軍旗・軍艦旗としての旭日旗
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「旭日旗」の記事における「軍旗・軍艦旗としての旭日旗」の解説
1870年4月17日、明治天皇が東京駒場野において薩摩藩・長州藩など各藩兵の調練を視察することとなったが、日本の軍隊を表象し兵士の意気を顕揚するためとして陸軍初の聯隊旗が用いられた。この際に用いられたのが16条の光線を描いた旭日旗である。曾我祐準中将の回想によれば、日光の端が尖っている形で提出したところ、「金平糖の看板のようだ」と良い反応が得られなかったため、日光部を拡大して提示したところ好反応が得られたという。この旗は当日のみの使用であったが、6月13日(明治3年5月15日)の「明治3年太政官布告第355号」で「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」として同じ意匠の旗が採用された。この陸軍御国旗は、日章を日章旗と同じく中央に配置し、光条(線)の数を皇室の紋章である十六葉(弁)八重表菊(菊花紋章)と同じく16(紅白で八重と見立てた場合も同じく32)とした十六条旭日旗であり、兵部省(陸軍省の前身)において考案された。これは日章旗を幕府陸軍が軍旗として採用したため、それと敵対した新政府軍の系譜たる陸軍に新たな象徴たる軍旗(=旭日旗)が必要とされたことによる。 新生日本の各藩統合陸軍のシンボルであるこの陸軍御国旗は、近代陸軍編制の基幹部隊である連隊に対し授与されるもので、廃藩置県が終わり本格的に陸軍が発足したのちの1874年(明治7年)1月23日、大元帥である天皇(明治天皇)から近衛師団隷下の近衛歩兵第1連隊と近衛歩兵第2連隊に親授されている。なお、この軍旗授与式において明治天皇は「近衛歩兵第一連隊編制成ルヲ告ク 仍テ今軍旗一旒ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々武威ヲ発揚シ以テ国家ヲ保護セヨ」の勅語を軍旗と共に連隊に賜っており、当時から「陸軍御国旗」を指して「軍旗」と称す事は極めて一般的であった。 1879年(明治12年)12月2日、「明治12年太政官布告第130号」によって、従来の陸軍御国旗は旭日の意匠と竿頭の菊花紋章はそのままに、縦横の寸法を1m以下にし四方に房を付けたものにされ、正式名称を一般呼称であった「軍旗」と変え改めて制定し直された。この軍旗は歩兵連隊および騎兵連隊に授与されたことから、俗称として「連隊旗(聯隊旗)」とも呼称されている。 その陸軍に遅れること19年後の1889年(明治22年)、「明治22年勅令第111号」で従来の日章旗から変更されるかたちで、海軍は陸軍の軍旗の意匠(旭日旗)を流用し、日章位置が旗竿側に寄る旭日旗を「軍艦旗」として制定している。 日本陸軍のものは、軍旗#大日本帝国陸軍を参照。 日本海軍のものは、軍艦旗#日本の軍艦旗・自衛艦旗、大日本帝国海軍の旗章を参照。 明治時代後半においては「平和鎮静ヲ国是トシ然カモ武勇ニシテ外辱ヲ受ケス一旦緩急アルニ当テハ武勇ヲ以テ国威ヲ世界ノ上ニ輝カセ」と解釈されており、1930年代には、海軍省は軍艦旗について、「其の光線は御稜威を四海に輝かせといふ意義を有するものと考へられる」と説明している。
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