激怒して鄭澈の官職を剥ぎ、追放に処した。
- ^ 金誠一はこのとき「必ず来寇があるとは限らない」という曖昧な否定論を述べた。翌年4月23日、日本軍が席巻する中で彼は慶尚右兵使の職務にあったが、解任逮捕された。しかし再び東人派の援護で、直後に慶尚右招諭使に任命されて、義兵の徴募に当たった。徳富 1935, p.398
- ^ 対馬の士は対外上は朝鮮陪臣でもあり、柳川調信は先の引見で朝鮮国王より嘉善大夫の爵位を授与されていた。参謀本部 1924, p.18
- ^ 。またこのとき、加藤清正が傷心の秀吉に外征を勧めて自らが先鋒を務めることを請うたという話があるが、これは清正の立場や前後の事情から考えて明らかに辻褄が合わず、鶴松死亡説(鬱憤説)に沿って作られた寓話か、加藤家傳が清正の役割を大きく誇張して書いたものと思われる。また、同年8月13日に清正が領国に対して36か条に及ぶ準備を指示する書状(「渋沢栄一文書」所収、東京大学史料編纂所所蔵影写本)には、大規模な軍事作戦に対する危機感を顕わにしている(中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」)。
- ^ 文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった学研 編『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年、74頁。ISBN 4056002789。
- ^ 動員されたが出征していないため一般的に軍の合計には加えない。しかし元来はこれらもすべて渡海する計画であった。
- ^ 生駒親正の弟。生没年不明。
- ^ 大塩正貞の子。旧字で「大鹽與一郎」。生没年不明。
- ^ 長崎奉行に出世。
- ^ 慶長の役では軍目付。
- ^ 佐竹氏は出撃を命じられ、代わりに佐竹義久が出陣した。
- ^ 伊達政宗は出撃を命じられて、自主的に3,000人と出陣した。
- ^ 鍋島勢は1万で、波多党は鍋島配下とされたが、命令に背いて独自の大名として動き、再び秀吉の勘気に触れた。
- ^ 豊臣秀勝は巨済島で病死したので織田秀信に替わる。
- ^ しばしば陸上部隊としても活動。兵員の半分ほどは水主。
- ^ この敗戦の責任を問われ、4月25日に朝鮮側が斬首刑に処した。朝鮮史編修会 1937, p.442
- ^ この計画の創案者は李鎰自身であった。
- ^ そのような事実があったかどうかは不明。『加藤家傳』など加藤清正が先鋒であったとする書籍もあり、日朝交渉にかこつけて小西行長が抜け駆け的に単独突入をしたという説もあるが、概ね清正を立派な武人、行長を小人として描くのは典型的な江戸時代から好まれた“ストーリー”であり、徳富蘇峰は小西行長が一番隊で、加藤清正は二番隊であったのは純然たる事実として、否定する。また、中野等は豊臣秀吉が渡海せずに主戦場にいなかったこと、小西行長が関ヶ原の戦いで滅んだことなどで、文禄・慶長の役における加藤清正が実像を超えて肥大化していることを指摘する。
- ^ 開戦前に郡県に準備ないという理由で、徴兵に反対した人物。
- ^ 朝廷に不幸が訪れる不吉の前兆のこと。梁の武帝(蕭衍)の故事により「熒惑 南斗に入れば、天子 殿を下りて走る」と言われる。
- ^ 御史台の官僚のなかで君主を諫める役職のこと。
- ^ ただし明には上奏していないために非公式である。
- ^ 朝鮮側の記録は加藤清正を講和反対派と勝手に決めつけて、このときも景応舜は加藤清正に捕まって殺されたという記述があるが、事情を考えれば戦乱の中でその後どうなったのか分からないわけであって殺害者を特定できるというのはおかしい。
- ^ 朝鮮国王が出す勅令のこと。君主からの直接命令であり身分の違いなく絶対的服従を要求される。
- ^ 李山海の弾劾によって辞職させられた西人派の前領議政。尹根寿、尹晛は兄弟。
- ^ 『西征日記』では村民の隠していた船を数隻見つけたとあり、『懲毖録』では家屋を壊して筏としたとある。
- ^ 「乱民」や「叛民」とは朝鮮朝廷に逆らった朝鮮人民衆をさす。彼らの論理では日本軍は賊軍であるので、賊軍に従う民衆の意味。
- ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II』第38章
- ^ 軍役の義務のない知行のこと。投降しても朝鮮国王の生活費は保証すると約束したことを意味する。
- ^ なお、ここでいう「三国」とは日本・朝鮮・支那のことであり、もっと一般的な唐・天竺・本朝のことではない。
- ^ 東殿局は大谷吉継の生母。東殿局と客人局の両名とも北政所付きの侍女で、侍女を介して北政所に情勢を説明するための手紙であったと考えられている。
- ^ この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)と合わせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。
- ^ 朝鮮人は女真族のことを「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ
- ^ 清正の報告内容は「オランカイは朝鮮の倍ほどの広さで、これを通って明に入るにはモンゴルも通らねばならないので無理である」「オランカイは畑地ばかりで雑穀しかとれず、兵糧米が手に入る見込みはない」「オランカイには日本の守護のような統治者がおらず、伊賀者・甲賀者のように砦を構え、まるで一揆国のようである」というものである[254]。
- ^ 旧参謀本部・日本戦史においても、日本側戦死者を1600人としている[257]。
- ^ 豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった[344]。
- ^ いずれも漢城占領後に渡朝した。
- ^ 柳成龍は日本軍の火縄銃(朝鮮では鳥銃)を大きな脅威としている。
- ^ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
- ^ なお、他言語版に見られる日本水軍を強化するために秀吉がポルトガルのガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
- ^ なお、フロイスには誇張癖があり(『フロイスの日本覚書』(松田毅一、E・ヨリッセン著)より、ヴァリニャーノのフロイス評)、彼は朝鮮には渡っていないので伝聞に基づいていること、また日本の大陸侵攻について「無謀な企て」と否定的に記していることに留意が必要[誰?]。
- ^ ただし、朝鮮の「片箭(ピョンジョン)」という弓は遠距離用の短い矢を用いれば最大射程は450mに達するともいう。
- ^ これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。
- ^ 壮年男子は農耕やその他の経済活動に優先的に従事させる政策を採用したため
- ^ 朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が新規に編成した部隊を率いて来援するのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
- ^ 義兵を束ねる諸将が両班層(貴族階級)であるのに対して、兵士の大部分が奴婢、李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などであったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると再び農奴身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。文禄・慶長の役で官職を授けられた将軍も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった[390]。
- ^ 日本名では「小琉球」または「呂宋国」。
- ^ (Gómez Pérez Dasmariñas)
- ^ (Juan Cobo)
- ^ a b 日本二十六聖人の1人。秀吉によって長崎で処刑された。
- ^ この前後に出征を命じられ、晋州城攻防戦に参加した。
- ^ Francisco de Tello de Guzmán)
- ^ 米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している
- ^ 万石以上の知行のある大名としては唯一の戦死。
- ^ 不在の上杉景勝を除く。
出典
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- ^ 變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉—宣祖実録
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- ^ 明史 卷238 "倭砲矢如雨,軍少卻。如松斬先退者以徇。募死士,援鉤梯直上。倭方輕南面朝鮮軍,承訓等乃卸裝露明甲。倭大驚,急分兵捍拒,如松已督副將楊元等軍自小西門先登,如柏等亦從大西門入。火器併發,煙焰蔽空。惟忠中砲傷胸,猶奮呼督戰。如松馬斃於砲,易馬馳,墮塹,躍而上,麾兵益進。將士無不一當百,遂克之。獲首功千二百有奇。倭退保風月樓。夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及参將査大受率精卒三千潛伏東江間道,復斬級三百六十"
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- ^ a b http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"
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- ^ 右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』
- ^ 慶長の役で全羅道への進発前には慶尚道へ戻って築城することが決まっていた証拠『八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』 http://tokugawa-tokugawa.blogspot.com/2015/12/blog-post.html
- ^ a b 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるべく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
- ^ 旧参謀本部 1995, p. 278.
