1966年-1974年とは? わかりやすく解説

1966年-1974年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 03:35 UTC 版)

ミッシェル・ポルナレフ」の記事における「1966年-1974年」の解説

ロンドンにて「ノンノン人形La poupée qui fait non)」、「悲しきマリー」など5曲をレコーディングギターにはジミー・ペイジベースにはジョン・ポール・ジョーンズ(後に共にレッド・ツェッペリンメンバー)、ビッグ・ジム・サリヴァン参加した5月4曲入りEPノンノン人形」がDisc'AZより発売されデビューする15万枚を売る大ヒットとなった6月には続く3曲入りEP「愛の願いLove me, please love me)」も大ヒットし、一躍スターダム上り詰める8月には、アンチープ・フェスティヴァルで「愛の願い」を歌って評論家賞を受賞当時フランスの首相ジョルジュ・ポンピドゥー(後に大統領)は、「時代流れだ。私は今日新しい歌手の存在知った」と賛辞言葉贈った10月日本テイチクよりシングルノンノン人形」が発売される11月フランスでファースト・アルバムLove Me, Please Love Me』を発表した。英語の作詞プロコル・ハルムのキース・レイドが参加している。当時旧来のシャンソン区別するため、フレンチ・ポップス呼ばれた1967年同じレコード会社所属するドミニク・ワルテルに協力し、ワルテルの4曲入りEP盤『Mrs. Applebee』の3曲の編曲音楽監督担当。更に、ワルテルの4曲入りEP盤『Les Petits Boudins』に1曲 "Je N'Ai Pas Osé" を提供した1968年1月、「愛はあの人の胸に」がフランスでヒット2枚目のアルバムLe Bal Des Laze』を発表ポルナレフの曲「バラ色心 (Ameline)」が "Soul Coaxing" に改題されて、レイモン・ルフェーブル・グランド・オーケストラによって演奏されたものが欧米ヒットチャートランクインした。そして、欧米多くラジオ局が同曲をテーマ曲選定しポルナレフの名前が世界的に広く知られるうになるその後多くイージーリスニングバンドオーケストラによって同曲が "Soul Coaxing" のタイトルカバーされている。ザ・ベンチャーズカバーしペギー・マーチなどは、英訳した歌詞乗せてカバーした7月、「門番の娘」がフランスでヒット12月演出家ジャン=ルイ・バロー依頼で、演劇ラブレー (Rabelais)』の音楽担当演劇畑の評論家からも高い評価を受ける。6曲入りEP盤 "Extraits De La Musique De Scène De Rabelais" も発売された。 1969年3月2枚目のアルバムLe Bal Des Laze』がシャルル・クロ協会ディスク大賞受賞5月、「渚の想い出」がフランスで大ヒット夏季3大ヒット1つ数えられるB面は「シェリーに口づけ」。11月パリオランピア劇場での初の公演を行う。12月、「ステキランデブー」がフランスでヒットフランス映画『Erotissimo』でポルナレフ作曲の「La femme faux-cils」が使用されている。(作詞ジャン=ルー・ダバディ、歌は主演アニー・ジラルド1970年 1月、「想い出シンフォニー」がフランスでヒット4月までレコード売上げの1位を独占1月14日から同月27日まで、オランピア劇場公演行い大成功となる。 3月映画プロデューサークロード・ルルーシュから映画哀しみの終るとき』の音楽依頼を受ける映画公開1971年7月、「僕は男なんだよ」がフランスで大ヒットB面は「忘れじのグローリア」。10月ギリシャモロッコなどを旅行した後、ロンドン次のアルバムPolnareff's』のレコーディング開始11月アルバムPolnareff's』のストリングスブラスセクション録音パリで行う。また、久々に公に姿を現した。フランソワ・レシャンバック監督スイス映画『L'indiscret (口の軽い人)』の音楽担当映画公開1974年1971年8月日本ではCBSソニーレーベルはその前月発足されたばかりエピック)よりシングルシェリーに口づけTout, tout pour ma chérie)(c/w 初めての愛)」と、同曲を追加収録したファースト・アルバム『愛と青春トルバドゥール/ミッシェル・ポルナレフ 1』が発売されるそれまでテイチク日本コロムビアCBSソニーからレコード発売されていたが、日本での人気はこの時に火が付き、「シェリーに口づけ」がラジオ・チャートでトップ入りし、40万枚売り上げる大ヒット・シングルとなったことで、実質的にはこの時点日本でのデビューとされている。 10月シングル「愛の願い (c/w 君の幸福と僕の後悔)」、フランス盤と同内容(但し、ジャケットデザイン異なる)のセカンド・アルバムフレンチ・ポップススーパースター/ ミッシェル・ポルナレフ 2』をリリースした当時日本でのキャッチフレーズは「フレンチ・ポップススーパースター」と「ロックロマン出逢いであったフランスコメディ映画大乱戦 (La Folie Des Grandeurs)」の音楽担当サントラ盤LPフランスで発売された。主演はかつてポルナレフ父親が曲を提供したこともある歌手俳優イヴ・モンタン1972年フランスではシングル「愛の休日」が大ヒット。「哀しみの終わるとき」(同名映画テーマ曲)、「愛のコレクション」、「渚の想い出」のシングル続いて発売された。日本では、サード・アルバム『ポルナレフ世界 / ポルナレフ3』と、それまで3枚アルバム収録されなかったヒット曲をまとめた編集盤ポルナレフ・ナウ』が発売された。