オリエント急行 オリエント急行の概要

オリエント急行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/02 02:07 UTC 版)

オリエント急行のポスター。

概要

オリエント急行の起源は、国際寝台車会社(日本での通称「ワゴン・リ」社)により1883年に運行が開始されたパリ - コンスタンティノープルイスタンブール)間の列車(当時は一部船舶連絡)である。その後、西ヨーロッパバルカン半島を結ぶ国際寝台車会社の列車群が「オリエント急行」を名乗るようになった。西ヨーロッパ側の起点はパリのほかフランスカレーベルギーオーステンデなどがあり、バルカン半島側の終点はイスタンブールのほかギリシアアテネルーマニアコンスタンツァブカレストなどがあった。これらの列車は出発地や途中の経路により以下のように名付けられていた。

いずれも時期によって区間や経由地は少しずつ異なり、またこのほかにも途中駅での客車の併結、分割は多数行われていた。第二次世界大戦後は区間短縮や廃止が相次いでおり、2009年時点で残ったのはストラスブール - ウィーン間のオリエント急行のみであった。これは国際夜行列車ユーロナイトの一列車となっていたが、2009年12月14日に廃止された[2]

第二次世界大戦前まで、これらの列車は原則として国際寝台車会社の客車のみで編成されており、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・アジアを結ぶ列車として、王侯貴族や外交官、裕福な商人や旅行者などに愛用された。車両の豪華さに限れば、青列車(ル・トラン・ブルー)などの西ヨーロッパ圏内の豪華列車に比べ一段劣っていたものの、西ヨーロッパ人にとっては異文化圏である「オリエント」へ向かう列車として、また東ヨーロッパやアジアの上流階層の人々にとっては彼らと西ヨーロッパを結びつけるものとして名声を得た。

第二次大戦後は航空機の普及や東西冷戦のためこうした性格は失われ、列車は通常の二等車三等車主体の編成に国際寝台車会社の寝台車が併結されるにすぎないものとなった。1971年には国際寝台車会社が寝台車事業から撤退し、寝台車は各国の鉄道事業者が保有するものとなった。

なお、上記以外の正式名称に「オリエント」のつかない列車でも、東西ヨーロッパを結ぶ列車のことをマスメディアなどが「オリエント急行」と呼ぶことがある[3]

一方で、1920年代から30年代の国際寝台車会社の車両を復元した観光列車が1970年代以降登場しており、これらも「オリエント急行」を名乗っている。おもなものには以下がある(#オリエント急行を復元した観光列車で後述)。

  • ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレスベニス・シンプロン・オリエント急行、Venice Simplon Orient Express、VSOE) - オリエント・エクスプレス・ホテルズ(現・ベルモンド)が1982年に運行を開始した、ロンドンイタリアを結ぶ観光列車。
  • ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(Nostalgie Istanbul Orient Express、NIOE)、旧名ノスタルジー・オリエント急行(Nostalgie Orient Express、NOE) - スイス旅行会社インターフルーク社が1977年から運行を始めた観光列車。
  • プルマン・オリエント急行(Pullman Orient Express、POE) - フランスのアコーホテルズの傘下に入った国際寝台車会社が所有する列車。寝台車はなく食堂車とラウンジカーによって編成された昼行専用である。

さらにヨーロッパの列車とは特に関係のない観光列車の名称としても用いられている。これにはベルモンド社がバンコクシンガポールの間で運行を行っている「イースタン・オリエント急行」(E&O)、アメリカン・オリエントエクスプレス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」メキシコを走行する「サウス・オリエント急行」中華人民共和国を走行する「チャイナ・オリエント急行」インドを走行する「ロイヤル・オリエント急行」が存在する(#アジアとアメリカの観光列車で後述)。

歴史

国際寝台車会社のエンブレム

登場まで

1872年ベルギーの銀行家の息子であるジョルジュ・ナゲルマケールス国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立った。アメリカ人の大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争を繰り広げていた。

