慶長地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 13:59 UTC 版)
慶長地震(けいちょうじしん)は、江戸時代初期の慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こったとされる地震・津波である。犬吠埼から九州に至る太平洋岸に大津波が襲来し、津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説も)とされる。しかし、地震の揺れの記録が津波記録と比べて少なく、震源やメカニズム・被害規模も不明な点が多い。
注釈
- ^ a b 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。地震学的な震源は地震計が無ければ決まらず、震源域が広大な巨大地震では無意味な上誤解を与える恐れがある(石橋(2014), pp.7-8.)。また、この震央は飯田(1981)などの被害分布が大きく2か所に分かれるという考えを基に宇佐美(2003)が推定したものである。しかし、本地震が例えば伊豆・小笠原海溝沿いなど遠地津波によるものならば震央位置は大幅に変わる。
- ^ 羽鳥徳太郎(1975)は『大日本地震史料 増訂』にある『蒼屋雑記』による「三崎」の津波記録を三浦半島の三崎としているが、これは「土佐国群書類従五十三所収」の史料で、幡多郡三崎村(現・土佐清水市)の記録である事が判明している。- 石橋克彦: 歴史地震研究で感じたこと(要旨)。
出典
- ^ a b c 日本地震学会『日本付近の主な被害地震』
- ^ a b 伊藤純一,都司嘉宣, 行谷佑一(2005):慶長九年十二月十六日(1605.2.3)の津波の房総における被害の検証 (PDF) , 『歴史地震』 第20号 p.133-144.
- ^ a b 今村明恒(1943)、「慶長九年の東海南海兩道の地震津浪に就いて」『地震 第1輯』 1943年 15巻 6号 p.150-155, doi:10.14834/zisin1929.15.150
- ^ a b 文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1941年
- ^ a b 石橋(2014), p52-58.
- ^ 山本武夫, 萩原尊禮,1995,慶長九年(一六〇五)十二月十六日地震について -東海・南海沖の津波地震か, 古地震探求 -海洋地震へのアプローチ, p160-251.
- ^ 地震調査研究推進本部 (PDF) 徳島県の地震・津波碑
- ^ a b 石橋克彦(2019), [論説]1605年慶長大津波に関する阿波国宍喰の地震・津波記録の検討 (PDF) , 歴史地震, 第34号, 115-126.
- ^ 石橋克彦(2019), [論説]1605年慶長津波を記す「阿闍梨暁印置文」の史料批判 (PDF) , 歴史地震, 第34号, 31-40.
- ^ 『浦戸港の沿革と其の史蹟』『新収 日本地震史料 二巻 自慶長元年至元禄十六年』p76.
- ^ a b c 羽鳥徳太郎「明応7年・慶長9年の房総および東海南海道大津波の波源」『東京大学地震研究所彙報』第50巻第2号、東京大学地震研究所、1976年1月、171-185頁、doi:10.15083/0000033244、ISSN 00408972、NAID 120000871397。
- ^ a b c 飯田汲事(1981)、「歴史地震の研究(4) 慶長9年12月16日(1605年2月3日)の地震及び津波災害について」 愛知工業大学研究報告, B, 専門関係論文集, 16, 159-164., hdl:11133/575
- ^ 村上仁士 ほか(1996)、「四国における歴史津波(1605慶長・1707宝永・1854安政)の津波高の再検討」『自然災害科学』 00015(00001), 39-52, 1996-04-30, NAID 110002941602
- ^ 三好寿、佐藤要、都司嘉宣(1989)、「慶長9年の津波」『日本海洋学会誌』 1989年 45巻 3号 p.174-180, doi:10.1007/BF02123461
- ^ a b c 『日本被害地震総覧』, p52.
- ^ 矢田(2009), p156-159.
- ^ 猪井(1982), p130-150.
- ^ 猪井(1982), p150-161.
- ^ 猪井(1982), p97-104.
- ^ 猪井(1982), p34-38.
