総武横須賀地下駅の建設と新幹線設備の拡張工事
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「東京駅の歴史」の記事における「総武横須賀地下駅の建設と新幹線設備の拡張工事」の解説
横須賀線はこの当時、東京から大船まで東海道本線に乗り入れて運転を行っており、両線の列車が競合して列車の増発は困難な状況にあった。通勤圏の郊外への拡がりによって横須賀線の混雑は深刻化し、1930年(昭和5年)の横須賀線電車運転開始時には5両編成の列車が20分間隔であったのが、この頃には13両編成で7 - 8分間隔にまで輸送力を増強していたが、混雑率は300パーセントにも達する状態であった。混雑緩和のために横須賀線を東海道本線から分離する目的で、実際に一度は東京 - 品川間での線増工事に着手されたが、新幹線に線増用地を転用されることになってしまった。新幹線により東海道本線の長距離輸送需要が移転すれば、しばらくはしのげると判断されたためでもある。一方の総武本線についても、戦前には住宅開発が遅れた地域であったのがこの時代になって急速に住宅が増加し、混雑が激化していた。地下鉄東西線の建設によって一旦は総武本線の混雑が緩和されたものの、それがまた新たな住宅開発を招いて再び混雑が激化しつつあった。その対応として、通勤五方面作戦の一環として横須賀線や総武本線についても線増が行われることになった。総武本線を複々線化し、錦糸町から地下線で東京駅へ入り、品川へ抜けてそこから貨物線を転用した路線に抜けて大船までを完全に別線化することで、総武本線と横須賀線は直通運転を行えるようにすることになった。これにより結果的に、バルツァーの提案した総武本線の東京駅乗り入れが実現することになった。 1968年(昭和43年)1月10日に東京地下駅の工事が着手された。この地下駅は東京駅の丸の内側の駅前広場の下に、地下鉄丸ノ内線東京駅よりさらに下をもぐって建設された。地下5階の構造で深さは25 - 26 mあり、長さ300 mのプラットホームを2面4線として建設した。営業を続けたままの丸の内駅舎および地下鉄の下で建設を行う難工事であったが、この工事により丸の内北口と丸の内南口は地下でつながり、広大な地下広場が形成された。横須賀線が使用することになる貨物線から貨物列車を移す先になる新たな貨物線建設工事が、沿線住民の反対運動で大きく遅延したことから、総武本線の方が一足先に開通することになった。こうして1972年(昭和47年)7月15日、総武本線の東京乗り入れが開通して東京地下駅が利用開始され、東京駅は総武本線の起点ともなった。当初は地下駅のうち1 - 3番線のみの使用で、4番線の使用開始は1975年(昭和50年)3月10日となった。その後1976年(昭和51年)10月1日から品川までの地下線が開通して総武本線の電車が延長運転を開始し、1980年(昭和55年)10月1日に当初の予定通り横須賀線の分離(SM分離)が完成して横須賀線と総武本線の直通運転が開始された。 1969年(昭和44年)6月10日には、東京駅八重洲南口に東名ハイウェイバスの乗り場が新設され、東京駅は高速バスによっても名古屋や大阪と結ばれるようになった。 一方、東海道新幹線は予想を上回ってさらに利用客の増加が続いていた。さらに1970年(昭和45年)に予定されていた日本万国博覧会(大阪万博)対応の輸送を考えれば、2面4線でも不足すると見込まれるようになり、在来線のホームを新幹線用に転用する検討に入った。しかし工期的に大阪万博に間に合うように建設することは困難であり、万博輸送は2面4線で乗り切ることになった。その後総武・横須賀地下ホームが開業して横須賀線が地下に移転すれば地上プラットホームの負担が減るため転用が可能となると見込まれた。そこで山陽新幹線が博多まで開通する1975年(昭和50年)をめどに新幹線への第7プラットホームの転用工事を行う方向となった。一方1970年(昭和45年)5月に全国新幹線鉄道整備法が成立して、翌1971年(昭和46年)1月には東北・上越・成田の3新幹線について基本計画が制定された。これらの新幹線の東京側のターミナルの場所についても検討が行われたが、最終的に東京駅に乗り入れるほかはないと結論され、1971年(昭和46年)10月14日に東北・上越新幹線の工事実施計画が運輸大臣承認を受けた。これにより東京駅では新幹線用に4面8線が必要とされることになり、第7プラットホームだけでなく第6プラットホームも新幹線への転用が必要となった。横須賀線の地下駅への移転は遅れていたものの、博多開業までに間に合わせるためにまずは早急に第7プラットホームの転用工事に着手することになった。 