1966年-1974年
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「ミッシェル・ポルナレフ」の記事における「1966年-1974年」の解説
ロンドンにて「ノンノン人形(La poupée qui fait non)」、「悲しきマリー」など5曲をレコーディング。ギターにはジミー・ペイジ、ベースにはジョン・ポール・ジョーンズ(後に共にレッド・ツェッペリンのメンバー)、ビッグ・ジム・サリヴァンが参加した。 5月、4曲入りEP「ノンノン人形」がDisc'AZより発売されてデビューする。15万枚を売る大ヒットとなった。6月には続く3曲入りEP「愛の願い(Love me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダムに上り詰める。8月には、アンチープ・フェスティヴァルで「愛の願い」を歌って評論家賞を受賞。当時のフランスの首相・ジョルジュ・ポンピドゥー(後に大統領)は、「時代の流れだ。私は今日、新しい歌手の存在を知った」と賛辞の言葉を贈った。 10月、日本でテイチクよりシングル「ノンノン人形」が発売される。 11月、フランスでファースト・アルバム『Love Me, Please Love Me』を発表した。英語の作詞でプロコル・ハルムのキース・レイドが参加している。当時は旧来のシャンソンと区別するため、フレンチ・ポップスと呼ばれた。 1967年同じレコード会社に所属するドミニク・ワルテルに協力し、ワルテルの4曲入りEP盤『Mrs. Applebee』の3曲の編曲と音楽監督を担当。更に、ワルテルの4曲入りEP盤『Les Petits Boudins』に1曲 "Je N'Ai Pas Osé" を提供した。 1968年1月、「愛はあの人の胸に」がフランスでヒット。2枚目のアルバム『Le Bal Des Laze』を発表。 ポルナレフの曲「バラ色の心 (Ame Câline)」が "Soul Coaxing" に改題されて、レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラによって演奏されたものが欧米のヒットチャートにランクインした。そして、欧米の多くのラジオ局が同曲をテーマ曲に選定し、ポルナレフの名前が世界的に広く知られるようになる。その後、多くのイージーリスニングのバンドやオーケストラによって同曲が "Soul Coaxing" のタイトルでカバーされている。ザ・ベンチャーズもカバーし、ペギー・マーチなどは、英訳した歌詞を乗せてカバーした。 7月、「門番の娘」がフランスでヒット。12月、演出家・ジャン=ルイ・バローの依頼で、演劇『ラブレー (Rabelais)』の音楽を担当。演劇畑の評論家からも高い評価を受ける。6曲入りEP盤 "Extraits De La Musique De Scène De Rabelais" も発売された。 1969年3月、2枚目のアルバム『Le Bal Des Laze』がシャルル・クロ協会のディスク大賞を受賞。 5月、「渚の想い出」がフランスで大ヒット。夏季3大ヒットの1つに数えられる。B面は「シェリーに口づけ」。11月、パリのオランピア劇場での初の公演を行う。12月、「ステキなランデブー」がフランスでヒット。 フランス映画『Erotissimo』でポルナレフ作曲の「La femme faux-cils」が使用されている。(作詞はジャン=ルー・ダバディ、歌は主演の アニー・ジラルド) 1970年 1月、「想い出のシンフォニー」がフランスでヒット。4月までレコード売上げの1位を独占。1月14日から同月27日まで、オランピア劇場で公演を行い、大成功となる。 3月、映画プロデューサーのクロード・ルルーシュから映画『哀しみの終るとき』の音楽の依頼を受ける。映画の公開は1971年。7月、「僕は男なんだよ」がフランスで大ヒット。B面は「忘れじのグローリア」。10月、ギリシャ、モロッコなどを旅行した後、ロンドンで次のアルバム『Polnareff's』のレコーディングを開始。 11月、アルバム『Polnareff's』のストリングスとブラスのセクションの録音をパリで行う。また、久々に公に姿を現した。フランソワ・レシャンバック監督のスイス映画『L'indiscret (口の軽い人)』の音楽を担当。映画の公開は1974年。 1971年8月に日本ではCBSソニー(レーベルはその前月に発足されたばかりのエピック)よりシングル「シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)(c/w 初めての愛)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム『愛と青春のトルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1』が発売される。それまで、テイチク、日本コロムビア、CBSソニーからレコードが発売されていたが、日本での人気はこの時に火が付き、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚を売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点が日本でのデビューとされている。 10月、シングル「愛の願い (c/w 君の幸福と僕の後悔)」、フランス盤と同内容(但し、ジャケットのデザインは異なる)のセカンド・アルバム『フレンチ・ポップスのスーパースター/ ミッシェル・ポルナレフ 2』をリリースした。当時の日本でのキャッチフレーズは「フレンチ・ポップスのスーパースター」と「ロックとロマンの出逢い」であった。 フランスのコメディ映画「大乱戦 (La Folie Des Grandeurs)」の音楽を担当。サントラ盤のLPがフランスで発売された。主演はかつてポルナレフの父親が曲を提供したこともある歌手・俳優のイヴ・モンタン。 1972年フランスでは、シングル「愛の休日」が大ヒット。「哀しみの終わるとき」(同名映画のテーマ曲)、「愛のコレクション」、「渚の想い出」のシングルも続いて発売された。