総武本線
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総武本線 | |||
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東京駅 - 銚子駅間で運転される 255系による特急「しおさい」 | |||
基本情報 | |||
通称 |
総武快速線(東京駅 - 千葉駅間の快速線) 総武緩行線(千葉駅 - 御茶ノ水駅間の緩行線) | ||
国 | 日本 | ||
所在地 | 東京都、千葉県 | ||
種類 | 普通鉄道(在来線・幹線) | ||
起点 |
東京駅[1](本線) 錦糸町駅(支線) | ||
終点 |
銚子駅[1](本線) 御茶ノ水駅(支線) | ||
駅数 | 49駅(貨物駅および金町駅を含む) | ||
電報略号 | ソムホセ | ||
路線記号 |
(東京駅 - 千葉駅間の快速線及び千葉駅 - 佐倉駅間) (御茶ノ水駅 - 千葉駅間の緩行線) | ||
開業 | 1894年7月20日 | ||
所有者 | 東日本旅客鉄道(JR東日本) | ||
運営者 |
東日本旅客鉄道(JR東日本) 日本貨物鉄道(JR貨物) | ||
路線諸元 | |||
路線距離 |
120.5 km (東京-銚子間) 4.3 km (錦糸町-御茶ノ水間) 8.9 km (小岩-金町間) 11.7 km (小岩-越中島貨物間) | ||
軌間 | 1,067 mm (3 ft 6 in) | ||
線路数 |
複々線(錦糸町-千葉間) 複線(東京-錦糸町間・錦糸町-御茶ノ水間・千葉-佐倉間) 単線(上記以外) | ||
電化方式 |
直流1,500 V 架空電車線方式 (越中島支線は非電化) | ||
最高速度 | 130 km/h (81 mph) | ||
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なお、『鉄道要覧』やJRの事業基本計画上は錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間となっているが、東京駅 - 錦糸町駅間開業以前の起点である御茶ノ水駅には現在も0キロポストが存在する。
東京駅 - 千葉駅間および御茶ノ水駅 - 千葉駅間については、以下の記事も参照。
概要
東京都の都心から東へ伸び、そのベッドタウンである千葉県西部の各都市、同県の県庁所在地であり政令指定都市である千葉を通り、同県最東端の銚子へ至る路線である。東京と千葉県北東部の各地を結ぶ特急列車が東京駅 - 銚子駅間を通して運行されているほか、都心から成田国際空港へアクセスする特急「成田エクスプレス」が当路線を経由している。
千葉駅以西は電車特定区間に指定されており、区間外よりも割安な運賃が適用される。このうち錦糸町駅 - 千葉駅間は、各駅停車の電車が走行する総武緩行線と、快速電車や特急列車が走行する総武快速線が並行する線路別複々線となっている。この区間は「総武線」と呼ばれることが多く、「総武本線」と呼ばれる場合は特急列車は東京駅 - 銚子駅間、ローカル列車は千葉駅 - 成東駅 - 八日市場駅 - 銚子駅間を指すことが多く、JR東日本ウェブサイトの路線案内においてもそのようになっている[2]。ただし必ずしも統一されておらず、車内の路線ネットワーク図や発車標、駅の時刻表などでは千葉駅以東も「総武線」と表記している場合もある[3]。なお、『鉄道要覧』においては全線通して「総武線」となっている。
貨物支線を除き旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。千葉駅以東では路線案内に用いられるラインカラーとして黄色(■)が用いられている。
歴史
本節では、千葉県内の鉄道敷設運動前後から総武鉄道設立、路線開業及び国有化以降の総武本線全体の沿革について記述する。
背景
1872年(明治5年)に日本最初の鉄道が新橋駅(後の旧国鉄汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間に開通し、その後、1884年(明治17年)に日本鉄道会社が上野駅- 高崎駅間に民営鉄道を開業して良好な営業成績を上げたことなどをうけ、明治10年代後半に全国的な民営鉄道建設ブームが起きた。千葉県内でも鉄道敷設の機運が高まったが、当初は資金面から馬車鉄道の計画が多かった[4][5]。
