第二次蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:25 UTC 版)
全琫準(ぜんほうじゅん、チョン・ボンジュン)は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、蜂起したのは10月に入ってからであった。今度は李氏朝鮮の新政権と日本軍を相を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。1894年11月末に忠清道公州の牛金峙(ウグムチ、우금치)ので農民軍と大日本帝国軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に全琫準等はあえなく敗北する。日本軍の圧倒的勝利で終ったこの戦闘を牛金峙の戦いと言う。牛金峙で日本に敗北した農民軍等は全羅道に逃げた。全琫準と同志達は淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城(かんじょう、現在のソウル)で処刑された。井上馨(いのうえかおる)日本公使は全琫準の人格に共感し、李氏朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、李氏朝鮮政府は井上馨(いのうえかおる)が帰国している間に、処刑を執行した。[要出典] 全琫準が処刑されて間もなく、全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。 鳥よ鳥よ 青い鳥よ 緑豆の畠に降り立つな 緑豆の花がホロホロ散れば 青舗売りが泣いて行く 緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆を表していた。 なお、大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の幹部2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。また密使は、忠清道の東学幹部箕準、徐長玉に、全羅道の東学幹部全琫準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に東徒の糾合を呼びかけた。呼びかけにより10、11月に相次いで蜂起する。そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。(東学党事件ニ付会審ノ顛末具報 明治28年9月20日の別紙第二号) その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追及によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p23)。このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする大院君の思惑も働いている可能性がある。
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