- ^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001 "而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
- ^ a b 「乱中日記」
- ^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_004 "賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。安危、成敗, 決於江上, 而但令崔遠守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ 大賊衝斥, 將迫都城, 天兵寡弱, 我軍潰散, 今日之事誠可痛哭。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ 『懲毖録』柳成龍
- ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001# "丙申/提督接伴使張雲翼啓曰: "卽刻自稷山戰所回來唐兵說稱: ‘天安、稷山之間, 不意倭賊先鋒, 皆着白衣, 遍野而來, 唐兵等初謂稱朝鮮人, 不爲進逼。 俄而倭先放砲, 唐兵一時跑馬廝殺, 交戰良久, 倭人中箭被棍死者, 幾至五六百, 斬級三十餘顆, 解副摠、楊叅政, 各手斬二級。 而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。’ 且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。 敢啓。" 傳曰: "知道。""『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ https://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=wnb_13009001_002&gubun=kor 朝鮮王朝実録 "經理楊鎬使副總兵解生等, 大敗賊兵于稷山。 先是, 賊自陷南原, 乘勝長驅, 進逼京畿。 經理楊鎬在平壤聞之, 馳入京城, 招提督責不戰之狀, 與提督定計, 密選騎士之精勇者, 使解生、牛伯英、楊登山、頗貴領之, 迎擊于稷山, 諸軍及我人皆莫知也。 解生等伏兵於稷山之素沙坪, 乘賊未及成列, 縱突騎擊之, 賊披靡而走, 死者甚多。 又遣游擊擺賽, 將二千騎繼之, 與四將合勢追擊, 又破之。 是日, 經理、提督請上出視江上, 上不得已而行, 人心洶懼, 士庶皆荷擔而立, 內殿避兵西幸, 及捷報至, 京中乃稍定。"
- ^ 賊於初十日, 搶掠安城, 進犯竹山境。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ 征韓録 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/117
- ^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009016_002 "今無故忽爲退遁。萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ 「日本戦史・朝鮮役」より https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/198
- ^ "明軍44,800人、朝鮮軍12,500人" 旧参謀本部『日本の戦史 朝鮮の役』〈徳間文庫〉 徳間書店、1995年、284頁
- ^ 清正高麗陣覚書
- ^ 蔚山高石城堅甚我師仰攻多損傷『明史・朝鮮伝』
- ^ 本月二十四日(和暦二十三日)平明, 總兵偕 高都督 進兵, 距 蔚山 十餘里駐兵。聞左協之軍, 已爲接戰, 問于摠兵, 則曰: ‘賊有四營, 已破東營, 諸營之賊, 今日必遁云。’ 臣等親進賊營五里許 牛巖山 上望見, 則外城則已破, 但山上有小城, 甚爲堅固, 諸軍不能進。午後, 盡招中協之兵進來, 而日暮不剋接戰。二十五日(和暦二十四日)早朝, 諸軍四面薄城, 賊無數放丸, 天兵及我軍, 多數死傷, 而無登城破城之具, 俄而退兵。二十六日(和暦二十五日), 楊經理 招都元帥 權慄 語之曰: ‘今日欲休天兵, 令本國軍兵進攻’ 云, 故 權慄 督諸軍進薄, 賊放丸如雨, 兵多死傷而退。自二十六日(和暦二十五日) 夕下雨, 至二十七日(和暦二十六日)終日風雨, 諸軍冒雨進攻。二十八日(和暦二十七日), 亦爲進兵, 死傷如前。二十九日(和暦二十八日), 欲聚柴草, 焚燒賊營, 而天兵及我軍, 死傷甚衆, 不能進到城下, 夜二更退來。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/204 「日本戦史・朝鮮役」
- ^ 鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬『明史・朝鮮伝』https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7320
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- ^ 茅遊撃 標下哨總 湯文瓚 , 中丸致死『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
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- ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十日 「慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州」
- ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 『朝鮮宣祖実録』"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。"
- ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 『朝鮮宣祖実録』”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死”
- ^ 旧参謀本部 1995, p. 308.
- ^ a b 旧参謀本部 1995, p. 309.
- ^ a b c 旧参謀本部 1995, p. 310.
- ^ "是時, 東路天兵二萬四千, 我兵五千五百十四名; 中路天兵二萬六千八百, 我兵二千二百十五名; 西路天兵二萬一千九百, 我兵五千九百二十八名; 水路天兵一萬九千四百, 我兵七千三百二十八名, 共計十餘萬。資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。" 『宣祖実録十月十二日条』
- ^ 光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)
- ^ 『柳川市史・史料篇V・近世文書』(前編)P.240、佐田家文書A12より、秀包と広門の参戦が判明。
- ^ a b 旧参謀本部 1995, p. 317.