初期の鉄道敷設運動
千葉県内では1886年(明治19年)頃から蒸気機関車による鉄道建設の運動が始められ、1887年(明治20年)11月に佐原の伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社と、成東の安井理民らが発起した総州鉄道会社が相次いで創立の申請を行った。しかし、当時は従来からの水上交通の実績に対する評価が高く、また利根運河の開削も決まったばかりだったため、千葉県知事であった船越衛が鉄道敷設に対して慎重な姿勢をとるようになった。船越は両者に対し計画の翻意や合併を促してきたが、総州鉄道はこれに応じず東京府知事である高崎五六を通じて正式に鉄道敷設を出願した[6]。これを受けて船越もやむなく千葉県知事として武総鉄道を内閣に進達したが、「利根・江戸両川の水運が至便であるうえに、この地方の状況は鉄道敷設を必要とするほど発展していない」などとして結局どちらも却下されている[4][5]。
- 1887年(明治20年)11月に申請された計画ルート[5]
- 武総鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 成田 - 佐原
- 総州鉄道株式会社:本所 - 市川 - 船橋 - 千葉 - 佐倉 - 八街 - 芝山 - 八日市 - 銚子
総武鉄道
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 東京府東京市本所区横網町1丁目[7] |
設立 | 1889年(明治22年)12月[7] |
業種 | 鉄軌道業 |
代表者 | 社長 青田綱三[7] |
資本金 |
6,000,000円[7] (払込高:4,800,000円)[7] |
特記事項:上記データは1907年(明治40年)現在[7]。 |
上述の経験から、競願の不利益さを悟った両社の発起人は合併を協議し、発起人に利根川水運の株主であった県会議長の池田栄亮などの有力者を加え、1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立した。会社名称は上総国(かずさのくに)・下総国(しもうさのくに)と武蔵国を結ぶことに因む。総武鉄道は翌2月に再願を申請した。この時の出願では、利根運河との競合を避けるとともに陸軍の支持が得られるように国府台・津田沼・佐倉(この計画線は直接通らないものの、習志野も隣接する)等の軍営所在地を通る以下のルートを採用し、その使命に「軍事輸送と政府開墾地への輸送」を掲げていた[4][5]。
総武鉄道の狙いどおり「陸軍営所を通過し、用兵上にも便利である」とする陸軍省の意見が決め手となり、1889年(明治22年)4月に仮免状が下付され、同年12月に小岩 - 佐倉間の免許状が降りた。ただし、計画の一部変更などにより、工事着手は1893年(明治26年)8月となる[4][5]。なお、1892年(明治25年)に公布された鉄道敷設法で「東京府下上野ヨリ千葉県下千葉、佐倉ヲ経テ銚子ニ至ル鉄道及本線ヨリ分岐シテ木更津ニ至ル鉄道」が将来建設されるべき鉄道として指定された。このころになるとルートの候補地となった各地域で様々な鉄道誘致運動が行われるようになる。なお、千葉県各所(船橋・千葉・佐倉・芝山・飯岡・茂原・流山等)で鉄道反対運動が行われたとの言説が市町村史や小学校副読本などで取り上げられることがあるが、当時の文献や記録にこれらを裏付けるものはなく、単なる鉄道忌避伝説であるとされる[8][9]。
1894年(明治27年)7月20日に市川駅 - 佐倉駅間が開業し、千葉県内初の鉄道となる。直後の8月1日に日清両国で宣戦布告がなされ、早速日清戦争での兵員輸送に活用された。同年12月9日には江戸川を越えて本所駅(現在の錦糸町駅)に達した。総武鉄道は、1897年(明治30年)5月1日に成東駅まで、同年6月1日には銚子駅まで延伸され、佐倉駅で成田鉄道との連絡も実現する[4][5][8][9]。
両国橋から都心部への延伸は1899年(明治33年)に本所 - 秋葉原間の免許[注 1]を得て、1904年(明治37年)に両国橋駅(現在の両国駅)まで延伸され、ここを都心側のターミナルとした[4]。両国橋駅を利用する旅客はすでに開業していた路面電車(後の都電)に乗り継いだ。なお、この当時は貨物扱いも両国橋駅で行い、ここから隅田川などの舟運を利用して物資が東京市内へと運ばれた。
