跳躍選挙とは? わかりやすく解説

跳躍選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:30 UTC 版)

神聖ローマ皇帝一覧」の記事における「跳躍選挙」の解説

この時期国王選挙の度に異な家門国王選出されていた。 肖像画名前在位生没年国王選出皇帝戴冠備考印章 ルドルフ1世ハプスブルク家1273年 - 1291年1218年 - 1291年1273年 ハプスブルクアドルフナッサウ家1292年 - 1298年1250年頃 - 1298年1292年 - アルブレヒト1世ハプスブルク家1298年 - 1308年1255年頃 - 1308年1298年 ルドルフ1世の子 - ハインリヒ7世ルクセンブルク家1308年 - 1313年1275年頃 - 1313年1308年 1312年 枢機卿による戴冠 ルートヴィヒ4世ヴィッテルスバッハ家1314年 - 1347年1282年 - 1347年1314年 1328年 カール4世ルクセンブルク家1346年 - 1378年1316年 - 1378年1346年 1355年 ハインリヒ7世の孫 ヴェンツェルルクセンブルク家1376年 - 1400年廃位1361年 - 1419年1376年 カール4世の子 - ループレヒトヴィッテルスバッハ家1400年 - 1410年1352年 - 1410年1400年 - ジギスムントルクセンブルク家1410年 - 1437年1368年 - 1437年1410年 1433年 カール4世の子

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跳躍選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 08:10 UTC 版)

ブルグント王の一覧」の記事における「跳躍選挙」の解説

ルドルフ1世ブルグント王1273年 - 1291年) - ハプスブルク家 アドルフブルグント王1292年 - 1298年) - ナッサウ家 アルブレヒト1世ブルグント王1298年 - 1308年) - ハプスブルク家 ハインリヒ7世ブルグント王1308年 - 1313年神聖ローマ皇帝1312年 - 1313年) - ルクセンブルク家 ルートヴィヒ4世ブルグント王1314年 - 1347年神聖ローマ皇帝1328年 - 1347年) - ヴィッテルスバッハ家 カール4世ブルグント王1346年 - 1378年神聖ローマ皇帝1355年 - 1378年) - ルクセンブルク家 1378年カール4世国王代理である摂政職の永久授与という形でブルグント支配権フランス譲渡したこれをもってブルグント王国終焉とするが、ブルグント王自体1806年神聖ローマ帝国滅亡するまで歴代皇帝保持した

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跳躍選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「跳躍選挙」の解説