- ^ 中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館 254頁
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- ^ 旧参謀本部 1995, pp. 314, 316.
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- ^ 文禄・慶長の役(壬辰倭乱)開戦初期における. 朝鮮側の軍糧調達とその輸送. 六反田 豊
- ^ a b 小川隆章「李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察」『環太平洋大学研究紀要』第20巻、環太平洋大学、2022年3月、83-88頁、CRID 1390573792568771072、doi:10.24767/00000794、ISSN 1882-479X。
- ^ 『歴史群像』2010年4月号 158頁〜167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
- ^ a b c d e f 『歴史群像』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
- ^ "舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。」遂進至釜山・・" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』
- ^ "李舜臣等攻釜山賊屯、不克。"『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)
- ^ 「釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・」 『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』 日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第100号
- ^ 遊撃とのあいだで上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P270
- ^ それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・ 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P276
- ^ 急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい(加徳島)東萊・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・ 『(文禄三年)五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状』 日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第175号
- ^ a b c d 『歴史群像』2010年4月号 167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
- ^ 番船唐島(巨済島)を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・ 七月十六日付、四奉行(前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状『征韓録』
- ^ 兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・ 三月一三日付、立花宗茂宛、豊臣秀吉朱印状 (他に類似の、同日付、朝鮮在番諸将宛、豊臣秀吉朱印状が複数あり)
- ^ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫, 2000年, 84頁。歴史上の推定地域人口を参照
- ^ 歴史上の推定地域人口を参照
- ^ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
- ^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人 (43%) が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
- ^ 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事 [2]
- ^ ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮」、川勝平太訳、中公文庫、1991年、63-64頁。1569年のイギリス枢密院の調査(フランスのスパイを通じて後世に伝わった)では、機密軍24000のうち銃保有数は6000であった。また、1589年にフランスに派遣されたイギリス軍は、四連隊、3600人の兵士より成っていたが、枢密院の理想では一連隊のうち銃砲兵が占める割合が60%であったものが30%にとどまっていた。どの連隊も銃にこと欠いており、ハンプシャー連隊などは、26挺しかなく、割合はわずか3%であった。兵器庫から300挺を補充したものの、全体で1100挺程度の装備であった。これに対して、1584年の日本で、龍造寺隆信軍が有馬晴信・島津家久軍と対戦したときには、軍勢25000で、うち鉄砲隊は9000人であった。当時のイギリスと日本の断片的な比較であるが、人口を加味しても、日本の銃保有状況は圧倒的であった(ペリン同書,160-162頁)。また朝鮮の役の最中の1597年、フランセスコ・カルレッチの報告によれば、30万人の日本軍が朝鮮に出兵していたが、日本にはまだ多くの兵が残留しており、そのほとんどが1挺また2挺の銃を装備していた(ペリン同書,71頁)。
- ^ ノエル・ペリン前掲書、80頁
- ^ ”(火縄銃の)遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。(中略)弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」”「懲毖録」柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 282-283頁
- ^ 「シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである」『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ 「ところで彼らの鉄砲(エスピンガルダ)はどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。「(明の)兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり」「従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった」「(日本軍の)刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
- ^ 『懲毖録』1979, p. 187.
- ^ 此自倭犯中國始有之。彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。
- ^ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店 (2000) 192頁
- ^ 『懲毖録』1979, p. 14.
- ^ ルイス・フロイスによると、日本は「それ(=火砲・矢)以外の武器、特に刀剣は短く、大して役立たない」という事前情報を得ていた。『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第36章
- ^ a b c 『懲毖録』1979, p. 290.
- ^ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m 『壬辰戦乱史』/李炯錫
- ^ 『懲毖録』東洋文庫版 140頁では「数十歩」と記録
- ^ 『李朝実録』宣祖万暦20年5月6月
- ^ 『壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い』/矢沢康祐
- ^ 『秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争』金奉鉉/彩流社
- ^ たとえば大石学「江戸の外交戦略」角川学芸出版、2009、李進熙『日本文化と朝鮮』日本放送出版協会、1980、上垣外 憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』講談社学術文庫ほか。
- ^ 笠谷 & 黒田 2000, pp.23-25
- ^ a b 辻 1942, pp.415-418
- ^ 徳富 1935, p.284
- ^ 辻 1942, pp.420-427
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- ^ a b 村上直次郎『異国往復書翰集. 増訂異国日記抄』雄松堂出版、2005年。ISBN 4841930116。
- ^ a b Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.
- ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5
- ^ 辻 1942, pp.441-444
- ^ 稲葉継陽「加藤清正の歴史的位置」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)
- ^ 『朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略』 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年
- ^ 『島津家文書』『吉川家文書』
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- ^ a b 井上泰至「朝鮮観の変転-近世の歴史叙述と対外認識を論ずるために-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P3-25
- ^ 田中康二「国学者の歴史認識と対外意識-本居宣長『馭戒慨言』をめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4
- ^ 金時徳「フヴォストフ事件と『北海異談』-壬辰戦争の戦争史的な検討と『海国兵談』の利用を中心に-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P49-84
- ^ a b c 合山林太郎「近世漢詩に描かれた壬辰戦争」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P459-477
- ^ 中野等『文禄・慶長の役』吉川弘文館
- ^ 李曁『松窩雑説』"原其設心, 不啻慘於兇賊之利刃, 甚可畏也。"
- ^ “임진왜란 때 경복궁을 불태운 것은 왜군이 아니라 조선 백성이었다” (朝鮮語). 다음 뉴스 (20171010060606). 2020年1月20日閲覧。
- ^ 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社
文禄・慶長の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 19:09 UTC 版)
朝鮮出兵においては小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当。占領地の支配も行った。この間、「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めいろはを教え、髪型を日本風に変えさせ召し使うなどの活動が散見する。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭らの私軍を立花宗茂とともに錦山に撃破し、両名を討ち取っている。
※この「文禄・慶長の役」の解説は、「安国寺恵瓊」の解説の一部です。
「文禄・慶長の役」を含む「安国寺恵瓊」の記事については、「安国寺恵瓊」の概要を参照ください。
文禄・慶長の役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:15 UTC 版)
万暦20年(1592年)文禄の役が始まると、副総兵として四川兵を中心とする5,000の家丁を率いて朝鮮へ来援し、万暦21年(1593年)4月末に鴨緑江を渡って本隊と合流した。この頃、既に日本軍は漢城から南方へ退いていたため、劉綎・査大受・祖承訓らは尚州の鳥嶺を通り、大丘から忠州まで進出した。この頃、日本側が第2次晋州城の戦いにより活発に作戦して全羅道に迫った事に対応して、総兵の李如松は南原に李平胡・査大受、咸陽に祖承訓・李寧、陜川に劉綎を配置して守備させた。その後、戦局は和平交渉のために膠着した。9月に明朝廷は宋応昌と李如松を帰国させたが、劉綎(副総兵)・呉惟忠(遊撃)ほか7600人を朝鮮に駐留させ、劉綎の軍は朝鮮陸水軍も指揮下に入れて日本軍と対峙した。万暦22年(1594年)春には、明側の沈惟敬-小西行長のラインとは別に劉綎から朝鮮僧の惟政を介して加藤清正に別ルートで交渉を行っている。その後、劉綎が一時帰国するのは万暦22年(1594年)7月9日のことだった。宋応昌の帰国により朝鮮軍務経略が顧養謙になると両名は前後して帰国した。 休戦期も朝鮮に留まり、慶長の役では総兵に昇進して三路のうち西路軍の大将として、万暦26年(1598年)順天倭城の戦いにおいて水軍を率いた陳璘と共に水陸から順天城を攻撃したが被害を多く出して敗退した。三路のうち東路軍も第二次蔚山城の戦いで日本軍に撃退され、中路軍に至っては泗川の戦いで大敗を喫し壊滅的被害を受けていた。しかし、豊臣秀吉が死去したことにより撤退命令が小西ら日本軍に伝えられると、再び順天倭城を包囲したが、守将の小西らと劉綎は和議を結び、劉綎は一族の劉天爵を日本軍に人質として送り撤退を促した。日本軍が撤退した後、劉綎は無人の順天倭城を接収した。
※この「文禄・慶長の役」の解説は、「劉テイ (明)」の解説の一部です。
「文禄・慶長の役」を含む「劉テイ (明)」の記事については、「劉テイ (明)」の概要を参照ください。
文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)
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「日朝関係史」の記事における「文禄・慶長の役(壬辰戦争、唐入り)」の解説
ファイル:Gyeongbokgung map.jpg 朝鮮国王の住む景福宮の想像復元図。宣祖の逃亡で起きた朝鮮民衆の蜂起によって放火掠奪され、約270年後に興宣大院君が再建した 日本を統一した豊臣秀吉は中国の明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めた。対馬の宗義智は、秀吉の命令を変えて、朝鮮には秀吉の天下統一を祝賀する朝鮮通信使を送ってほしいと要請した。こうして約150年ぶりに通信使が派遣されて秀吉に謁見したが、秀吉は対馬が命令を変えたことを知らないために、李朝が降伏しに来たと錯覚した。秀吉は朝鮮国王に対して明の征服を先導するように求める書を渡す。 李朝には、通信使の派遣前から秀吉の朝鮮侵攻の噂が伝わっていた。そのため通信使の目的は、名目上は秀吉の日本統一を祝いつつ、噂の真偽を確かめることだった。しかし、通信使の正使黄允吉と副使金誠一は、それぞれ西人党と東人党という異なる党派に属して対立関係にあった。西人党の黄允吉は侵攻があると報告し、一方で東人党の金誠一は侵攻はないと報告をした。当時の李朝では東人党が力を持っており、金誠一の意見が採用された。のちに日本軍が一気に進軍できたのは、この誤情報も一因とされる。文禄の役ののちに通信使をつとめた黄慎は、関白は人臣であるため礼分の面では対等ではないが、天皇は政治に無縁であると観察した。 秀吉は明に行くために朝鮮半島を通行する要求を行ったが、李朝から良い回答がなかったため、朝鮮半島を攻撃した(文禄・慶長の役)。緒戦で日本軍は各地の朝鮮軍を破って平壌や咸鏡道まで進撃したが、伸びた戦線に対して義勇軍の抵抗を受け、李朝が宗属している明軍も参戦する。戦争の長期化を望まない小西行長などの領主がおり、明との講和交渉を優先させて、戦線を後退させたまま戦局は膠着した。秀吉の死去にともない日本軍が撤退して終戦となり、日本と中国・朝鮮軍との間で展開したこの戦争は16世紀東アジア最大の戦闘ともいわれる。交戦と治安悪化、食糧再分配と生産の崩壊と民衆反乱などもあり、朝鮮の国土は疲弊した。また、この時の騒動で役所に保管されていた戸籍なども燃やされ、その結果朝鮮半島では白丁が低減し、両班を自称する者が増加したと言われている。 文禄・慶長の役で荒廃した朝鮮半島の様子は、日本軍に従軍した僧の慶念による『朝鮮日々記』や、興福寺の僧による『多聞院日記』にも書かれた。