西ヨーロッパとオリエントを結ぶオリエント急行は同社の看板列車として計画されており、1880年代初めにはパリ・ウィーン間で食堂車や豪華寝台車の運行が始まっていた[1]

開通記念列車

オリエント急行の開通記念列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(現・パリ東駅)を発車し、6日かけてコンスタンティノープル(イスタンブール)に到着した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブール」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、「オリエント急行」の行き先も旧名で表記されていた[4]

経路はパリ(フランス) - シュトラスブルク(ドイツ帝国、現・ストラスブール) - ミュンヘン - ウィーンオーストリア=ハンガリー帝国) - ブダペスト - オルソヴァルーマニア王国) - ブカレスト - ジュルジュ - ルセブルガリア公国) - ヴァルナ - コンスタンティノープル(オスマン帝国)である。ただしこのときにはコンスタンティノープルまでの線路は全通しておらず、国際寝台車会社の車両で運行されたのはジュルジュまでで、ドナウ川を船で渡り、ルセ - ヴァルナ間はイギリス資本のブルガリアの鉄道の通常の客車を利用、ヴァルナ - コンスタンティノープル間は汽船黒海を渡った[4]

記念列車は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼車掌車)2両の編成であった。寝台車と食堂車はボギー台車を使用しており、国際寝台車会社創業時の二軸車や三軸車からは大幅に乗り心地が向上していた[5]

記念列車には沿線各国の高官や鉄道関係者、ジャーナリストなどが招待されたほか、ナゲルマケールスをはじめとする国際寝台車会社の幹部も乗車した。途中ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど、沿線各国で歓迎を受けた。招待客の中にはアルザス出身でパリ在住の作家エドモン・アブー(en:Edmond François Valentin About)と、ロンドン・タイムズ紙のパリ支局長アンリ・ステファン・オペル・ドブラヴィッツ(en:Henri Blowitz[6]が含まれており、新列車は彼らの筆により西ヨーロッパに紹介された。ドブラヴィッツはさらに到着地のイスタンブールでスルタンアブデュルハミト2世と西ヨーロッパのジャーナリストとしては初の単独会見に成功している[7]

第一次世界大戦前

オリエント急行(青)と関連列車(第一次世界大戦前)

定期列車としてのオリエント急行は、1883年10月25日からパリ - ジュルジュ間で営業を開始した[注 1]。連絡する船舶などと合わせたパリからコンスタンティノープルまでの所要時間は81時間41分である[9]。当初は週1便の運行であったが、1885年には途中のウィーンまで毎日運行となった。また1885年からは当初のルートのほかブダペストからベオグラードソフィアを経由する列車(一部馬車連絡)も運転された。1889年6月には念願のコンスタンティノープルまでの列車の直通運転がベオグラード・ソフィア経由で実現した。これによりパリからコンスタンティノープルへの所要時間は67時間46分にまで短縮された[9]

1891年には列車名の表記をフランス語のExpress d'Orientから英語式語順のOrient Expressに改めた。また1896年にはルーマニア国内でドナウ川の鉄橋が開通し、ルーマニア方面へのオリエント急行はブカレスト経由コンスタンツァ行となった。

直通運転が実現したとはいえ、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、インフラストラクチャーの整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。1891年には盗賊団が列車を襲い、乗客を誘拐して身代金を要求する事件が起こった[4]。また1892年にはバルカン半島でのコレラの流行のため列車が10日間隔離された[10]

1900年には、ベルギーオーステンデからウィーンに至るオーステンデ・ウィーン急行の客車の一部がオリエント急行に併結されてコンスタンツァおよびコンスタンティノープルに直通するようになり、オーステンデ・ウィーン・オリエント急行と名付けられた。オーステンデではイギリスからの連絡船に接続しており、これによってイギリスからバルカン半島方面への所要時間が短縮された[10]。同年にはベルリンからの客車をブダペストでオリエント急行に併結させるベルリン・ブダペスト・オリエント急行が運行を開始したが、こちらは利用者が少なく翌年には直通を中止している[4]