1907年(明治40年)、鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道の総武本線となった[10]。
近代化と戦争
鉄道開業により、総武本線の沿線には住宅地の拡大が両国から徐々に東側へ向けて始まった。また、1912年(大正元年)に最初の区間が開業した京成電気軌道(現在の京成電鉄)とは東京 - 船橋 - 千葉の都市間輸送で競合するようになり、東海道本線からは少し遅れたが総武本線の近代化に向けた取り組みが始まった[10]。ただし、1923年(大正12年)9月1日には関東大震災で両国周辺で多数の犠牲者が出る惨事も起きた。復興計画が立てられる中、1926年(大正15年)には常磐線と連絡する貨物支線(新金線)、1929年(昭和4年)には東京湾岸に近い小名木川駅への支線(後の越中島支線)が開業し、旅客と貨物の分離が進められた。
震災復興をきっかけとして都心部への延伸が進められ[注 2] 、1932年(昭和7年)7月1日には、御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸され、同区間で電車の運転を開始した[9][10]。これにより、総武本線は東京都心部で他の国鉄線と連絡するようになった。以降、1933年(昭和8年)3月に市川まで、同年9月には船橋駅まで電化区間が延長され、中央本線中野駅まで緩行電車として直通運転を実施するようになった[10]。1935年(昭和10年)には、千葉駅までの電化が完成した。以後、総武本線は千葉駅を境に、住宅地が広がる地域で通勤電車が頻繁に運転される御茶ノ水駅方面の西側と、農村や漁村を蒸気機関車牽引の客車列車が結ぶ銚子駅方面の東側に性格が二分された。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日、沿線で米軍による無差別爆撃、東京大空襲が実行され、一夜にして約10万人が死亡し、両国・錦糸町・亀戸などの各駅には多くの被災者が避難した。また、アメリカ軍が九十九里浜に上陸する日本侵攻作戦が予測され、日本軍は本土決戦に備えた決号作戦により総武本線で大量の軍事輸送を行ったが、同年8月15日に日本はポツダム宣言受諾を発表し、沿線での大規模戦闘は回避された。
戦後の改良
戦時中の酷使並びに食糧難による買い出し客の殺到や資材不足により、終戦直後の総武本線が置かれた環境は劣悪であった。当初GHQは国鉄の車両改善予算を承認しなかったが、両国駅で総武本線の木造客車を視察しそのあまりのボロさに仰天した担当官が即座にこれを認めたといわれる[9]。
その後、被災地域の復興や高度経済成長による東京都市圏の人口急増により、千葉以西が複線電化、千葉以東が単線非電化という総武本線の輸送事情は逼迫した。房総方面の国鉄の鉄道路線は、1953年(昭和28年)に「気動車化モデル線区」に選定されキハ17系が集中投入され[9]てある程度の近代化が進展していたが、電化の進展は1968年(昭和43年)までは総武本線の御茶ノ水駅 - 千葉駅までに過ぎず、他の路線は非電化の状況であった。千葉・房総方面において機関車牽引でない“電車”は中央緩行線に直通する総武線国電(御茶ノ水駅 - 千葉駅の各駅に停車)と私鉄である京成電鉄の路線だけであり、それ以外は蒸気機関車やディーゼル機関車が走る、関東でも電化整備の遅れた地域であった。そのため、新たに発足した日本国有鉄道(国鉄)は1964年(昭和39年)に決定した通勤五方面作戦の重要な一部として総武本線の輸送力増強に着手した。その中核として、国鉄初の本格的な都市内地下鉄道になる東京 - 錦糸町間の新線建設を含む東京 - 千葉間の快速線建設が決定された。