詳細は「ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策」を参照 1272年弱体な君主を望む諸侯当時弱小諸侯だったハプスブルク家ルドルフ1世を王に選出したルドルフ1世著しく減少していたとはいえ未だ残されていた王権利用しハプスブルク家一躍諸侯一角へと押し上げたこのためハプスブルク家世襲認められなかった。以後150年間、1代除くすべて国王選挙異な家門選出され、跳躍選挙(Springende Wahlen)と呼ばれている。歴代国王ドイツ全体経営よりもまず自領拡大優先した家門王権(Hausmachtkönigtum))。中世盛期から国王選挙ルールは明確で無かったため、二重選挙対立王擁立など多く混乱起こった1356年カール4世金印勅書bulla aurea)を発布し秩序平穏もたらした勅書において、ローマ王は7人の選帝侯による過半数得票選出される定められた。選帝侯には多く特権認められたため、勅書領邦分裂体制の固定促すことにもなった。 ルドルフ1世ハプスブルク家ヨーロッパ有数家門発展させた。ルドルフ即位後、神聖ローマ帝国最大諸侯であるボヘミア王オタカル2世ローマ王への臣従拒否して戦争になった勢力圧倒的にローマ王が不利であったが、巧み外交手腕によって諸侯ハンガリー王国同盟結んだ。そして1278年ローマ王マルヒフェルトの戦い (en) でオタカル2世敗死させた。この結果ハプスブルク家は後に地盤となるオーストリアシュタイアーマルクボヘミアから奪い取ったローマ王はさらに皇帝即位目指した。シチリア王シャルル・ダンジュー取引をし、形骸化著しブルグント王国割譲する見返り自身皇帝戴冠世襲支持得た。しかしシャルルシチリアの晩祷事件によって失脚したため、計画破綻した1291年ローマ王73歳死去ハプスブルク家勢力伸長警戒した諸侯王位世襲認めずナッサウ家アドルフ42歳ローマ王選出された。 アドルフ王権強化目指し領土拡大積極的に行おうとしたが、ドイツ諸侯からの反発招いた1298年廃位された上、新たにローマ王選出され43前後アルブレヒト1世ルドルフ1世の子)と戦って敗れ48歳戦死したアルブレヒト1世王権強化目指し失敗したアドルフのように失脚はしなかったものの厳格冷酷な性格の王は民衆から嫌われた。父王死去時の1291年時点で元の地盤である南シュヴァーベン三都市が同盟結んで反乱起こしており、これがスイス建国とされる1303年には敵対した諸侯妥協するため、教皇権服従した同年フランスではアナーニ事件起きて教皇フランス王言いなりとなる状況となり、神聖ローマ帝国フランス力関係逆転した1308年各地戦い続けた王は財産をめぐるいさかい原因で甥のヨハン53歳暗殺された。王位世襲は再び否定されルクセンブルク家ハインリヒ7世33歳前後国王選出された。 ハインリヒ7世王権らせつつ、皇帝再建をも企図した。王はまず婚姻政策ボヘミア王位を自家獲得し領土短期間拡大させた。1310年からはイタリア遠征行って帝国イタリア政策再興した5000人の騎士連れてアルプス越えたローマ王はまず、イタリア王としての戴冠式が行われるミラノの反皇帝派撃破した1311年イタリア王として戴冠すると、1312年皇帝戴冠目指しローマへ向かった皇帝戴冠フリードリヒ2世以降、約100年ぶりのことであった。しかし、フランス牛耳られ教皇庁1309年ブルグント南フランス)のアヴィニョン動座していた(アヴィニョン捕囚)。王は仕方なく枢機卿の手により37歳前後戴冠された。久しぶり皇帝誕生秩序重んじる初期ルネサンス文化人から非常に期待された。しかし1313年皇帝ナポリへの遠征中に38歳前後死去した1314年二重選挙が行われ、ハプスブルク家フリードリヒ(美王)とヴィッテルスバッハ家32歳のバイエルン公ルートヴィヒ4世ローマ王選出された。 ルートヴィヒ4世治世では教皇と皇帝対立再燃したルートヴィヒ4世対立王フリードリヒ8年がかりで下したが、ここにアヴィニョン教皇ヨハネス22世が横やりを入れた教皇認可無き国王選出無効であり、さらに皇帝不在イタリア王教皇代行するとまで主張した。これに対抗するため、1327年ローマ王イタリア遠征行いミラノにてイタリア王戴冠した翌年にはローマに赴き、神学者マルシリウスの理論根拠教皇ではなくローマ人民の名で皇帝戴冠した皇帝教皇激しく対立し廃位破門応酬となった紛争長期化した1338年フランクフルト帝国議会にて「選挙選ばれた王同時に皇帝でもあり、教皇承認必要ない」と決められた。