軍旗の扱いとは? わかりやすく解説

軍旗の扱い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:10 UTC 版)

軍旗」の記事における「軍旗の扱い」の解説

軍旗陸海軍大元帥たる天皇から直接手渡し授けられる(「親授」という)極めて神聖なものであり、また天皇分身であると認識されたいへん丁重に扱われ帝国陸軍連隊をあらわす旗という意味以上の存在とされた。軍旗に対して天皇対するのと同様の敬礼が行われた(#軍旗に関する敬礼)。陸軍礼式曲(礼式歌・礼式喇叭譜)中、軍旗対するものとしては「足曳(あしびき)」が制定されており、これは主に軍旗に対する敬礼を行う際に吹奏された。 1936年昭和11年)に起こった二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗手向かふな」(「お前達やっていることは天皇陛下対す反乱であり、陛下から鎮圧命令出た」という意味)と書かれたアドバルーン掲揚、またラジオ放送においても「兵に告ぐ勅命が発せられたのである。既に、天皇陛下御命令が発せられたのである。 (中略) 今から­でも決し遅くないから、直ち抵抗をやめて、軍旗の下に復帰するようにせよ」と勧告反乱将兵対し原隊帰順促している。 日本大日本帝国においては他国陸軍と同様またはそれ以上軍旗神聖視され、軍旗喪失することは極めて重大な失態考えられた。西南戦争描いた月岡芳年浮世絵錦絵)『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』では、「野津大佐軍旗奪還す」の副題通り西郷軍に一度奪取され歩兵第十聯隊軍旗野津道貫陸軍大佐奪還するシーン華々しく描画している(これは陸軍による宣伝であり実際奪還していない戦後警察発見後述)。反面軍旗奪還のために無謀な作戦行い却って部隊損害を受けるなど、本末転倒ともいうべき事態発生した。なお、西南戦争下の1877年明治10年2月22日歩兵第14連隊植木町田原坂付近に西郷軍の大部隊と激戦となり、移動中の連隊旗手・河原雄太陸軍少尉戦死し軍旗奪取された。この事件対し連隊長心得連隊長代理)・乃木希典陸軍少佐は、総指揮官・山縣有朋陸軍大将対し待罪書を送り処分求めた。この軍旗喪失不可抗力として不問処され翌年1月21日に再授与されている。なお、再授与直後歩兵第14連隊軍旗(旧)が発見され陸軍省回収保管していた(「歩兵第14連隊#本連隊の軍旗」を参照)。 軍旗自体所掌事務陸軍省陸軍大臣)が、製造陸軍省外局である陸軍兵器行政本部最終時)の管轄であったが、製造自体基本的に民間への外注であり、東京大手高級軍装品店「株式会社寿屋商店(すやしょうてん)」が制作納入している。また、軍旗管理上の扱い建前ではあるが「兵器」とされていた。 親授は「軍旗親授の儀」(『皇室儀制令大正15年10月21日皇室令)により、旗手連隊長は正衣(大礼服着用の上諸式のっとり宮中皇居)にてとりおこなわれ勅語とともに軍旗下賜された。 旗手連隊旗手)は、新任少尉稀に中尉)の中の成績最優秀者が1年間交代務め連隊本部であった旗手要件品行方正成績秀・眉秀麗長身であることが求められ、また暗黙要件として童貞で、悪所通いをしない高潔な人物選ばれた。旗手日常勤務においては連隊副官秘書のような形で、連隊本部事務処理当たった。さらに軍旗には誘導将校数名軍旗衛兵付され、また戦場では軍旗守護するために1個中隊が編成されるが、これは本部中隊たる予備兵力として運用された。観兵式などにおける分列式において、連隊が『陸軍分列行進曲観兵式分列行進曲)』および『観兵式行進曲』にのせて分列行進する際は、軍旗旗手衛兵)を先頭連隊長以下連隊将兵がこれに続いた軍旗決し後退しないとの建前から、軍旗反転させる際の号令としては「回れ右」は用いられず、「右向け右」を二回繰り返すとされた。 軍旗は完全に失われない限り授与されることはなかったため、佐賀の乱神風連の乱秋月の乱萩の乱西南戦争日清戦争北清事変日露戦争第一次世界大戦日独戦争)、シベリア出兵満州事変第一次上海事変日中戦争支那事変)、張鼓峰事件ノモンハン事件第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)などを経た歴史の古い連隊軍旗は、旗部分が殆どなくなり房だけとなった物がきわめて多かった。これらの軍旗激戦戦い抜いてきた連隊栄光象徴として大変な名誉とされており、1886年明治19年)に原詩発表され1891年明治24年)に曲がつけられ軍歌敵は幾万』の第2番では「風に閃く連隊旗 記紋は昇る朝日子よ 旗は飛びくる弾丸に 破るることこそ誉れなれ」と謳われている。しかし旗だけが損耗して房が残る点については、胡桃沢耕史人為的にひそかに手が加えられていたとする証言聞いたことを軍隊時代体験記である『黒パン俘虜記』に記しており、また連隊将校在隊記念として旗片を隠れて失敬することもあった。平時においても演習時に軍旗損傷することも少なくなく、これら損傷記録各軍とともにあった公式文書である「軍旗損傷誌」や「軍旗日誌」、軍関係者民間向け頒布される冊子軍旗縮図絵入り記されていた。行軍時には無駄な汚損を防ぐため、筒状布袋覆い)を被せ保護する中でも神風連の乱にて旧・熊本藩反乱士族攻撃受けた歩兵第13連隊では、佐竹広明陸軍中尉陸軍御国旗を体に巻きつけ死守したため旗が血に染まりまた、日露戦争沙河会戦・三塊石山夜襲白兵戦において、歩兵第39連隊軍旗鮮血受けたため、これらは「血染め軍旗血染め連隊旗)」と謳われよりいっそう尊崇された。 なお、軍縮宇垣軍縮)などにより連隊廃止される際は軍旗奉還返納)される。これは編制改編でも同様であり、1940年昭和15年頃末から順次実施され一部既存騎兵連隊捜索連隊機動戦斥候部隊)への改組では、(捜索連隊の)編成に際して軍旗奉還されている(全ての騎兵連隊改編されたわけではなく儀仗部隊兼ねている近衛師団近衛騎兵連隊や、騎兵26連隊など数個連隊終戦時まで存続している)。 戦時報道写真においては防諜上の理由から画面写った軍旗検閲対象含まれた。また、軍旗戦闘において連隊壊滅間際玉砕直前連隊最期になった際は連隊長旗手の手により奉焼(丁重に焼く)された(#軍旗の奉焼等)。第二次大戦終戦時には各連隊対し陸軍大臣より奉焼命令出され軍旗奉焼式を経てごく一部除き全て焼失し、灰や燃え残った旗・竿破片土中埋没ないし河川流され処理された。これは天皇分身である軍旗を敵の手に渡すことを避けたためである。一方で極少数であるが現存する軍旗小片存在している(#現存する軍旗

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