こうして1971年(昭和46年)11月28日に東京駅構内で東北新幹線の起工式が挙行された。まず在来線用の第7プラットホームを使用停止する準備の工事が1972年(昭和47年)3月から開始された。この頃は東京駅に東北・高崎・常磐線方面の優等列車や一部普通列車が乗り入れてきていたが、これを上野で打ち切りとするために上野駅の信号扱所の改良や上野 - 秋葉原間に留置線の設置などを行った。また東海道本線でも東京駅へ乗り入れできなくなる一部の列車を収容するために品川駅の第4・5プラットホームの有効長の延伸と東京側での配線変更を実施した。これに加えて南側に荷物電車の留置線があったために到着のみしか処理できず、折り返すには一旦神田側に引き上げる必要があって効率が悪かった第4プラットホーム7番線について、留置線を整理して7番線から直接出発できる配線に変更し、これにより引き上げ・回送の回数が大幅に減少して効率的となった。東京 - 上野間の列車線の整理や東京駅構内の支障移転なども実施した。こうした工事を終えて、1973年(昭和48年)4月1日に第7プラットホーム(14・15番線)が使用停止となり、東北・高崎・常磐線からの優等列車および中距離列車の東京駅乗り入れは廃止となった。また東海道・横須賀線の発着番線については、東海道本線の優等列車は減少していたこともあり、第4プラットホーム(7・8番線)を湘南電車に、第5プラットホーム(9・10番線)を横須賀線に、第6プラットホーム(12・13番線)を優等列車に使用するように変更された。その後、横須賀線の地下への移転完了により第6プラットホームの13番線が廃止となり、優等列車の発着は9・10番線に変更となった。さらに12番線も1988年(昭和63年)3月13日に廃止となり第6プラットホームの使用が停止されている。 その後、第7プラットホームと15番線を約2.0 mかさ上げして新幹線対応に転用する工事を行い、目標としていた新幹線博多開業には遅れたものの、1975年(昭和50年)7月18日に第7プラットホームと15番線が新幹線用に使用開始され、東京駅の東海道新幹線ホームは3面5線となった。さらに新幹線の運転距離が長くなり事故・雪害等での遅延対策に必要とされたことから、14番線についても工事が行われ1979年(昭和54年)12月1日に使用開始された。これにより東京駅の東海道新幹線ホームは3面6線となった。当初の計画では、第8・9プラットホームが東海道新幹線用で、第6・7プラットホームを東北・上越新幹線用に充てる予定となっており、相互直通運転も想定されていたが、実質的に第7プラットホームが東海道新幹線用に使われることになってしまい、東北・上越新幹線の乗り入れが困難となってしまった。これは、上野駅にサブターミナルとして2面4線の設備を整備することにつながった。 また相変わらずコンコースや通路の混雑は激しく、特に中央通路は総武・横須賀線地下ホームの開設以来その利用客が八重洲側と行き来するのに使用されたことから非常に混雑してきていた。そこで、従来の幅8 mを一挙に3倍の25 mに拡幅する工事を行うことになった。また丸の内側には地下鉄の駅や総武・横須賀地下ホームがあり、八重洲側には地下の名店街や駐車場などがあってこの間の行き来もあったことから、中央通路の地下にも通路を設置することにした。1975年(昭和50年)3月に着工され、まず1979年(昭和54年)4月1日に中央通路の拡幅工事が完成した。さらに中央地下通路についても1980年(昭和55年)9月30日に開通となった。 在来線と新幹線を乗り換える改札付近の混雑も激しく、将来的に第6プラットホームを新幹線に転用すると乗換改札がさらに丸の内側に押し出されてきて、乗換客の滞留スペースがほとんどなくなってしまうことになる。そこで、東京駅開業以来盛土の高架であった第4プラットホームの下を高架橋に改築して乗換コンコースに充てることになり、1976年(昭和51年)3月に着工された。既存のホームや線路の脇から仮の柱を地下まで打ち込み、これによりホームや線路を仮受けしたうえで、下部の盛土を撤去し、本設の高架橋を工事した。この工事により拡大されたコンコースは、1980年(昭和55年)10月に使用開始された。この工事に伴って第1自由通路が使用できなくなったため、第2自由通路よりさらに神田側に新しい自由通路を設置する工事を行い、1981年(昭和56年)3月1日に使用開始された。
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