日本では、サード・アルバム『ポルナレフの世界 / ポルナレフ3』と、それまでの3枚のアルバムに収録されなかったヒット曲をまとめた編集盤『ポルナレフ・ナウ』が発売された。また、日本ではシングル「哀しみの終わるとき (c/w カトリーヌの追憶)」、「愛のコレクション (c/w 神父様の結婚式)」、「渚の想い出 (c/w コンピュータの夢)」、「愛の休日 (c/w 愛の物語)」が発売された。 1月6日、ポルナレフのインタビューとライヴのシーンをメインとしたドキュメンタリー番組 "A Bout Portant" がフランスの公共テレビ局ORTFで放送された。後にこの映像は INA(フランス国立視聴覚研究所)からインターネットを通じて有料配信され、日本では「ミッシェル★ポルナレフ」のタイトルで1999年にビデオソフト(VHS版のみ)として発売されている。 10月6日から同月22日まで、パリ・オランピア劇場でのライブ「ポルナレボリューション」(Polnarévolution = Polnareff + Révolution の造語)が開催されたが、公演に先立つ宣伝用ポスターはポルナレフ自身の臀部を露出した写真が使用され、それがパリの街中に貼り出された。この行為がフランス当局より「公序を乱した」としてポルナレフが逮捕され、フランス国内各紙一面に「ポルナレフ逮捕される」の記事が掲載され、大きなセンセーションを巻き起こした。ポルナレフはこの件の裁判で罰金360万フランの求刑がなされたが、判決では、ポスター1枚あたり10フラン、合計で罰金6,000フランの支払が課せられた。 この時のオランピア劇場でのライヴ録音盤が、後に「熱狂のオランピア (原題:Polnarévolution)」のタイトルで発売されている。 また、フランスの人気ロック歌手・ジョニー・アリディ出演のドキュメンタリー映画『ジョニー・オン・ステージ』にピアニストとしてサプライズ・ゲスト出演する。撮影は1971年9月24日、パリのパレ・デ・スポール。 シングル「愛の休日」は日本でも大ヒットし(「シェリーに口づけ」を超える彼の最大のヒットとなった)、11月に初の来日公演が実現した。バック・バンドはフランスのロック・バンド、ディナスティ・クリジス(Dynastie Crisis)。東京公演を録音したライヴ盤「ポルナレフ・ア・トーキョー(発売時邦題)」が翌年になって日本でのみ発売されている。この日本での大人気に乗じて、翌年に予定されている次作アルバムについて日本先行発売をする計画が発表された。 1973年4月、再びオランピア劇場でのコンサート「ポルナレーヴ」(Polnarêve = Polnareff + Rêve の造語で、Rêve はフランス語で「夢」の意味)を開催。3週間にわたる最終ステージで、フランスとの訣別宣言をする。この後、ポルナレフは2007年までの34年間、フランスでのコンサートを行なっていない。 前年のオランピア劇場コンサートでのセクシー・ポスターをエスカレートさせ、今回はオールヌードで股間を帽子で隠している写真が公開され、日・仏で話題となる。今回はフランス当局からのクレームなし。この写真は後に、日本編集アルバム「ポルナコレクション」のジャケットにも使用されている。5月31日、ロスアンジェルスに滞在中、母の訃報が届く。 6月、2度目の来日公演を開催。東京でのライヴの模様が90分の特別番組「ミッシェル・ポルナレフ / ロックンロール熱狂のライブステージ」として東京12チャンネルで同月17日に放送された。オープニングの「ラース家の舞踏会」の奇抜なライト・ショーから始まり、アンコールではステージ上に観客を上げて、"Be-Bop-A-Lula", "What'd I Say" などのロックン・ロールのスタンダード・ナンバーを歌う姿まで放送され、ライヴでのポルナレフの姿を見せる貴重な映像となっている。また、NHKの番組『世界の音楽』にも出演し(同月7日にスタジオ収録。17日に放送され、後日に再放送あり)、「シェリーに口づけ」、「忘れじのグローリア」、「愛のコレクション」など数曲の演奏を披露している。ただし、「シェリーに口づけ」はレコード音源によるリップシンクであった。後年、NHK教育テレビの『たのしいフランス語』でこの映像の一部が数度放送されている。バック・バンドは初回の訪日公演と同じく、ディナスティ・クリジスが担当。 7月20日、日本先行発売予定のアルバム『ポルナレフ革命』(原題は Polnarévolution ではなく Polnarêve)の発売は同年12月に延期された。ちなみに、『ポルナレフ革命』は日本側(エピック)で独自にジャケット制作し、日本側の担当ディレクターによって曲順が決められたため、日本盤と翌年6月に『Michel Polnareff』のタイトルでリリースされたフランス盤は内容が異なる。(曲の長さの違いや、ミキシング違いなどもある) その後、アメリカ合衆国・ロサンゼルスへ移住し、本格的なアメリカ・デビューを目指したが、本国フランスとロサンゼルスでの生活習慣のギャップ、税金問題(財務担当者であったベルナール・スノーによる横領が発覚し、数年間の納税未納が明らかになり、500万フランの脱税容疑がかけられ、帰国すれば即時逮捕と言われていた)でノイローゼ気味となった。 日本では、シングル「忘れじのグローリア (c/w ジョブ)」、「火の玉ロック (c/w トランペット)」、「愛の伝説 (c/w ロージーからの手紙)」が発売された。「火の玉ロック」は前年の東京公演のライブ・レコーディング盤「ポルナレフ・ア・トーキョー」からのシングル・カットで、かつてジェリー・リー・ルイスがヒットさせたロックン・ロールのスタンダード・ナンバーである。「愛の伝説」はアルバム『ポルナレフ革命』からの先行発売。「僕はロックンローラー」もヒットした。 1974年日本ではアルバム『ポルナレフ革命』からのシングル・カット「悲しみのロマンス (c/w ラース家の舞踏会 - ライヴ)」がヒット。「悲しきマリー (c/w 君の幸福と僕の悔恨)」もヒットした。この「悲しきマリー」が日本でのポルナレフ最後のヒットになった。6月、自叙伝「Polnareflexion」がフランスで発売された。
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