けいちょう‐ふしみじしん〔ケイチヤウふしみヂシン〕【慶長伏見地震】
読み方:けいちょうふしみじしん
⇒慶長の大地震2
慶長伏見地震
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慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。
注釈
- ^ 1594年築の伏見城の事であり、地震のあと伏見城は木幡山(現在の桃山丘陵)の頂に再建された。指月(現在の地名は京都府京都市伏見区桃山町泰長老)は、桃山丘陵の麓、巨椋池が広がる湿地帯のすぐ側にある小さな丘で地盤が弱かった。2015年に瓦が発掘された。
- ^ 石ノ森章太郎『マンガ日本の歴史』、宮下英樹『センゴク』など。
- ^ 震源が豊予海峡を挟んで近いことから連動型地震とされる。
- ^ 京都大学地震予知研究センターの飯尾能久教授は、「九州北部で発生した慶長豊後地震によりその地殻変動(地下のひずみの変化)が四国を経由して近畿に伝わった」としており、それにより六甲・淡路島断層帯が横から押されたことで、地表近くの浅い部分が動いて地震が発生した可能性を指摘している。九州から近畿における広範囲の断層帯の動きをコンピュータ上で再現した場合でも、四国北部にある中央構造線が動くことで同断層帯が動きやすくなることが示されている(朝日新聞 2008年11月22日)。
- ^ 中野等論文では、石田三成らの讒言は確実な一次史料による裏付けはないとして、清正の帰国は明使来日に伴うものと推測している。
出典
- ^ a b c 日本地震学会. “日本付近の主な被害地震年代表”. 2021年7月8日閲覧。
- ^ 大阪北部地震を地震学者はどう見たのか(遠田 晋次) ブルーバックス 講談社(3/5)
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年、95頁。
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- ^ 河内 2008, p. 112.
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- ^ 河内 2008, p. 116.
- ^ 地震の日本史 第6回/秀吉と地震 寒川旭(さんがわあきら) Archived 2012年7月18日, at the Wayback Machine.
- ^ 釜井俊孝、寒川旭、守隨治雄「1596年慶長伏見地震による古墳の地すべり」『応用地質』48巻6号、2008年、285-298頁。doi:10.5110/jjseg.48.285
- ^ 小野映介、矢田俊文、海津颯、河角龍典「徳島県撫養地区における塩田開発と1596年慶長伏見地震の関連性」日本地理学会 2015年度日本地理学会春季学術大会 セッションID:328 発表要旨、doi:10.14866/ajg.2015s.0_100029
- ^ 阪神大震災、原因は400年前の慶長伏見地震? 京大教授が新説(『朝日新聞』 2008年11月22日)
- ^ 産業技術総合研究所「震災後の活断層調査結果から見た兵庫県南部地震の予測性について」『地震予知連絡会 会報』第67巻、2001年。
- ^ 地震加藤Weblio辞書
- ^ 風流加藤清正虎退治
- ^ 寒川旭『秀吉を襲った大地震―地震考古学で戦国史を読む』〈平凡社新書〉2010年。
- ^ 文禄5年閏7月15日付新美藤蔵宛加藤清正書状(「長崎文書」2号文書『熊本県史料 中世編第五巻』所収)
- ^ 中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」『九州文化史研究所紀要』56号、2013年。/所収:山田貴司 編『加藤清正』戒光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-139-4。
- 1 慶長伏見地震とは
- 2 慶長伏見地震の概要
- 3 概要
- 4 別の地震との関連
- 5 参考文献
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