このころオリエント急行を利用できたのは、王侯貴族や高級官吏、富豪などのごく限られた人々だった。パリ・コンスタンティノープル間の一等運賃と寝台料金の合計は当時の召使の給料1年分に相当したという[10]

第一次世界大戦

1914年第一次世界大戦が勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。1915年末のセルビアの敗北により、ドイツ帝国からイスタンブールまでが中央同盟国の線路でつながると、ドイツは翌1916年1月15日からベルリンおよびシュトラスブルク - イスタンブール間で「バルカン列車(Balkanzug)」の運転を始めた[11]。ドイツはかねてから国際寝台車会社の路線網がパリを中心に構成されており、オリエント急行もドイツ南部を通りすぎるのみで首都ベルリンを軽視していることに不満を抱いており、バルカン列車はオリエント急行に取って代わろうとしたものであった[4]。しかし1918年10月には同盟国のブルガリアでの敗退により運行を終えた[11]

戦間期

オリエント急行(青)とシンプロン・オリエント急行(紫)
オーステンデ・ウィーン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行

休戦後、オリエント急行は1919年1月18日からパリ - ウィーン - ブカレスト・ワルシャワ間で「軍用豪華列車」として運行を再開したが、利用できるのは連合国の軍人か軍の許可を得た者のみだった[12]。またパリ - ウィーン間の経路はドイツ領を避け、スイスバーゼルチューリッヒを経由してオーストリアに入り、アールベルクトンネル を通ってリンツウィーンに至るというものだった[1]

同年4月からは、パリ - ヴェネツィア間のシンプロン急行(Simplon Express)を延長する形で、パリ - ベオグラード間にシンプロン・オリエント急行(Simplon Orient-Express)がシンプロントンネル経由で運行を開始した。オリエント急行をシンプロントンネル経由で運転することは1905年のトンネル開通時から計画されていたが、この経路ではドイツ帝国領をまったく経由せず、オーストリア=ハンガリー帝国も南部を通りすぎるのみだったため、両大国の反発を招き実現していなかった。大戦後は両敗戦国の国際列車に関する発言力は低下し、そもそも領内通過自体が困難な状況であったため、シンプロントンネル経由が採用された。シンプロン・オリエント急行は翌1920年にはイスタンブールまで直通するようになった[10]

1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約には鉄道に関する条項もあり、ドイツは連合国から直通する国際列車を国内の最速列車と同様の待遇で通過させることが義務づけられた。ほかの同盟国と連合国との講和条約にも同様の条項があった。とはいえドイツ国内の線路の荒廃や石炭の不足、さらにフランスとドイツの間で勃発したルール問題のためオリエント急行のドイツ領通過はまだ困難だった[1][10]

ストラスブール、ミュンヘン経由のオリエント急行は1921年5月にブカレストまで再開されたものの、運行は不安定であり、1923年からはドイツ領を迂回しアールベルクトンネル経由となった。ミュンヘン経由のオリエント急行が復活したのは1924年11月のことである。またアールベルクトンネル経由の経路は1931年5月からアールベルク・オリエント急行(Arlberg Orient-Express)と名付けられた[13]

1930年代はオリエント急行の最盛期であり、シンプロン・オリエント急行がカレーおよびパリからイスタンブールおよびアテネまで毎日運行、オリエント急行(ストラスブール経由)が週3便カレー・パリからイスタンブール(ベオグラードからはシンプロン・オリエント急行と併結)・ブカレストへ、アールベルク・オリエント急行が週3便(オリエント急行とは別の日)にカレー・パリからブカレスト・アテネへ運行された。このほかボルドー、オーステンデ、ベルリン、プラハなどからの客車が途中駅から併結されることもあった[1]