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文禄・慶長の役(1592 ~ 1598)
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「倭城」の記事における「文禄・慶長の役(1592 ~ 1598)」の解説
1592年4月、文禄・慶長の役開戦直後、釜山に上陸した日本軍は補給拠点を設けるため、釜山倭城を築造した。 同年11月、平壌を占領した小西軍が平壌に倭城を築城し、浮田は漢城の南である南山には倭城を築城した。 しかし、翌年1月、朝明連合軍の反撃に追われ始めた日本軍は、1593年5月から現在の慶尚南道海岸一帯に約20カ所の倭城を築造した。 文禄・慶長の役講和交渉が決裂し、再侵攻してきた日本軍は、これまで築城していた倭城を再び占拠し、日本の水軍は熊川倭城を占拠して根拠地とした。 この当時、日本軍は占領地を確実に確保するとともに、日本本土との連結のため、従来の築城した海岸一帯の倭城を補修し、東は蔚山、西は順天まで戦線が拡大し、この一帯にも倭城が新たに築城された。 倭城の一覧を示す(ほぼ北から順)。 番号砂塵名称とき築城守備所在地管理者(団体)兵力参照1 訥次倭城(Nulcha Waeseong) 1592年 第6軍 毛利輝元第6軍司令官 小早川隆景 第6軍司令官 小早川隆景第6軍 毛利秀包 立花宗茂 島津忠恒 日本軍 釜山広域市 江西区 訥次洞 山84-7 江西区 訥次倭城(2008年 発掘, 韓国文物硏究院)加徳島倭城 2 加徳支城(加徳島倭城支城) 1593年 第4軍 高橋元種第6軍 筑紫広門 立花宗茂 毛利秀包 立花直次 釜山広域市 江西区 城北洞 山43 江西区 城北倭城 3 加徳島城北倭城(Seongbuk Waeseong) 1593年 第6軍司令官 小早川隆景 左軍総大将 小早川秀包立花統虎 釜山広域市 江西区 城北洞 山43, 53, 52番地 江西区 4 機張城(機張 竹城里倭城)(Waeseong in Jukseong-ri, Gijang) 1593年 第3軍司令官 黒田長政 父子 黒田孝高 第2軍司令官 加藤清正 釜山広域市 機張郡 機張邑 竹城里 601 機張郡 33,000人 竹城里倭城, 豆毛浦倭城 (2002年 発掘)釜山広域市 記念物 第48号 5 金海 竹島倭城(Gimhae Jukdo Japanese Castle) 1593年 第2軍 鍋島直茂 鍋島勝茂 父子 第2軍 鍋島直茂 釜山広域市 江西区 竹林洞 787番地 一円 江西区 駕洛城, 竹島城, 金海倭城(2004年 発掘)釜山広域市 記念物 第47号 6 亀浦倭城(カードカイ城)(Gupo Japanese Fortress) 1593年 1次第6軍司令官 小早川隆景(責任)第6軍 筑紫広門 立花宗茂 立花直次 毛利秀包2次友軍司令官 毛利秀元 2次第3軍司令官 黒田長政 釜山広域市 北区 徳川第1洞 山93番地 釜山広域市 北区 5,000人 甘同浦城, 義城(2002, 2004年 発掘)釜山広域市 記念物 第6号 7 金海 農所倭城址(Nongso Waeseong) 1593年 第2軍 鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 酒村面 農所里 山22-5 農所公民館 5,000人 農所倭城神々倭城(2001年発掘), 竹島倭城の知城2001年(慶南文化財研究院) 8 馬沙倭城址(Masa Waeseong) 1593年 第2軍 鍋島直茂 父子 慶尚南道 金海市 翰林面 金谷里 山61-2 金海市 5,000人 土城, 竹島倭城の 知城 9 東萊倭城(東萊邑城址)(Dongnae Waeseong) 1593年 領主 吉川広家 第1軍司令官 小西行長 釜山広域市 東萊区 漆山洞 1-9 東萊区 釜山広域市 記念物 第5号『大東地志』 城池 甑山城 倭人所築. 10 東三洞倭城 1593年 第6軍 毛利輝元 釜山広域市 影島区 東三洞 188 椎木島倭城, 影島倭城東三洞倭城, 椎木島城, 絶影島 椎木島丹城 11 釜山鎮城(丸山城, まるやまじょう)(Busanjinseong) 1593年 第6軍 毛利輝元 父子友軍司令官 毛利秀元奉行 浅野長政(慶長の役の際に収縮·増築) 第6軍 毛利輝元 父子 釜山広域市 東区 子城路 99 (凡一洞) 釜山広域市 東区 18,700人 釜山広域市 記念物 第7号子城台倭城小西城、丸山城、釜山倭城の 支城 12 西生浦倭城(Seosaengpo Japanese Fortress) 1593年 第2軍司令官 加藤清正 第3軍司令官 黒田長政 蔚山広域市 蔚州郡 西生面 西生里 711番地 一円 蔚州郡 100,000人 蔚山広域市 文化財資料 第8号烽火城(2012年 発掘) 13 林浪浦倭城(せいぐわん城)(Imnangpo Japanese Fortress) 1593年 第4軍司令官 毛利勝信第4軍 島津豊久 伊東祐兵 高橋元種 秋月種長 第4軍司令官 毛利勝信第4軍 島津豊久 伊東祐兵 高橋元種 秋月種長 釜山広域市 機張郡 長安邑 林浪里 山48 機張郡 せいぐわん城発掘調査 : 2001年 14 永登倭城址(Yeongdeungpo Waeseong) 1592年 第4軍 島津義弘 父子 慶尚南道 巨済市 長木面 舊永里 山6-17番地出城: 長木面 舊永2道 34番地 巨済市 2,000人 唐島城, 永登倭城永登浦倭城舊永登倭城 15 松真浦倭城(Songjinpo Waeseong) 1593年 第5軍司令官 福島正則第5軍 戸田勝隆 長宗我部元親 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 山6-3 巨済市 甑城幼名: Jisepo慶尚南道非指定文化財 16 巨済 長門逋 倭城(Geoje Jangmunpo Castle) 1594年 11月 第5軍司令官 福島正則第5軍 蜂須賀家政 生駒親正 戸田勝隆 第5軍 長宗我部元親 生駒親正 慶尚南道 巨済市 長木面 長木里 130-43番地 巨済市 慶尚南道 文化財資料 第273号長木倭城軍港浦倭城 17 昌原 子馬山城(Jama Japanese Fortress) 1593年 第1軍 宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 城内洞 山15 昌原市 子馬倭城熊川倭城の支城 18 昌原 明洞倭城(Myeongdong Japanese Fortress) 1593年 第1軍 松浦鎮信 宗義智 慶尚南道 昌原市 鎮海区 明洞 山13 昌原市 熊川倭城の支城 19 昌原 安骨倭城(Angol Japanese Fortress) 1593年 水軍 脇坂安治 加藤嘉明水軍司令官 九鬼嘉隆 慶尚南道 昌原市 鎮海区 安骨洞 山27番地 外 昌原市 慶尚南道 文化財資料 第275号日本第一水軍基地(倭水軍第1基地、2009年発掘·東洋文物研究院)熊川 安骨倭城 20 昌原 熊川倭城(Ungcheon Japanese Fortress) 1593年 第1軍司令官 小西行長第1軍→ 宗義智大名 上杉景勝 慶尚南道 昌原市 鎮海区 南門洞 山211-1番地 昌原市 5,000人 慶尚南道 文化財資料 第79号南山倭城. 