一方、千葉駅以東の近代化も徐々に進み、通勤路線としての性格が強まり、1968年(昭和43年)3月28日に総武本線・成田線の千葉駅 - 佐倉駅 - 成田駅間の電化が[新聞 1]、同年7月13日に千葉駅 - 木更津駅間の電化がそれぞれ完成、同区間に電車が走れるようになり、朝夕には、成田駅・木更津駅発着のカナリアイエロー色の101系電車を使用した直通電車が運行[11][12]され、さらに、同年10月1日のダイヤ改正から中央線の中野駅 - 木更津駅発着及び翌1969年(昭和44年)10月1日のダイヤ改正から中野駅 - 成田駅発着で毎日1時間に1 - 2本程度同電車を使用した電車快速が、また、同改正から御茶ノ水駅 - 千葉駅間では夜間下り2本の気動車快速列車が運行を開始した[13](なお、1975年(昭和50年)3月10日のダイヤ改正では千葉駅 - 銚子駅間にも快速列車が運行された。101系使用の直通電車および電車快速以外の詳細は後述)。
1972年(昭和47年)7月には東京駅 - 錦糸町駅の地下トンネル区間及び津田沼駅までの複々線完成により総武快速線が開業した[14]。これにより起点が御茶ノ水駅から東京駅に変更され、新設された東京駅の地下ホームからは新たに設定された房総方面への特急列車が発着した。一方、総武鉄道時代から東京と千葉以東を結ぶターミナルとなっていた両国駅は、急行列車の発着は残されたものの、その重要性が大きく低下した。1974年(昭和49年)には銚子駅までの電化が完成し、東京からの直通電車特急「しおさい」の運行が開始された[14]。その後、1980年(昭和55年)には横須賀線との直通運転(SM分離及びSF直結[15][16])が開始され、1981年(昭和56年)には千葉駅まで複々線区間が延長されて、当初の計画は完成した。これにより、国鉄による輸送は高速化され、国鉄は東京 - 船橋・千葉の都市間輸送で京成電鉄より優位に立った。また、1969年(昭和44年)には営団地下鉄(現在の東京地下鉄)東西線が西船橋駅 - 津田沼駅間に乗り入れ、特に通勤輸送で総武本線(中央・総武緩行線)の負担を大きく軽減していた。さらに、紆余曲折を経て1978年(昭和53年)に新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港すると、総武本線と成田線は京成電鉄を補完する鉄道アクセスルートとなった。なお、複々線化にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている[17]。このような状況で1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化を迎え、総武本線は施設保有と旅客輸送がJR東日本、貨物輸送がJR貨物へ承継された。ただし、銚子漁港からの鮮魚・醤油輸送がトラックに切り替えられて銚子駅 - 新生駅間の貨物線が廃止されたように、総武本線での貨物輸送量は減少していた。
民営化直前
総武本線の大部分を管轄する国鉄千葉鉄道管理局(民営化後はJR東日本千葉支社)では分割民営化に反対する国鉄千葉動力車労働組合(千葉動労)の勢力が強く、1985年(昭和60年)11月29日に千葉動労が実施した分割民営化反対ストライキの際にはこれを支持する革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)により国電同時多発ゲリラ事件が発生した。特に浅草橋駅は国鉄職員を含む約120人の中核派グループにより破壊・放火された。分割民営化後も千葉動労はJR東日本との対決を続け、特に千葉駅以東ではストライキによる列車運行の停止が毎年起こった。
民営化後
総武本線を受け継いだJR東日本は総武本線の改良を続け、ATS-Pの設置を進めた。また、当初は貨物線で計画していた京葉線を旅客営業兼用に転換し、国鉄末期の1986年(昭和61年)の第1期区間開業に続いて1990年(平成2年)に東京駅乗り入れを実現させた。内房線・外房線直通列車は定期特急の大半と快速の一部が総武本線(快速線)から京葉線に移行し、乗客の転移もあって、総武本線(快速線)の過密緩和に役立った。
1991年(平成3年)には成田新幹線の施設を転用した成田空港旅客ターミナルへの鉄道乗り入れが実現し、総武本線(および成田線)では空港連絡特急「成田エクスプレス」の運行が始まって、アクセス路線としての重要性を増した[18]。ただし、1985年以降の東関東自動車道の延伸により、高速バス(かしま号、犬吠号、利根ライナー号、あそう号、東京 - 八日市場線)の運行が拡大されると、「しおさい」などの「成田エクスプレス」以外の特急列車は本数削減や一部区間の普通列車化が行われ、総武本線(および成田線・鹿島線)は東京と千葉県北東部・茨城県南東部を結ぶ都市間輸送で劣勢に立っていることが明確となった。