またこの時期、イスタンブールでの終着駅であるシルケジ駅の対岸のアジア側にあるハイダルパシャ駅からは、オリエント急行に接続してタウルス急行トリポリバグダードまで(バグダード鉄道の全通までは一部自動車連絡)運行されており、さらに列車や自動車を乗り継いでカイロテヘランまで連絡していた[14]。当時のトーマス・クック時刻表ではロンドンからテヘラン、バスラまでの時刻が1枚の表に収められていた[10]

第二次世界大戦の勃発により、これらの列車はまず枢軸国中立国の領域内のみに短縮され、さらに全列車が運休となった[13]

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後のオリエント急行

第二次世界大戦の終戦後、まず1945年11月にシンプロン・オリエント急行がソフィアまで運行を再開し、1947年にはイスタンブールまでの直通が復活した。また1946年にはオリエント急行がパリ - ウィーン間で、アールベルク・オリエント急行がパリ - イスタンブール・ブカレスト間で運行を再開した。アテネへの直通は1950年に再開している。ただし、これらの列車は座席車簡易寝台車を含む編成となっており、国際寝台車会社の個室寝台車のみで構成された最盛期の姿は蘇らなかった。モータリゼーション時代の到来や航空機の性能向上により、オリエント急行を利用する長距離旅客は減少していた。また東西冷戦の影響もあり、国境駅での厳格な手荷物検査などが運行の障害となり、所要時間は戦前より大きく延びていた[10]

この時期「オリエント急行」を名乗った列車には、バルト海沿岸から共産圏のみを通ってバルカン半島に向かう「バルト・オリエント急行」や、西ドイツからオーストリアのタウエルントンネル(Tauerntunnel)を通ってバルカンに向かう「タウエルン・オリエント急行」があった[10]

1962年には国際列車の再編が行われ、シンプロン・オリエント急行とアールベルク・オリエント急行はイスタンブール・アテネへの直通を中止し、列車名から「オリエント」の字を外した。これに代わり、パリからバルカン半島方面への座席急行列車に直通の寝台車を連結する形でダイレクト・オリエント急行(Direct Orient Express、直通オリエント急行)がイスタンブールおよびアテネへ各週2便運行されるようになった[10]。ただしダイレクト・オリエント急行の実態は各国のローカル列車に老朽化した寝台車がわずかに連結されているのみであり、停車駅が多く時間調整のための長時間停車もあった。食堂車は一部区間でしか連結されず、当時の旅行記では食事の確保にすら苦労した様子が描かれている。無論、全線を乗り通す乗客は少なかった[4][7][15]

1971年は国際寝台車会社が寝台車の営業から撤退し、その車両はヨーロッパ寝台車プール(TEN)に引き継がれた[10]

1977年にはダイレクト・オリエント急行が廃止され、パリ発5月19日、イスタンブール発5月22日の列車が最終列車となった。これによりパリ - イスタンブール間の直通列車は消滅した[10]

イスタンブール直通廃止後

ストラスブール・ウィーン経由のオリエント急行は、1950年代からパリからブダペストまたはブカレストへの国際夜行列車となっていた。ダイレクト・オリエント急行の廃止後もブカレストへのオリエント急行は運行されていたが、2001年6月のダイヤ改正で運行区間をパリ - ウィーン(ウィーン西駅)間に短縮し、ユーロナイト262・263列車となった[16]。これによりスピードアップが図られたが、食堂車の連結は取りやめられた。

2002年11月6日、パリ発ウィーン行きの列車がフランス国内のナンシー駅発車後、寝台車で火災が発生し12名が死亡する事故が起きた[17]

2004年3月時点でのパリ - ウィーン間直通の編成は次のようなものであった。

寝台車1両 - クシェット(簡易寝台車)2両 - 2等座席車3両

その他に、パリ - ストラスブール間とザルツブルク - ウィーン間で1等座席車および2等座席車が増結されていた。

2007年6月10日にTGV東ヨーロッパ線が開業したことにともない、運転区間が現行のストラスブール - ウィーン間に短縮され、ストラスブールでTGV列車に接続するダイヤに改められたほか、停車駅の大幅な削減が実施された。