また、日本ではシングル哀しみの終わるとき (c/w カトリーヌ追憶)」、「愛のコレクション (c/w 神父様の結婚式)」、「渚の想い出 (c/w コンピュータの夢)」、「愛の休日 (c/w 愛の物語)」が発売された。 1月6日ポルナレフインタビューライヴシーンメインとしたドキュメンタリー番組 "A Bout Portant" がフランス公共テレビORTF放送された。後にこの映像INAフランス国立視聴覚研究所)からインターネット通じて有料配信され、日本ではミッシェルポルナレフ」のタイトル1999年ビデオソフトVHS版のみ)として発売されている。 10月6日から同月22日まで、パリ・オランピア劇場でのライブ「ポルナレボリューション」(Polnarévolution = Polnareff + Révolution の造語)が開催されたが、公演先立つ宣伝用ポスターポルナレフ自身臀部露出した写真使用され、それがパリ街中に貼り出された。この行為フランス当局より「公序乱した」としてポルナレフ逮捕されフランス国各紙一面に「ポルナレフ逮捕される」の記事掲載され大きなセンセーション巻き起こしたポルナレフはこの件の裁判罰金360フラン求刑なされたが、判決では、ポスター1枚あたり10フラン合計罰金6,000フラン支払課せられた。 この時のオランピア劇場でのライヴ録音盤が、後に「熱狂のオランピア (原題:Polnarévolution)」のタイトル発売されている。 また、フランス人気ロック歌手ジョニー・アリディ出演ドキュメンタリー映画『ジョニー・オン・ステージ』にピアニストとしてサプライズ・ゲスト出演する撮影1971年9月24日パリのパレ・デ・スポール。 シングル「愛の休日」は日本でも大ヒットし(「シェリーに口づけ」を超える彼の最大ヒットとなった)、11月に初の来日公演実現したバック・バンドフランスロック・バンド、ディナスティ・クリジス(Dynastie Crisis)。東京公演録音したライヴ盤「ポルナレフ・ア・トーキョー(発売邦題)」が翌年になって日本でのみ発売されている。この日本での大人気乗じて翌年予定されている次作アルバムについて日本先行発売をする計画発表された。 1973年4月、再びオランピア劇場でのコンサート「ポルナレーヴ」(Polnarêve = Polnareff + Rêve造語で、Rêveフランス語「夢」の意味)を開催。3週間にわたる最終ステージで、フランスとの訣別宣言をする。この後ポルナレフ2007年まで34年間、フランスでコンサート行なっていない。 前年オランピア劇場コンサートでのセクシー・ポスターをエスカレートさせ、今回はオールヌードで股間帽子隠している写真公開され日・仏話題となる。今回フランス当局からのクレームなし。この写真は後に、日本編集アルバム「ポルナコレクション」のジャケットにも使用されている。5月31日ロスアンジェルス滞在中、母の訃報が届く。 6月2度目来日公演開催東京でのライヴ模様90分の特別番組ミッシェル・ポルナレフ / ロックンロール熱狂ライブステージ」として東京12チャンネル同月17日放送された。オープニングの「ラース家の舞踏会」の奇抜なライト・ショーから始まりアンコールではステージ上に観客上げて、"Be-Bop-A-Lula", "What'd I Say" などのロックン・ロールスタンダード・ナンバーを歌う姿まで放送されライヴでのポルナレフの姿を見せ貴重な映像となっている。また、NHK番組世界の音楽』にも出演し同月7日スタジオ収録17日放送され後日再放送あり)、「シェリーに口づけ」、「忘れじのグローリア」、「愛のコレクション」など数曲の演奏披露している。ただし、「シェリーに口づけ」はレコード音源によるリップシンクであった後年NHK教育テレビの『たのしいフランス語』でこの映像一部数度放送されている。バック・バンド初回訪日公演同じく、ディナスティ・クリジスが担当7月20日日本先行発売予定アルバムポルナレフ革命』(原題は Polnarévolution ではなく Polnarêve)の発売同年12月延期された。ちなみに、『ポルナレフ革命』は日本側(エピック)で独自にジャケット制作し日本側の担当ディレクターによって曲順決められたため、日本盤と翌年6月に『Michel Polnareff』のタイトルリリースされフランス盤は内容異なる。(曲の長さ違いや、ミキシング違いなどもある) その後アメリカ合衆国ロサンゼルスへ移住し本格的なアメリカ・デビュー目指したが、本国フランスロサンゼルスでの生活習慣ギャップ税金問題財務担当者であったベルナール・スノーによる横領発覚し数年間の納税未納明らかになり、500フラン脱税容疑かけられ帰国すれば即時逮捕と言われていた)でノイローゼ気味となった日本ではシングル忘れじのグローリア (c/w ジョブ)」、「火の玉ロック (c/w トランペット)」、「愛の伝説 (c/w ロージーからの手紙)」が発売された。「火の玉ロック」は前年東京公演ライブ・レコーディング盤「ポルナレフ・ア・トーキョー」からのシングル・カットで、かつてジェリー・リー・ルイスヒットさせたロックン・ロールスタンダード・ナンバーである。「愛の伝説」はアルバムポルナレフ革命』からの先行発売。「僕はロックンローラー」もヒットした1974年日本ではアルバムポルナレフ革命』からのシングル・カット悲しみロマンス (c/w ラース家の舞踏会 - ライヴ)」がヒット。「悲しきマリー (c/w 君の幸福と僕の悔恨)」もヒットした。この「悲しきマリー」が日本でのポルナレフ最後ヒットになった6月自叙伝「Polnareflexion」がフランスで発売された。

※この「1966年-1974年」の解説は、「ミッシェル・ポルナレフ」の解説の一部です。
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