日本第二水軍基地(倭水軍第2基地) 21 迫門口倭城 1593年 7月 第6軍 毛利輝元 小西行長 部下 釜山広域市 中区 中央洞 Japanese castles in Busan (Korea) Sengoku Forum'迫門口' 22 梁山 架山里 孤浦倭城址(Hopo Waeseong in Gasan-ri, Yangsan) 1593年 日本軍 慶尚南道 梁山市 東面 架山里 山52-4, 山57梁山市 東面 湖浦路 26梁山市 東面 架山里 1120-6(梁山川下流の京釜線の下、)梁山市 東面 架山里1026-1, 1027-26, 1028-11梁山市 東面 架山里 1045-1 国有 孤浦城址文化財管理局、1977、『文化遺跡総覧』(文化財管理局、1977、「文化遺跡総覧」) 23 固城邑城(Goseong Japanese Fortress) 1597年 領主 吉川広家 桂元綱 第2軍 鍋島直茂 慶尚南道 固城郡 固城邑 城内里、西外里、水南里 一帯固城倭城: 固城邑 城內路136番道 42 固城郡 7,000人 慶尚南道 文化財資料 第89号固城倭城, 水南里倭城固城倭城は固城邑水南里64-1番地一帯に位置する。築城時期は丁酉再乱の時の宣祖30年(1597年)と宣祖31年(1598年)、吉川広家らによって築城された。固城邑城の南方の雪上に突き出たそごう地に築城した城で、固城邑城と接している。築城法は、日本式築城で最も高い場所に本丸があり、西側の本丸より低いが、規模が少し大きい2環が確認されており、本丸の東部から南部にへし折って大郭があるが、これが三環である。現在も本丸と2環、3環の両方が確認されており、城のかなりの部分が残存している残った本丸は傾斜度70度ほどで、倭城の築城方法を示しており、石材は自然石を用い、隙間には小さなくさびを入れた。 24 見乃梁倭城 1597年 第1軍 宗義智脇坂 安治辛島瀬戸口 柳川調信 慶尚南道 巨済市 沙等面 徳湖海岸道 147-1 . 倭城洞倭城, 廣里倭城, 土城見乃梁倭城3Dモデルの図案のみ残っている状態1593年に日本軍が朝鮮の水軍を制御するために築城した城で、1592年、豊臣秀吉は脇坂安治に巨済島に城を築城し、朝鮮の水軍に対する守備を堅固にしろ」と指示したという。本土から巨済に入る関門である堅内梁海岸沿いに位置し、日本軍が南海岸に築城した本城11ヶ所と支城7ヶ所のうち、一つの知性に見えたという記録がある。 25 南海 船所倭城(Namhae Castle) 1597年 水軍 脇坂安治第1軍 宗義智 第1軍 宗義智 慶尚南道 南海郡 南海邑 船所路 149 南海郡 1,000人 慶南発展研究院 歴史文化センター, 2004『文化遺跡分布地図-南海郡-』.高田徹, 2000, 「南海倭城の繩張り」 『倭城の硏究』4城郭談話會. 堀口健貳, 2005「畝狀空堀群を持つ倭城について」 『愛城硏報告, 愛知中世城郭硏究會』.南海倭城 26 釜山日本城(Busan Japanese Fortress) 1598年 第6軍 毛利輝元第1軍司令官 小西行長 左軍総大将 小早川秀包 釜山広域市 東区 凡一洞 釜山広域市 東区 史跡 第35号 (解紙)『增補文獻備考』21) 釜山浦城 甑山城 備局謄錄 並有倭人. 27 馬山日本城(Masan Japanese Fortress) 1597年 招待 伊達政宗第2軍 鍋島直茂 鍋島勝茂 父子 慶尚南道 昌原市 馬山合浦区 龍馬山道 142(山湖洞) 昌原市 12,000人 史跡 第36号(解紙)昌原倭城, 龍馬城『大東地志』 城池 江馬山城 倭人所築.『增補文獻備考』 舊江馬山城 備局謄錄 並有倭城. 28 泗川船津里城(Waeseong in Seonjin-ri, Sacheon) 1597年 第4軍司令官 毛利勝信第4軍(左軍) 島津義弘大名 池田景雄武将 中川秀成 立花直次 第4軍(左軍) 島津義弘第4軍司令官 毛利勝信第7軍 毛利輝元 慶尚南道 泗川市 龍見面 船津里 770番地 外龍見面 船津里 1082 一円 泗川市 10,000人 慶尚南道 文化財資料 第274号船津里倭城(2005年 発掘) 29 順天倭城(Suncheon Castle) 1597年 第1軍司令官(左軍) 小西行長(先鋒)総大将 兼 第7軍司令官(左軍司令官) 宇喜多秀家(先鋒)水軍 藤堂高虎(先鋒) 第1軍司令官(左軍) 小西行長水軍 藤堂高虎 全羅南道 順天市 海龍面 新城里 山1番地 外 順天市 13,700人 全羅南道 地方記念物 第171号(1999年2月26日指定)倭橋城、礼橋城(2001、2002、2004年 発掘) 30 勿禁 甑山里 倭城(Waeseong in Jeungsan-ri, Yangsan) 1597年 第3軍司令官(友軍) 黒田長政大名 伊達政宗第7軍 毛利輝元左軍総大将 小早川秀包 第3軍司令官(友軍) 黒田長政 黒田孝高 慶尚南道 梁山市 勿禁邑 曾山里 山15 梁山市 慶尚南道 文化財資料 第276号甑山里倭城日本による植民地時代朝鮮総督府宝物古跡名勝天然記念物昭和14年古跡指定台帳指定日本による植民地時代朝鮮総督府(宝物古跡名勝天然記念物 昭和14年古跡指定台帳指定) 31 蔚山倭城(Ulsan Japanese Fortress) 1597年 12月 第2軍司令官(友軍) 加藤清正第8軍 浅野幸長(公社)友軍司令官 毛利秀元(公社)監察官および監督(武士) 太田一吉部長 宍戸元続 加藤淸兵衛加藤安政大河内秀元 第2軍司令官(友軍) 加藤清正 蔚山広域市 中区 鶴城公園3道 54、一円(鶴城洞) 蔚山広域市 中区 16,000人 蔚山広域市 文化財資料 第7号(1997年10月30日指定)鶴城, 島山城(1985年 発掘)太田一吉
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文禄・慶長の役
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天正20年(1592年)から始まる文禄の役では1,500の兵士を率いて朝鮮に出兵。全羅道攻略の際、大鼓城の攻城でも一番旗の戦功を挙げた。碧蹄館の戦いでは明将・李平胡の襲撃を受けても、隆景・立花宗茂と共に明軍を撃破している。のち幸州山城の戦いにも参戦した。それらの戦功により筑後久留米のまま5万5千石を加増されて13万石となり、筑後守に叙任された。 また第二次晋州城攻防戦では、攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが、日本軍先鋒隊の立花宗茂と高橋統増と小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた。部分の朝鮮軍は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入る。よって日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。 『問註所家譜』により文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって明の劉綎と晋州城外西南方二十里の河東郡に遭遇し以下数百兵は戦死した、立花宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に返る。 