- ^ a b 『地震の事典』p582.
- ^ 吉岡敏和, 水野清秀, 榊原信夫(1997)、「淡路島中部,先山断層の最新活動とその意義」『活断層研究』 1997年 1997巻 16号 p.87-94, doi:10.11462/afr1985.1997.16_87, 日本活断層学会・活断層研究会
- ^ 間城(1995), p5-6.
- ^ 石橋克彦(1983):「1605 (慶長9) 年東海 南海津波地震の地学的意義」『地震学会講演予稿集』 1983年 1巻 p.96, 石橋克彦の歴史地震研究のページ アーカイブ (PDF)
- ^ 石橋克彦(1989): 1596年慶長近畿大地震で中央構造線が活動した可能性と1605年南海トラフ津波地震への影響, 地震学会講演予稿集, No.1, p.62, NAID 10006083951
- ^ 石橋(1994), p191-193.
- ^ 古村孝志(2012): 東北地方太平洋沖地震から考える東海・東南海・南海地震の再評価 (PDF) , 地震本部政策委員会総合部会
- ^ 安藤雅孝 Besana Glenda(2005):[講演要旨1605年慶長地震のメカニズム] (PDF) , 歴史地震, 第20号, 107-109.
- ^ 河角廣、「有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値」 『東京大學地震研究所彙報』 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482, hdl:2261/11692
- ^ 相田勇(1981a)、「相田勇(1981): 東海道沖に起こった歴史津波の数値実験」『東京大学地震研究所彙報』 56, 367-390., hdl:2261/12810
- ^ 佐藤(1989), p121.
- ^ 力武(1994), p66-67.
- ^ 地震調査研究推進本部, 南海トラフの地震活動の長期評価(第二版)について, 説明文
- ^ 瀬野徹三(2011): 南海トラフ巨大地震 -その破壊の様態とシリーズについての新たな考え (PDF) , 東京大学地震研究所
- ^ 大森房吉(1913)、「本邦大地震概説」『震災豫防調査會報告』 68(乙), 93-109, 1913-03-31, NAID 110006605117, hdl:2261/17114
- ^ 【温故地震】大震災編 都司嘉宣 慶長東海地震はなかった 産経ニュース2012.6.18 09:03
- ^ 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03
- ^ 「大地震の定説、本当?」『慶長、南海トラフではない』朝日新聞 2013年10月31日 31面
- ^ 松浦律子(2013)、「1605年慶長地震は南海トラフの地震か?」 第30回歴史地震研究会(秋田大会), 『歴史地震』 2014年 29号 p.263, 歴史地震研究会
- ^ 矢田(2009), p160-162.
- ^ 寒川(2007), p112-114.
- ^ 熊谷博之(1999)、「浜名湖周辺での東海沖の大地震に伴う津波堆積物の調査」 『地學雜誌』 1999年 108巻 4号 p.424-432, doi:10.5026/jgeography.108.4_424
- ^ 高田圭太(2002) (PDF) 高田圭太, 佐竹健治, 寒川旭, 下川浩一, 熊谷博之, 後藤健一, 原口強(2002): 「静岡県西部湖西市における遠州灘沿岸低地の津波堆積物調査(速報)」『活断層・古地震研究報告』 2002年 2号 p.235-243, 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
- ^ 気象庁 八丈島 有史以降の火山活動
慶長地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 07:05 UTC 版)
1605年2月3日(慶長9年12月16日)にマグニチュード (M) 8前後の慶長地震が発生した。震源については諸説あり、大森房吉は房総沖としているが、今村明恒は東海・南海道沖(南海トラフ)としている。地震動による被害は少なく津波による被害の記録が多く残る。 詳細は「慶長地震」を参照
※この「慶長地震」の解説は、「房総沖地震」の解説の一部です。
「慶長地震」を含む「房総沖地震」の記事については、「房総沖地震」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 慶長地震のページへのリンク