文禄の役から柳川一件まで
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宗氏は16世紀に偽日本国王使通交を繰り返す中、国書の偽造・改竄技術を蓄積していた。文禄・慶長の役の前後、宗氏は日朝両国の間に立ち開戦回避に早期講和に奔走するが、その間にも国書の偽造・改竄や偽日本国王使の派遣を繰り返した。一つには、豊臣秀吉や江戸幕府は対朝鮮外交を宗氏に一任し自身で使節を派遣することはなく、朝鮮に通交した日本国王使はみな宗氏が対馬で編成したものだったのである。もう一つは、宗氏は両国の主張を相手が受け入れやすい形にすり替えながら仲介を行ったのである。1587年、秀吉は「朝鮮国王の入朝」交渉を宗氏に命じるが、宗氏は偽日本国王使を朝鮮に派遣し「朝鮮通信使の派遣要請」を行う。朝鮮通信使が訪日すると、秀吉は「征明きょう導」(きょうは郷に向)(明征服の先導を務めること)要求を突きつけるが、宗氏は通信使が持ち帰る国書の文言を「入明借途」(明に朝貢する道を貸すこと)に書き換えを行った。文禄・慶長の役間の講和交渉時においても、宗氏は明使の副使として訪日した朝鮮通信使の国書を改竄している。この国書は現存しており、そこに押された朝鮮国王印の印影は宗家旧蔵図書・木印群の中から見つかった偽造朝鮮国王印と一致することが確認されている。 慶長の役後も宗氏の偽日本国王使通交や国書改竄は続いた。秀吉の後を継いだ江戸幕府は日朝講和交渉を宗氏に一任していたが、1606年に宗氏は朝鮮王朝から講和の条件として、 文禄・慶長の役の際、王室陵墓を荒らした犯人を引き渡すこと 日本側から先に国書を差し出すこと の2条件を示される。当時、国書を先に差し出すことは恭順の意を示すことと同義であり、これは江戸幕府にとり受け入れ難いものであった。1日も早い貿易の再開を望んでいた宗氏は対馬島内における犯罪人を王室陵墓を荒らした犯人に仕立て上げ、また幕府に内密に国書を偽造し、偽日本国王使を派遣して「国書」と「犯人」を朝鮮王朝へ差し出した。これを受けた朝鮮王朝は翌年に通信使を日本に派遣し(第1回朝鮮通信使)日朝間の講和が成る。しかし朝鮮王朝にとりこの使節は回礼使(返礼のための使節)であり、国書も先に受けた日本側「国書」への返書として書かれていた。宗氏は先の国書偽造の発覚を恐れ、この朝鮮国書の改竄も行っている。 日朝間の講和がなったことから、宗氏は貿易再開交渉のため偽日本国王使を朝鮮に派遣し、己酉約条を締結する。しかしその内容は、 歳遣船は20隻に削減 通交人は日本国王使・宗氏・新たに朝鮮王朝が認めた受図書人・受職人に限る としたものであり、宗氏は偽日本国王使を除く偽使通交権を全て停止させられ、通交権の大半を失うことになった(表3参照)。唯一残された偽日本国王使の通交は続いたが、第二回・第三回朝鮮通信使が宗氏の派遣した偽日本国王使の回礼使として派遣されたため、さらなる国書改竄を引き起こすことになった。また江戸幕府が「日本国王」号を使用しなかったことから、日本側国書も改竄する必要が生じていた。室町幕府は明朝の冊封体制下に入ったことにより対外的には「日本国王」を名乗っていたのに対し、江戸幕府は「日本国王」号の使用を拒み「日本国源秀忠」「日本国源家光」あるいは「日本国主」などと名乗り続けていた。しかし朝鮮側は、国王号を使用していない国書を持ち帰った第1回朝鮮通信使の正使が処罰を受けるなど、国王号使用に拘り続けた。特に宗氏の派遣した偽日本国王使の携える国書は国王号を使用したものであったため、朝鮮側は一部の(真の)国書が国王号を使用しないことに納得出来るものではなく、宗氏は日本国書の改竄も余儀なくされたのである。 こうした偽使通交・国書改竄は柳川一件によって終わりを迎える。1633年、宗家の重臣であった柳川調興は自身の旗本昇格を目論み、慶長の役後の国書改竄や偽日本国王使通交を幕府に訴えて出た。当初は幕閣に強い繋がりを持つ調興有利と見られていたが、最終的に調興の遠流という処分に決する。しかし幕府は宗氏外交僧の玄方もまた遠流処分とし、代わりの外交僧は京都五山から派遣する五山僧が交替で務めるものとすることで対朝鮮外交を幕府の監視下に置いた(以酊庵輪番制)。以酊庵輪番制により偽使通交体制は要の外交僧を幕府に押さえられることになり、終止符を打たれる。 詳細は「柳川一件」を参照
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