シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
「三十年戦争」の記事における「シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議」の解説
宗教改革が始まってからはプロテスタントとカトリックの対立が続き、教皇は改革に対抗して、イエズス会を設置し、16世紀末までにはバイエルン、オーストリア、フランス、ポーランド、チェコがカトリックの勢力圏に入った。 1546年には神聖ローマ皇帝カール5世とルター派諸侯のシュマルカルデン同盟との間でシュマルカルデン戦争が勃発した。皇帝側が新教諸侯に勝利しカトリックに有利なアウクスブルク仮信条協定が定められたが、寝返ったザクセン選帝侯モーリッツとのパッサウ条約を経て、1555年のアウクスブルク宗教平和令が公布された。この令では、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の禁止(カルヴァン派やツヴィングリ派は異端とされ除外)、諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰(ルター派かカトリック教会)を選ぶことができ、そして領民にはその信仰に従わせるとされた(領邦教会)。アウクスブルクの和議は教皇はあまり関わらず皇帝と諸侯の間で交わされたもので、その後も新旧両派は自らの勢力拡大に努めた。
※この「シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議」の解説は、「三十年戦争」の解説の一部です。
「シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議」を含む「三十年戦争」の記事については、「三十年戦争」の概要を参照ください。
- シュマルカルデン戦争とアウクスブルクの和議のページへのリンク