1993年死刑確定囚(7人)
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「日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)」の記事における「1993年死刑確定囚(7人)」の解説
事件名(死刑囚名)判決確定日事件発生日備考(執行日など)連合赤軍事件(坂口弘) 1993年3月9日(上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日) 1971年 - 1972年2月 1946年(昭和21年)11月12日生まれ。2020年9月27日時点で東京拘置所に収監中(現在75歳)。共犯の一部が超法規的措置で出国。1982年6月18日に東京地裁(中野武男裁判長)で死刑判決を、1986年9月26日に東京高裁(山本茂裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1993年2月19日に最高裁第三小法廷(坂上壽夫裁判長)で上告棄却判決(第一審・控訴審の死刑判決を支持)を受け、同判決への訂正申し立ても1993年3月9日付で棄却されたため、坂口・永田の死刑と植垣康博(元兵士)の懲役20年判決が確定。著書『坂口弘歌稿』『あさま山荘1972』や歌集『常しへの道』『暗黒世紀』など。 連合赤軍事件(永田洋子) 1993年3月9日(上告審判決への訂正申立に対する棄却決定日) 1971年 - 1972年2月 1945年(昭和20年)2月8日生まれ。坂口の共犯(裁判経緯は坂口と同一)。脳腫瘍の手術後に脳萎縮・誤嚥性肺炎などを患い、2011年2月5日に多臓器不全のため東京拘置所内で死去(65歳没)。死去時点で再審請求中だった。著書『十六の墓標』『私生きてます』など多数。 山中湖連続殺人事件(澤地和夫) 1993年7月7日 1984年10月11日1984年10月25日 1939年(昭和14年)4月15日生まれ。元警視庁警部。1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、新宿に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化、1983年8月には1億5,000万円の夫妻を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した。1984年10月11日、自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(I・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、東京都北区の宝石商男性(当時36歳)を山梨県南都留郡山中湖村の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた。次いで同月25日、Iと共謀して埼玉県上尾市の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、浦和市(現:さいたま市浦和区)内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた。刑事裁判では強盗殺人・死体遺棄罪などに問われた。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・Iの両被告人を死刑、P被告人を無期懲役とする判決を言い渡し、東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した。その後澤地・Iの両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で、同年7月5日、東京拘置所長に上告取下書を提出。上告取下書は同月7日付で最高裁に送付され、同日付で第二小法廷(大西勝也裁判長)によって受理されたため、死刑が確定した。なお、共犯Iは1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定している。2007年10月から胃癌の治療を受けていたが完治せず延命治療を拒否し、2008年12月16日に東京拘置所内で多臓器不全のため獄死(69歳没・再審請求中)。公判中の1989年1月に手記『監獄日記 東京拘置所の四季』(彩流社)を出版。以後、死刑確定後には『東京拘置所死刑囚物語 獄中20年と死刑囚の仲間たち』(2006年3月・彩流社)・『なぜ死刑なのですか 元警察官死刑囚の言い分』(2006年10月・柘植書房新社)を刊行したほか、死後にも『殺意の時 元警察官・死刑囚の告白』(2010年4月・彩流社)が刊行された。 今市4人殺傷事件(藤波芳夫) 1993年10月4日 1981年3月29日 1931年(昭和6年)5月15日生まれ。