シュマルカルデン戦争
シュマルカルデン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)
「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「シュマルカルデン戦争」の解説
詳細は「シュマルカルデン同盟」および「シュマルカルデン戦争」を参照 1526年、ルターに対してそれまで敵対的であった皇帝カール5世は、スレイマン1世率いるオスマン帝国の脅威が迫るなか、諸侯の協力が不可欠とみてシュパイアー帝国議会(第一次)を開催し、ルター派諸侯の領内での宗教改革を許した。ザクセン選帝侯はルターに領内の教会の組織化を命じ、1528年にはザクセンの各教区を州知事が任命する牧師に任せ、教会巡察制度を設けた。他の改革派諸侯もこれに準じ、ルター派教会が各地に広がっていった。巡礼、贖宥状、聖人崇拝、聖遺物崇敬、兄弟会などの習俗は廃止されたが、実際に領邦教会制度が始動したのはこの当時であった。 1529年、カール5世は再度シュパイアー帝国議会(第二次)を開催したが、カトリック諸侯の巻き返しによって宗教改革の自由は取り消され、ヴォルムス勅令が復活した。この措置に対し、改革派の諸侯と帝国都市が抗議(プロテスト)した。これが、「プロテスタント」の名の起こりである。 1530年、カール5世はアウクスブルク(現:バイエルン州)に帝国議会を招集し、両派の歩み寄りの努力がされたが、結局は決裂した。さらに同議会ではルター派側から穏健ルター派メランヒトンの手になる「アウクスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルク(ストラスブール)などの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世は1521年のヴォルムス勅令を厳しく執行するよう命じた。 これに対し、アウクスブルク帝国議会の直後にシュマルカルデン(ドイツ語版)(現:テューリンゲン州)に集まったプロテスタントの帝国諸侯・諸都市は皇帝とカトリック諸侯に対抗するための軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にはヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったがカール5世は妥協し、1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境に、プロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派以外の改革派信仰が広がっていたが教義上の問題で妥協し、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 カール5世は対外的な事情から情勢を静観していたが、フランスとの講和が成立すると一転し、ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死去し、ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題をカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世はシュマルカルデン戦争を起こしてシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考え、これを解散させるなどの強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策をみて徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペ(のちのスペイン王フェリペ2世)にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。
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