2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号では、2015年までに整備すべき路線として新浦安(京葉線) - 船橋 - 津田沼間の新線建設(船橋 - 津田沼間は3複線化)が提唱された。千葉方面からの総武本線の列車は津田沼から新線に乗り入れ、新浦安から京葉線経由で東京駅へ、あるいはこれも2015年を整備目標とする新宿・三鷹方面への延伸線に向かうことが想定されている。また、新木場 - 新浦安間の建設(複々線化)と新木場からの東京臨海高速鉄道(りんかい線)乗り入れも明記されたが、運営会社のJR東日本はこの建設計画についてまだ正式な発表を行っていない。
年表
本線と貨物支線(越中島支線・新金線)のそれぞれの路線開業から各駅の開業や複線化及び路線施設関連などの使用開始年月日について記述する。
本線
元は本線だった錦糸町駅 - 御茶ノ水駅間の支線も含めて記述する。
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1904年(明治37年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)10月12日 国有鉄道線路名称制定により、総武本線になる[10]。
- 1910年(明治43年)3月27日:東武亀戸線の両国橋駅 - 亀戸駅間への直通運転廃止[10]。
- 1911年(明治44年)3月4日:四街道駅 - 佐倉駅間に物井信号所が開業[10]。
- 1912年(大正元年)11月1日 千葉駅 - 四街道駅間に都賀信号所が開業[10]。
- 1914年(大正3年)9月10日:南酒々井駅が開業[10]。
- 1915年(大正4年)
- 1922年(大正11年)4月1日:信号所が信号場に改称。
- 1926年(大正15年)
- 1928年(昭和3年)7月10日:新小岩操車場が駅に変更され、新小岩駅が開業[10]。
- 1931年(昭和6年)10月1日:両国橋駅が両国駅に改称[10]。
- 1932年(昭和7年)
- 3月15日:鉄道省電化計画委員会が両国駅 - 市川駅間の電化を決定。総工費は291万円、両国駅 - 亀戸駅間に電車専用線を新設し、市川駅に車庫、亀戸駅に変電所を新設、電力は自家変電・東電からの買電を併用する計画案であった。計画案においては、運転時間は約20分で、平常時は2両運転・ラッシュアワーは4両運転とし、いずれも4分おきでの運転とした。また、翌年3月中に工事を完成させ、4月1日から運転を開始するとした[新聞 2]。
- 7月1日:御茶ノ水駅 - 両国駅間が延伸開業(複線、旅客営業のみ)。同区間で電車の運転開始[10]。
- 12月27日:鉄道省が市川駅 - 船橋駅間の電化を決定。予算は50万円[新聞 3]。
- 1933年(昭和8年)
- 1935年(昭和10年)
- 1937年(昭和12年)4月5日:物井信号場が駅に変更され、物井駅が開業。
- 1942年(昭和17年)10月1日:西千葉駅が開業[10]。
- 1944年(昭和19年)4月1日:決戦非常措置要綱に基づき、総武本線(両国-銚子間)の列車の二等車が廃止される[21]。
- 1951年(昭和26年)7月15日:新検見川駅が開業[14]。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)10月1日:旭町駅が旭駅に改称。
- 1960年(昭和35年)6月1日:倉橋駅が開業[14]。
- 1963年(昭和38年)4月28日:房総東線(現在の外房線)のスイッチバック解消のため千葉駅を西千葉寄りに0.8 km移転[14]。
- 1964年(昭和39年)10月1日:飯倉駅が開業[14]。
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)9月25日:四街道駅 - 物井駅間が複線化および自動信号化[14]。
- 1967年(昭和42年)12月21日:臨時新東京国際空港閣僚協議会決定「新東京国際空港関連事業計画について」において、成田空港供用開始(1971年予定)までを目途に、東京・千葉間の複々線化の整備をすすめるとされる。
- 1968年(昭和43年)