文禄3年(1594年)、秀吉の養子の木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったために廃嫡され、別家を創設する。慶長2年(1597年)から始まる慶長の役においても参戦。竹島城と星州谷城で防戦し、大いに手柄を立てた。 慶長3年(1598年)11月18日、秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、秀包は立花宗茂・高橋直次・島津義弘・宗義智・寺沢広高・筑紫広門 (主水正)らと共に水軍を編成して救援に向かい、陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、自ら愛用の鉄砲を持って敵と激戦した。 慶長4年(1599年)頃に秀直(ひでなお)、慶長5年(1600年)には秀兼(ひでかね)と改名した。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄の役では五番隊の主将として戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通総などを率いて京畿道の攻略にあたった。年末には京畿道竹山の守備についた。 この後、正則はいったん日本に帰国し、文禄3年(1594年)1月に再び朝鮮に渡った。講和交渉の進展により南部布陣が決まったため、正則は巨済島の松真浦城や場門浦城の守備、補給などの兵站活動を担当した。10月、朝鮮水軍を率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時(場門浦海戦)には正則自ら軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ちするなどの反撃でこれを撃退した。 文禄4年(1595年)7月、秀吉によって豊臣秀次が切腹させられるという事件が起こった。この際、正則は日本におり、秀次に切腹の命令を伝えている。同年、尾張国清洲に24万石の所領を与えられた。 慶長3年(1598年)、羽柴の名字が確認される。青木重吉に同じく羽柴名字・豊臣姓を与えられ、侍従任官によって諸大夫から公家成したのである(青木氏と福島氏は羽柴氏の親戚の家であった)。 続く慶長の役には参加しなかった正則であったが、慶長4年(1599年)に秀吉は朝鮮半島に大軍勢を派遣して大規模な軍事行動を計画しており、その軍勢の大将として石田三成と増田長盛とともに抜擢されていた。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、この計画は実施されることなく日本軍は大陸から撤兵した。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。 出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕りにされていた朝鮮二王子(臨海君・順和君)を捕虜にした。だが、清正の本意は秀吉の意向が明本国への進撃である以上、朝鮮半島の平定に時間をかけるべきではないという考え方で、日本側が取った八道分遣策には批判的であった。 清正の危惧通り、明軍の援軍を得た朝鮮軍の反撃を受けた一番隊や支援にかけつけた三番隊は苦戦をし、日本軍の進撃は停止してしまう。一方、明への侵攻路から外れた辺境で敵軍も少なかった二番隊は大きな抵抗を受けずに侵攻を続けたため、一番隊や三番隊の苦戦を知る日本本国では「清正が虚偽の戦果を報告しているのではないか」と疑惑を持たれることになった。当然、清正はこうした流れに反発し、それが一番隊を率いていた小西行長や本国と現地の取次をしていた石田三成への不信の発端になったとみられている(反対に、この時期以前に清正と彼らの不仲を裏付ける一次史料は存在していない)。 更に清正は朝鮮の国境である豆満江を越えて、満洲のオランカイ(兀良哈)へ進攻した(加藤清正のオランカイ侵攻(英語版))。しかし当地は明への侵攻路から外れている上に得る物が乏しいため、早々に朝鮮領内へ引き揚げ、咸鏡北道を帰順した現地朝鮮人の統治域とし、日本軍は吉州以南に布陣した。日本軍の去った咸鏡北道では朝鮮人の義兵が決起して吉州を攻撃したが、これを撃破する。その後、明軍が現れた京畿道方面に配置転換が命じられ、咸鏡道を引き払い漢城に入った。文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城の戦いで加藤軍は北面からの攻城を担当し、亀甲車を作り、配下の森本一久と飯田直景が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 明・朝鮮と本格的な交渉が始まると、清正は主に惟政らに秀吉の講和条件を伝えた。だが秀吉の条件は明にも朝鮮にも到底受け入れられるものではなかった。このため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長と対立し、行長は清正が講和の邪魔になると見て、彼が豊臣姓を勝手に名乗ったこと、独断専行した罪などで秀吉に訴えた。この時、戦争継続は不利と考える石田三成が行長を支持したことなどから、清正は京に戻され謹慎となる。増田長盛が三成と和解させようとしたが、清正は断っている。しかし、この帰国に関しては講和進展と明使の来日に伴う軍の一部撤退による帰国であるとする説も出されている。その後、慶長伏見地震の際、秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、その場で弁明したことにより許されたとされる「地震加藤」の逸話があるが、この話も清正が地震の2日後に領国に送った書状の中に秀吉一家の無事とともに、「(自分が無事だったのは)伏見の屋敷が完成していなかったから」「(地震の為に)京から胡麻を取り寄せて領国に送るのが遅くなる」とあることから、清正がいたのは(伏見でも京でもなく)大坂であったことが推定され、清正が大坂から伏見の秀吉の許に駆けつけた可能性はあっても、真っ先に駆けつけたとする逸話は史実ではなかったことが明らかとなっている。 一方、名護屋城の築城以来、清正領国を含めた九州各地は、朝鮮での軍役やその軍勢を維持するための物資調達で多大の負担を強いられ、不穏な動きを見せ始めていた。文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣である梅北国兼が清正の支城の1つ佐敷城を奪う梅北一揆が発生する。一揆は間もなく鎮圧されるが、人夫としての動員や徴税、その他の物資徴発に由来する過大な負担は家中や領民を動揺させた。文禄2年8月、釜山郊外の西生浦倭城にいた清正が冬に備えて留守を守る重臣に対して51か条に及ぶ物資調達を督促する書状を出している。ただ、この時の調達に国元は難渋した模様で、翌文禄3年4月には早くも冬に備えた物資調達とともに、重臣達の怠慢を叱責する書状を送っている。徴税時や人夫動員時には、あらかじめ百姓を人質を取ったり、逃亡した人夫を出した村に対しては日割りで欠員期間の夫銭を徴収するなどの制裁措置を取ったりすることで、未進や逃亡の阻止を図った。そして、領内では一部の加藤家家臣を巻き込む形で百姓の動員拒否や逃亡の動きが盛んになる。ついには、肥後本国の百姓が朝鮮に陣夫として連れて来られた百姓に対して「今なら集団で肥後に逃げ帰っても、代官たちが百姓改めをしないから村に戻るなら今のうちだ」という内容の書状を送り、清正がそれを見つけてしまう事件まで発生したのである。