本籍地は埼玉県鴻巣市逆川一丁目75番地1。栃木県今市市大室(現:日光市大室)で離婚した妻の実家に押し入り、親類の男女2人を刺殺した。1982年2月19日に宇都宮地裁(竹田央裁判長)で死刑判決を受け、1987年11月11日に東京高裁(岡田満了裁判長)で控訴棄却判決を受けた。1993年9月9日に最高裁第一小法廷(味村治裁判長)で上告棄却判決を受け、死刑が確定。死刑確定後に「事件当時は覚醒剤の影響下にあり、飲酒によりフラッシュバック状態になって事件を起こした」として、責任能力の問題を主張し、再審請求していた。2006年12月25日に東京拘置所で死刑執行(75歳没)。この年齢は同日に処刑された秋山芳光(当時77歳)とともに、それまで戦後最高齢とされていた古谷惣吉(71歳3か月)を上回っている。2008年10月11日に開催された「響かせあおう死刑廃止の声2008 死刑囚からあなたへ」では「死刑執行時は車椅子に乗った状態から刑務官に両脇を抱えられて刑場に立たされた」とする死刑執行の場面が再現されているほか、『年報・死刑廃止2007』には遺書全文が掲載されている。 名古屋保険金殺人事件 (H) 1993年9月21日 1979年11月19日 - 1983年12月25日 1950年(昭和25年)11月3日生まれ。旧姓T。経営していた板金塗装会社の経営不振から、1979年11月に知人の共犯Iと共謀して知り合いの織布工A(当時20歳)に生命保険(2,000万円)を掛け、衣浦港(愛知県知多郡武豊町)に突き落として殺害した。さらに1983年1月にも雇っていた従業員B(同30歳)に生命保険(2,000万円)を掛けた上で京都府相楽郡加茂町内にて交通事故を装って殺害したほか、同年12月には愛知県半田市内で金融業者C(当時39歳)を借金逃れのために殺害した。1985年12月5日に名古屋地裁刑事第2部(鈴木雄八郎裁判長)で共犯Iとともに死刑判決を受け、1987年3月31日に名古屋高裁刑事第1部(山本卓裁判長)で控訴棄却判決を受けた。共犯Iは控訴審判決後に上告せず、死刑確定。自身も1993年9月21日に最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告棄却判決(5裁判官全員一致)を受け死刑が確定したが、裁判官・大野正男が「死刑制度は憲法違反とは断言できないが、合憲判断を下した1948年の大法廷判決以降、死刑が「残虐な刑罰」(日本国憲法36条違反)に当たると評価される余地は著しく増大した。死刑廃止に向かいつつある国際的動向と、死刑制度の存続を支持する我が国民との意識とが大きな隔たりを持ち続けることは好ましくない。一定期間、死刑執行を法律で実験的に停止し、犯罪増加の有無との相関関係を調べるなどの立法的施策が考えられる」と補足意見を述べた。死刑確定後には1997年11月・2000年5月下旬と2度にわたり恩赦出願をしたが、2度とも名古屋拘置所から「恩赦不相応」の告知がなされた。死刑が確定した1993年および死刑確定後の2000年には被害者Bの遺族(母親・兄ら)が「Hを許すことはできないが、生きてこそ償いだ。死刑執行は望まない」とする嘆願書を収監先・名古屋拘置所宛に提出し、後者は死刑囚Hの弁護人が2000年5月下旬に提出した恩赦願いに添えていた。Bの兄は2001年4月にも高村正彦法務大臣に対し死刑執行の中止などを訴えたが、森山眞弓法務大臣の死刑執行命令により2001年12月27日に名古屋拘置所で死刑執行(51歳没)。 北九州母娘殺傷事件 (M) 1993年11月16日 1990年3月12日 1950年(昭和25年)3月18日生まれ。無期懲役刑の受刑者が仮釈放中に再犯した事件。1993年10月27日に福岡地裁小倉支部(森田富人裁判長)で死刑判決を受け、弁護人が控訴したが、1993年11月16日に自ら控訴を取り下げたことで死刑が確定した。その後公判再開を申し立てたが棄却され、2009年1月29日に福岡拘置所で死刑執行(58歳没)。本事件の死刑確定以降、被害者1人の殺人事件に対する死刑確定は1998年4月(熊本大学生誘拐殺人事件)までなかった。 平取事件 (O) 1993年12月10日 1979年7月18日 1944年(昭和19年)1月19日生まれ。日高振興局管内・沙流郡平取町で剥製業者一家4人を射殺した。1984年3月23日に札幌地裁(安藤正博裁判長)で死刑判決を受け、1987年5月19日に札幌高裁(水谷富茂人裁判長)で控訴棄却判決。1993年12月10日に最高裁(小野正男裁判長)で上告棄却判決を受け死刑が確定したが、1999年11月8日に収監先・札幌拘置支所(札幌刑務所に隣接)で入浴中、貸し出された剃刀で右頸部(頸動脈)を切り自殺(55歳没)。
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