青年期~文学的な成功とは? わかりやすく解説

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青年期~文学的な成功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:59 UTC 版)

ルイーザ・メイ・オルコット」の記事における「青年期~文学的な成功」の解説

1860年一流文芸誌の「アトランティック・マンスリー(英語版)」に「愛と自己愛」(Love and Self-Love)が掲載され本誌寄稿をするようになった南北戦争勃発した時はワシントンDCジョージタウンにあるユニオン病院で、1862年1863年、6週間看護師として働いている。ブロンソンオルコット戦場送り出す時、「一人息子戦場に送るようなものだ」と言った。彼女は看護師として3ヶ月奉仕するつもりだったが、途中で腸チフスにかかり瀕死症状経験したカロメル呼ばれる有毒な水銀化合物による治療を受け(当時標準的な治療だった)、回復してからも、水銀治療の後遺症による免疫力低下痛み衰弱幻覚などを引き起こし、元の健康な体に戻ることはなかった。谷林眞理子は、「悲惨な戦争高熱による譫妄状態は、彼女に暴力復讐超常現象についての小説書かせるきっかけ作った」と述べている。彼女は、アヘン習慣的な使用悪いことだと知っていたが、治療の後遺症苦しみ緩和するために、生涯にわたって断続的にアヘン使用し続けたワシントン軍病院から母や妹たち送った手紙は、ボストン奴隷制反対紙「コモンウェルス」に、名前などを少し変え再構成掲載され、『病院のスケッチ』(1863、1869年追加再公開)として著作収められた。出会った勇敢な兵士たち生き生きした描写や、ユーモア思いやりあふれた筆致好評博し、彼女の観察力ユーモア初め世間知られるようになった。これはオルコット名義最初の本であり、彼女はこの本で自分文章スタイル決まったと言っている。 看護師として奉仕の後、父ブロンソンは彼女にルイーザ・メイ・オルコットへ。父親から」という心からの詩を書いており、オルコット看護師として働き負傷した兵士助けオルコット家に喜びと愛をもたらしたことをどれほど誇り思っているかを語った。そして、無私忠実な娘である彼女のことが心の中にあると伝え、詩を締めくくっている。(この詩は、『ルイーザ・メイ・オルコット:彼女の人生、手紙日記』(1889年)と、彼女の子供時代父親との親密な関係について語っている『ルイーザ・メイ・オルコットこどもたち友人』に取り上げられている。) 1863年には「アトランティック・マンスリー」に、白人士官逃亡奴隷兵の憎みあう腹違い兄弟と、そのいさかいに巻き込まれ言葉の力復讐殺人思いとどまらせる看護師女性物語描いた「わたしの逃亡奴隷兵」を発表したまた、自身経験に基づく小説気まぐれMoods)』を4年もかけて推敲重ねて完成させ、1864年発表し前途有望結果残したオルコットは、ホレス・ウォルポールアン・ラドクリフウィリアム・ベックフォードマシュー・グレゴリー・ルイスらのゴシック小説や、ワシントン・アーヴィングエドガー・アラン・ポー等のアメリカ神秘的な小説読み自分小説にもすぐに取り入れた1850年代中期ニューヨークボストンには、事件や事故通俗小説などを掲載する大衆紙多く存在した1863年から1872年の間に、「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン(英語版)」などの人気のある大衆紙雑誌等に、少なくとも33編の「ゴシック・スリラー」を匿名書いた1860年代半ばに、彼女は英語の作家ウィルキー・コリンズやメアリー・エリザベス・ブラッドン(英語版)の作品にも似た情熱的で、燃えるような小説扇情小説英語版)をA・M・バーナードという筆名執筆した1865年探偵小説V.V.-あるいは策略には策略を」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。A・M・バーナード名義スリラー小説大理石の女、あるいは神秘的なモデル」も掲載された。ウィリアム・F・ウォルド病弱な心身症の娘の介護人兼付き添いとしてヨーロッパ旅行同行しイギリスベルギードイツオランダスイスフランス回った。初の海外旅行で、異国へのあこがれロマン主義的な興味かきたてられ見聞きしたことはその後執筆生かされた。またミス・ウォルドとの旅で、精神に異常をきたした人々への理解深めたオルコットは、彼女は家族束縛から離れて自由になり、新し友人作って旅行満喫しスイスで若いポーランド人男性のラディラス・ヴィシニェフスキと出会って親しくなり、英語とフランス語交換教え合った1年ヨーロッパ旅行から帰国し家族借金増やしており、家計思わしくないことを知る。収入を得るために「愛の果て物語」を執筆するが、編集者に「センセーショナルすぎる」と雑誌掲載断られ露骨な暴力シーンなどを削除したが、結局生前世に出ることはなかった。