文禄2年2月14日付で秀吉が肥後に残った加藤家の重臣に対して直接朝鮮半島から逃げ帰った百姓の取締を命じる朱印状を発給しているのも、清正ら九州諸将の留守の領国における不穏な動きに対応した措置とみられている。また、この時期の清正は財政難の克服や軍需品の調達を意図してルソンに貿易船を派遣して、日本では米に比べて廉価であった麦類を輸出して硝薬などの軍需品を輸入しようとしたが、朝鮮出兵によってルソンの軍事的緊張が高まり、思うように成果が上がらなかった。 慶長2年(1597年)からの慶長の役では、左軍の先鋒となった小西行長に対し、右軍の先鋒となる。再び朝鮮に渡海する際、行長は明・朝鮮軍側に清正の上陸予想地点を密かに知らせ、清正を討たせようとしている。しかし敵の李舜臣はこれを罠だと判断して出撃せず、清正は攻撃を受けなかった。 日本軍の作戦目標は先ず全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道へも進撃することと、その達成後は後退して拠点となる城郭群を建設することであった。西生浦倭城を発った清正は全羅道に向かって西進し、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出し、ここに最初の作戦目標を達成した。 日本軍の諸将は築城予定地まで後退。清正は西生浦倭城の東方に新たに築城される蔚山の地に入り、自ら縄張りを行った後、加藤安政等を配備して西生浦倭城に移った。蔚山倭城の建設は帰国予定の浅野幸長と宍戸元続等の毛利勢(毛利氏は他に梁山倭城の築城も担当)が担当した。清正は西生浦倭城に加え蔚山倭城の守備担当であった。 慶長2年(1597年)12月、完成が間近に迫った蔚山倭城へ57,000人の明・朝鮮軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると、清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で、毛利秀元や黒田長政等の援軍の到着まで明・朝鮮軍の攻撃に10日ほど耐え、この戦いを明・朝鮮軍に20,000人の損害を与える勝利へと導いた。この当時の朝鮮における明軍の総司令官であった楊鎬は、勝利と偽って本国に報告したが、惨敗したことがばれ、解任された。 慶長3年(1598年)9月、再び蔚山倭城は攻撃を受けるが、この時には城も完成しており、前回ほど苦戦せずに撃退した。 清正は朝鮮の民衆から「鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承(本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている)が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。 京都市北区の大徳寺総見院には清正が持ち帰ったとされる石を彫り抜いて作られた掘り抜き井戸が残る。
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文禄・慶長の役
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文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。出陣に際して秀吉より大黒の馬を贈られている。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、東萊城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。 行長は休戦期日を過ぎても講和交渉の明側の返答を待ち続けていたが、この間、明では李如松率いる4万余の朝鮮派遣軍を編成し、平壌に向かって進行していた。文禄2年(1593年)1月に明軍による平壌攻撃が行われると、抗しきれず漢城まで退却する。同年5月に島津忠辰が仮病を使って出陣を拒否し、改易された際には身柄を預かるなど、国内でも活動した。 漢城周辺の日本軍は、進撃してきた明軍を碧蹄館の戦いで破った(このとき行長軍は漢城に駐留)。その後、戦意を喪失した明軍と兵糧不足に悩む日本軍(朝鮮半島の山がちな地形は荷駄による輸送が大変なうえ、朝鮮側からの度重なるゲリラ攻撃で兵糧が不足していた)との間に講和交渉が開始される。行長は石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとしたといわれる。だが、秀吉の条件は朝鮮南四道の割譲など到底受け入れられるものではなかったため、秀吉の命令を無視してでも和睦を結ぼうとする小西行長・石田三成らは、惟政らに秀吉の講和条件を伝えた清正が講和の邪魔になると見て、彼を秀吉に讒訴。清正は京に戻され謹慎となる。その後、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)が日本側の使者として明の都・北京に向かい、交渉を行っている。 この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。冊封の内容はアルタン・ハーンのものを先例とし、順化王の王号と金印を授与するものであった(秀吉の王冊封以外にも宇喜多秀家、小西行長、増田長盛、石田三成、大谷吉継ら和平派諸将が大都督、前田利家、徳川家康、上杉景勝らが地方の都督指揮に任じられる。この意図としては、豊臣陣営が明との貿易再開のお墨付きをもらい交易することで、徳川方に財力で差をつけ、豊臣の世を維持しようとしたもの)。しかし、これは明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は何ら含まれないものだった。これを秀吉に報告する段階で行長は、書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすよう依頼したが、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻し、交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。 慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び出兵を命じられ、特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を殲滅し、南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは、戦いに先立って明将・劉綎から講和が持ちかけられ、行長はこれに応じて交渉に臨もうと城を出たが、これは行長を捕縛しようとする明側の謀略であった。この謀略は明側の不手際のため寸前のところで窮地を脱し城内に駆け込んで籠城することができた。続いて明・朝鮮軍による水陸からの攻撃が開始されたが、これを撃退する。その後、秀吉死去による帰国方針が伝えられ、明軍と交渉して円滑な帰国を認める旨の同意を取り付けた。しかし、朝鮮水軍の李舜臣の反対で、海上封鎖による帰国妨害が続けられたが、立花宗茂、島津義弘等の救援により無事帰国することができた。 そもそもこの戦は、国内と違い、前へ進むたびに民衆が敵となることから、海外での戦は難しく、たとえ戦で勝っても明という大国を平定していくことの非現実性を行長たちは肌で感じていた。 なお、文禄の役の際の進軍、戦闘の模様は従軍僧・天荊の『西征日記』に詳しく記されている。
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