2008年12月のダイヤ改正でオリエント急行の列車番号は468・469と改められた。

しかしコスト高や高速鉄道網の発展により、この列車も2009年12月12日8時59分ストラスブール着の列車を最後に廃止された[2][注 2]

その後2021年12月13日から、「オリエント急行」と銘打ってはいないもののナイトジェットの新路線NJ468/469として、14年ぶりにパリ直通便として復活した。

停車駅は以下の通り。


注釈

  1. ^ 1883年6月5日に国際寝台車会社の旧式客車で運転された列車を最初のオリエント急行とする見方もある[8]
  2. ^ この報道を受け、ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス (VSOE) が廃止されるとの誤解が日本の一部で生じたが、VSOEを運行するオリエント・エクスプレス・ホテルズ社はこれを否定し、VSOEは今後も運行されるとしている[18]
  3. ^ 運行開始時はブローニュ=シュル=メール
  4. ^ 切手代はVSOEが負担する。

出典

  1. ^ a b c d e Guizol
  2. ^ a b Calder, Simon (Saturday, 22 August 2009). “Murder of the Orient Express” (英語). The Independent. http://www.independent.co.uk/travel/news-and-advice/murder-of-the-orient-express-1775809.html 2009年8月23日閲覧。 
  3. ^ 平井 pp. 269-271
  4. ^ a b c d e f g 平井
  5. ^ 小池滋 「オリエント急行百年の歴史」 教育社編『オリエント急行』
  6. ^ BLOWITZ, HENRI GEORGES STEPHAN ADOLPHE OPPER DE: JewishEncyclopedia.com, The unedited full-text of the 1906 Jewish Encyclopedia
  7. ^ a b c d e バースレイ
  8. ^ 山之内秀一郎 「車両の歴史と変遷」 教育社編『オリエント急行』
  9. ^ a b Guizol, p.32
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 窪田太郎 「オリエント急行の百年」『オリエント急行』 新潮社
  11. ^ a b Koschinski p.36
  12. ^ Guizol, p. 57
  13. ^ a b Koshinski pp.88 - 89
  14. ^ Koschinski p.42
  15. ^ 妹尾河童「『ブルーのプリマドンナ』へ愛をこめて」 『オリエント急行』 新潮社
  16. ^ Malaspina p. 112
  17. ^ 12 killed in French train fire - イギリス・インディペンデント紙 電子版 - 2002年11月6日作成・2020年4月29日閲覧
  18. ^ オリエント・エクスプレスに関する一連の誤認報道について”. 2009年9月8日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g 山之内秀一郎「車両の歴史と変遷」 教育社編『オリエント急行』
  20. ^ 平井 pp. 261-263
  21. ^ Malaspina p.96
  22. ^ a b c d Koschinski pp.76-77
  23. ^ a b c Koschinski pp.77-79
  24. ^ ご乗車前に - よくある質問”. 2010年11月15日閲覧。
  25. ^ a b 櫻井
  26. ^ 料金&スケジュール”. 2010年11月15日閲覧。
  27. ^ Suzanne Rowan Kelleher (2023年4月26日). “「そしてオリエント急行もなくなった」ブレグジットの余波は英鉄道旅にも”. Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン). 2023年4月27日閲覧。
  28. ^ Koschinski p. 79
  29. ^ Recreating the Golden Age of Rail TravelJapan Railway & Transport Review 1998年5月作成 2019年4月21日閲覧
  30. ^ Odette Anderson (1998年5月). “Recreating the Golden Age of Rail Travel”. 2019年4月28日閲覧。
  31. ^ イースタン& オリエンタル・エクスプレス - 東南アジアの豪華列車”. ベルモンド. 2019年4月28日閲覧。
  32. ^ イースタン&オリエンタル・エクスプレス”. タイ国政府観光庁. 2019年4月28日閲覧。
  33. ^ グランドルクス・エクスプレス紹介ページ日本語
  34. ^ Sierra Madre Express - American-rails.com - 2020年4月29日閲覧





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