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)7月5日:亀戸駅 - 新小岩駅間が3線化[26]。
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)
- 1978年(昭和53年)3月17日:成田空港への航空燃料輸送(暫定輸送)開始[28]。
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 1983年(昭和58年)8月:成田空港本格パイプライン稼働開始により、暫定輸送終了。
- 1986年(昭和61年)11月1日:成東駅 - 銚子駅間の貨物営業廃止。新小岩操駅が廃止され、新小岩操車場に変更[18]。
- 1987年(昭和62年)
- 1990年(平成2年)3月25日:御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線)で ATS-P 使用開始[新聞 7]。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)10月28日:千葉駅 - 佐倉駅間で ATS-P 使用開始[18]。
- 1997年(平成9年)3月22日:成東駅 - 銚子駅間の普通列車がすべて禁煙となる[30]。
- 1999年(平成11年)
- 5月29日:御茶ノ水駅 - 千葉駅間(緩行線)で東京圏輸送管理システム (ATOS) が導入される。
- 3月31日:佐倉駅 - 成東駅間の日本貨物鉄道の第二種鉄道事業廃止[18]。
- 2000年(平成12年)9月30日:東京駅 - 幕張駅間で ATOS が導入される。
- 2001年(平成13年)2月4日:佐倉駅 - 成東駅間で ATS-P 使用開始[18]。
- 2004年(平成16年)2月29日:東京駅 - 錦糸町駅間が ATC から ATS-P に変更[18][新聞 8]。
- 2005年(平成17年)12月10日:183系・189系を置き換える関係から特急にE257系500番台が投入され、運用を開始。
- 2006年(平成18年)10月21日:211系3000番台が運用開始。
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)3月12日:この日を最後に荷物列車廃止。
- 2011年(平成23年)3月12日:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
- 2020年(令和2年)2月16日:千葉駅で内房線・外房線・総武本線・成田線ホームに ATOS を導入。
越中島支線
- 1929年(昭和4年)3月20日:亀戸駅 - 小名木川駅間が開業[10]。
- 1958年(昭和33年)11月10日:小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間が延伸開業[14]。
- 1966年(昭和41年)10月1日:全線で自動信号化。
- 1971年(昭和46年)7月5日:起点が新小岩操駅に変更される。
- 1984年(昭和59年)2月1日:小名木川駅 - 越中島駅(現在の越中島貨物駅)間の運転方式が入換方式に変更。
- 1986年(昭和61年)11月1日:新小岩操駅廃止のため、起点が小岩駅に変更される[18]。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継。日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる[18]。
- 1990年(平成2年)3月10日:京葉線越中島駅との区別のため、越中島駅が越中島貨物駅に改称[18]。
- 2000年(平成12年)12月2日:小名木川駅が廃止[18]。
- 2001年(平成13年)3月1日:千葉総合指令室から東京総合指令室に移管。
- 2011年(平成23年)3月12日:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
新金線
- 1926年(大正15年)7月1日:新小岩操車場 - 金町駅間が開業[10]。
- 1928年(昭和3年)7月10日:新小岩操車場が新小岩駅に変更。
