第二次蔚山城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
「文禄・慶長の役」の記事における「第二次蔚山城の戦い」の解説
詳細は「第二次蔚山城の戦い」を参照 第一次蔚山城の戦いの後、蔚山城は引き続き加藤清正軍が守備を行っていた。慶長3年(1598年)9月、明将麻貴総兵が指揮する東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人)が加藤清正が守備する蔚山倭城(籠城兵10,000人)を攻撃したが、今回は篭城準備がなされており、明・朝鮮連合軍の攻撃は撃退され失敗、明・朝鮮連合軍は大きな被害を出し、慶州へ撤退した(第二次蔚山城の戦い)。『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入ったとき、伏兵が起こり明軍は敗北した。慶尚道左防禦使の権応銖が都元帥の権慄に送った報告によると「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために朝鮮軍の金応瑞が東萊の温井に赴く、翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。明軍は何度も挑戦をしたが、日本軍は守りを固めて出て来ないため明軍の被害は数え切れない。包囲を一旬(約10日間)続けたが攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。
※この「第二次蔚山城の戦い」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「第二次蔚山城の戦い」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
第二次蔚山城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:45 UTC 版)
前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となり、慶長3年(1598年)8月、明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に分かれて南下を開始する。東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略であった。この内麻貴総兵が指揮する東路軍29,500人(明軍24,000人、朝鮮軍5,514人。は9月21日(以下和暦)に慶州を出発。22日に加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃したが今回は篭城準備がなされており、明軍が城を攻撃しても日本軍の反撃により明軍の被害が増えるばかりで攻略の目処は立たなかった。麻貴は挑発などを行い日本軍を誘きだそうとしたが、城中の清正は守りを固めて出て来ない(日本戦史朝鮮役 P397)。攻略の目処も立たず、さらに中路軍が泗川の戦いで大敗したとの報告も届いたため、10月6日には蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還した。 『明史』によると、日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時、伏兵が起こり明軍は敗北した。 また『乱中雑録』趙慶男によると、9月18日(日付は明暦)、麻貴が明軍を率いて慶州を出撃。朝鮮軍の金応瑞が別に東莱へ進撃してから進んで蔚山倭城を攻撃開始し、防柵などを焼いた。しかし日本軍の攻撃により明軍の被害は計り知れない。清正は去年の攻撃を戦訓に防戦の準備を重ね、堅く守備を固めていたために明・朝鮮軍は攻めきれずに撤退した。10月12日、明・朝鮮軍は慶州に到着した。 同じく慶尚道左防禦使の権応銖が都元帥の権慄に送った報告によると「9月19日に麻貴は釜山の日本軍を牽制するために金応瑞が東莱の温井に赴く、翌20日から蔚山倭城を攻撃開始した。明軍は何度も挑戦をしたが、日本軍は守りを固めて出て来ないため明軍の被害は数え切れない。包囲を一旬(約10日間)続けたが攻略の目処が立たないために撤退した」と記述している。 第二次蔚山城の戦いでは加藤清正が守りに徹したため、泗川倭城攻撃し島津義弘の逆襲を受けて潰走した中路軍や、小西行長の順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後、兵糧を投棄しながら退却した西路軍と水軍のような混乱を東路軍ではおこすことなく比較的整然と撤退した。朝鮮王朝実録には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている。
※この「第二次蔚山城の戦い」の解説は、「蔚山城の戦い」の解説の一部です。
「第二次蔚山城の戦い」を含む「蔚山城の戦い」の記事については、「蔚山城の戦い」の概要を参照ください。
- 第二次蔚山城の戦いのページへのリンク