オルコットは「愛の果て物語」に手を入れることを止め別の作品執筆をはじめ、A・M・バーナード名義スリラー小説仮面の陰に あるいは女の力」を掲載し、他にも懸命に執筆取り組んだ1967年にA・M・バーナード名義スリラー小説修道院長幽霊―あるいはモーリス・トレハーンの誘惑」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。男性主人公スリラー小説不思議な鍵」(1867年)年がオルコット名義出版された。 ホラス・フラーの依頼雑誌「メリーズ・ミュージアム(英語版)」の編集者になり、年俸500ドル固定収入を得るようになり、ここでロバーツ・ブラザーズ(英語版)社のトーマス・ナイルズに出会ったナイルズは『病院のスケッチ』を高く評価しており、1867年に、彼女に女の子向けの本の執筆提案した子供の頃おてんば娘だったオルコットは、日記に「女の子が好きではないし、(姉妹以外に)知っている女の子少ない」と書いており、当初少女向け物語を書くのに自分向いていないと感じていたが、1868年に父ブロンソン自分哲学書を出版するためにナイルズ説得しようと、娘は妖精物語執筆することができると言いナイルズは、もしオルコットに(妖精物語ではない)女の子向けの物語書かせることができたら、ブロンソン哲学書を出版する答えた。そこでオルコット嫌がりながらも、父親喜ばせ、その執筆活動助けるために、姉妹とともに育った自分思春期材料女の子向けの物語執筆することになったオルコットはこの執筆通し辛かった子供時代作り替えた。 『若草物語』の執筆時期には、「メリーズ・ミュージアム」の編集勤務の後、子供向け妖精物語大人向け扇情小説など執筆しており、家族を養うための過重労働疲れ果て体調を崩すこともあり、両親ともに弱り深刻な状況にあったオルコット1868年に『若草物語』(Little Women)の執筆開始し9月出版されそれまで上の作家として成功勝ち取った。この作品は、彼女が姉妹たちと過ごした子ども時代を基にした半ば自叙伝的な物語で、ロバーツ・ブラザーズ社から出版された。挿絵は妹のメイ担当したが、後に物語合わないとして差し替えられた。 『若草物語』は好評博し批評家読者に、日常生活の新鮮で自然な描写が広い年齢層に合うと受け入れられた。道徳的ではあるが、当時家庭小説特有の説教臭い文体はなく、リアルな少女日常描かれ本書読者好評得て大ヒットとなり、2週間2000部が売り切れ出版社オルコット続き執筆依頼した第2部刊行されると、印税で家の借金をすべて返済した第1部第2部がまとめられて、現在の1冊の本になっている。『若草物語』の成功で、世間の目避けるために、ファンが彼女の家押しかけてくると時々家の召使いふりをすることもあった。初期パパラッチとも言える新聞記者挿絵画家たちも、この有名な作家の姿を一目見ようと家の近く現れ体調優れないオルコットを困らせ、気が散って執筆進まないこともあった。オルコット名声嫌ったが、著名な作家という役割生涯女に付きまとった1869年、『昔気質の一少女』を「メリーズ・ミュージアム」に6回連載した。さらに13章加筆し翌年出版された。同年、姉アンナの夫ジョン・プラット死去翌年、甥たちのために父親役を果たそうという思い込め理想とする学園生活物語若草物語第3部小さな紳士たち』を書き始め出版された。第3部4部では、ジョーがひらいた学校として、ブロンソン失敗終わった学校とその教育理念正当なものとして描かれた。 1872年には、ジュリア・ウォード・ハウや『アンクル・トムの小屋』の作者ハリエット・ビーチャー・ストウ児童文学リーダー存在のメアリー・メイプス・ドッジ(英語版)らと同等に作家として認められるようになり、驚き喜び感じたこの年日記に、「20年前、私はできることなら一家を、他に頼らず自立していられるようにしようと決心した借金はすべて返した非合法な借金含めて。健康は損なわれたかもしれないでも、まだ生きているのだから、もっとやるべきことがあるはずだ」と書いていた。1872年ハリエット・ビーチャー・ストウ依頼で、「クリスチャン・ユニオン」誌に「仕事クリスティーン経験」を連載した1875年から「八人のいとこ」を「セント・ニコラス・マガジン」に連載し出版された。1876年には続編の「花ざかりローズ」を執筆し1万出版された。 少女向け・子ども向けの物語人気出て以降は、生活費のためにセンセーショナルな小説を書く必要もなくなり、あまり大人向け作品執筆することはなかった。70年代に入ると、扇情小説執筆止めてしまった。もっと本格的な大人向け作品書きたい望んでいたが、彼女の筆には家族の生活が懸かっており、実現しなかった。作家業安定してからは、子供のころから願ってたようにアッバ落ち着いた平和な暮らしをさせることができ、父ブロンソンは、好きなだけ哲学研究した論文書いたりして過ごした

※この「青年期~文学的な成功」の解説は、「ルイーザ・メイ・オルコット」の解説の一部です。
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