- 1964年(昭和39年)
- 1986年(昭和61年)11月1日:新小岩操駅廃止のため、起点が小岩駅に変更される[18]。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道に承継。日本貨物鉄道が第二種鉄道事業者となる[18]。
- 2001年(平成13年)3月1日:千葉総合指令室から東京総合指令室に移管。
- 2011年(平成23年)3月12日:新小岩操駅が新小岩信号場駅に改称。
貨物支線
注釈
- ^ 総武鉄道は日本鉄道に車両修繕を委託する方針から秋葉原から上野まで路線を延伸する計画としていた。横網町(両国付近) - 秋葉原間の建設は新橋 - 上野間竣工の時まで、という猶予が付いていた。本所 - 両国橋間は山手線同様の煉瓦造りによる高架線を計画していたが、資金不足によりプレートガーダーによって建設となった。
- ^ 震災によって焦土となった延伸予定地周辺では、復興事業として区画整理が行なわれたため線路敷地の捻出が容易となった。直接買収を行なったのは駅拡張の必要な両国駅・御茶ノ水駅周辺や奇跡的に焼失を免れた神田佐久間町などにとどまった。
- ^ 数本は成田駅からさらに佐原駅・香取駅経由鹿島線鹿島神宮駅発着
- ^ 総武本線経由に比べて営業キロ数で13.4 km長い。
- ^ これは東千葉駅のホーム有効長が8両分までしかないことに起因する。
- ^ 「そと房」が新宿駅19:45着、「犬吠」と「水郷」が新宿駅20:00着。「犬吠」と「水郷」は佐倉駅から併結される。
- ^ 時刻はいずれも同年10月1日のダイヤ改正時の時刻。その後のダイヤ改正毎に多少の時刻変更があり、2251Dは御茶ノ水駅20:07発→千葉駅21:01着、2259Dは御茶ノ水駅20:36発→千葉駅21:14着となった時期もあった[13][36]。
- ^ ただし、北総3線(総武・成田・鹿島線)が全線電化されるまで、気動車と電車が同時に運行された時期があった[36][38]。
- ^ 気動車と電車が同時に運行された時期の気動車は2・3両編成で北総3線向けに、電車は2両編成で房総半島方面向けに運行された[36]。
- ^ 千葉駅までは、君津駅発着及び上総一ノ宮駅発着、佐倉駅間までは、成田空港駅及び鹿島神宮駅発着の列車も同じ車両で運用。
- ^ 鹿島神宮駅発着の列車は佐倉駅で成田空港駅発着の列車と連結または解結を行う。
- ^ 東京駅 - 佐倉駅間は成田空港駅発着列車と連結し15両編成で、種別は快速となる。
- ^ 1963年に東千葉駅の位置に存在していた千葉駅を、現在の位置に移転したため。
- ^ 明治から昭和初期には、下志津駐屯地付近から四街道市、佐倉市一帯に、旧佐倉藩の砲術練習所を前身とする陸軍野戦砲兵学校や、下志津駐屯地の前身の下志津陸軍飛行学校といった陸軍施設があった。前身の総武鉄道は、軍事利用されることを意図して、こうした陸軍営所を経由して建設された。
- ^ 1968年の複線化の際に、県道136号沿いに存在していた線形を改良したため、トンネルがある新線経由となった(営業キロは変更なし)。
- ^ 快速線からの直通列車と平日運転の東京駅始発特急しおさい13号はこの成東駅が終点。
出典
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報道発表資料
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新聞記事
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- ^ “愈々15日から中野と東京間急行電車 船橋まで省電延長 千葉船橋間にガソリンカー”. 朝日新聞朝刊: p. 3. (1933年9月2日)
- ^ “ATS-P 東京圏中心に導入 工事急ピッチ JR東日本”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1990年7月16日)
- ^ “保安装置、ATS-Pに”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 1. (2004年3月8日)
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