1339年英仏間で百年戦争始まったためフランス圧力弱まった1340年以降皇帝戦争混乱利用して教皇との和解狙ったが、かえって諸侯見放された。1346年チロル伯爵領での強引な家門拡大策で教皇から再度破門受けた皇帝廃位され先帝の孫でルクセンブルク家カール4世30歳対立王選出された。皇帝は翌1347年65歳死去したカール4世は自領ボヘミア発展帝位世襲専念しドイツ制御腐心し、イタリア・ブルグントへの干渉正式に放棄した単独となった翌年1348年ローマ王ボヘミア王ボヘミア首都プラハ神聖ローマ帝国の都として大々的整備始めた。その一環としてドイツ語圏初の大学となるプラハ大学設立したまた、商売長けたユダヤ人囲い込んだペストの大流行原因とするポグロムユダヤ人虐殺)から保護したのである1355年ローマ王イタリア遠征行いミラノにてイタリア王に、ローマにて39歳皇帝戴冠された。その際教皇庁からの干渉排する代わりにイタリアへ干渉放棄した帰国中にも北イタリアの諸都市皇帝特権切り売り行い莫大な上納金を得た戴冠式を行うためだけにイタリア素通りし多く帝権売却して帰ってしまった皇帝ルネサンス文化人失望させた。1356年カール4世金印勅書bulla aurea)を発布しローマ王選出教皇許可が必要無いことを改め示した。そして7人の選帝侯による過半数得票で王が選出される定めた同時に選帝侯には強力な特権認められドイツ領邦自立化決定的なものとなったまた、金印勅書には都市同盟結成禁止含まれていた。都市同盟諸侯対立する勢力だったためである。しかし皇帝世襲工作資金調達のため、1375年1376年ハンザ同盟シュヴァーベン都市同盟許し諸侯憤慨させた。都市同盟許可先立つ1365年カール4世アルル正式にブルグント王戴冠しフリードリヒ1世以来のドイツ・イタリア・ブルグントの戴冠全て行った皇帝となった。しかし1378年皇帝ブルグント王国支配権フランス譲った。既にブルグント大部分フランス王領に組み込まれる買収されていたので、実情合わせた措置だった。ブルグント王自体神聖ローマ帝国滅亡まで歴代皇帝保持し続けた同年皇帝62歳で死去した長年努力かいあって死去前の1376年には息子ヴェンツェル15歳国王選出されていた。 ヴェンツェル父帝路線受け継いだボヘミア経営にのみ力を入れ神聖ローマ帝国全体運営には無関心皇帝戴冠もしなかった。ローマアヴィニョンそれぞれローマ教皇が立つ教会大分裂シスマ)への対処にも消極的だったまた、イタリア僭主たちを次々と公に叙爵して上納金を得たイタリア貴族称号正当性与え立場にあることを示して神聖ローマ帝国君主として権利誇示した、という見方もあるが当時諸侯憤慨した1400年選帝侯たちによって弱腰判断されローマ王39歳廃位された。なお、ボヘミア王位は保った。代わってヴィッテルスバッハ家プファルツ選帝侯ループレヒト48歳ローマ王選出された。 ループレヒトはしかし権力基盤弱体でありすぎ、効果的な統治行えなかった。ローマ教皇戴冠を受けるためにイタリア遠征行ったが、ロンバルディアすら突破できず軍は瓦解した加えてボヘミア王ヴェンツェルローマ王廃位認めていなかった。1410年ループレヒト58歳で死去するヴェンツェル異母弟42歳ハンガリー王ジギスムント選出され49歳となっていたヴェンツェルもようやく廃位認めたジギスムント教会への介入ローマ王権威を増そうとした。当時教会大分裂シスマ)による混乱頂点達しローマ二人アヴィニョン一人、計三人教皇並び立つ状態になっていた。ローマ王1414年コンスタンツ公会議1414年-1418年)を開催して新たな教皇選出させ、シスマ解消した。しかし、この公会議ボヘミア教会改革ヤン・フス異端者として火刑処したため、ボヘミアフス派武装蜂起しフス戦争1419年-1436年)を引き起こしたフス派支持だった兄ボヘミア王ヴェンツェルがこの事件ショック死したことでボヘミア王兼ねたローマ王は、1431年まで5回にわたる十字軍派遣した。しかし連敗喫して王として威信失った。王は権威回復のため1431年ミラノにて63歳イタリア王に、1433年ローマにて65歳皇帝戴冠された。1437年皇帝69歳死去するボヘミア王位とハンガリー王位は娘婿であるハプスブルク家オーストリアアルブレヒト渡ったルクセンブルク家直系男子無く、姪が継いでいた大本本拠ルクセンブルク公領も借金カタフランスブルゴーニュ公国接収されルクセンブルク家断絶した。こうしてカール4世人生をかけて取り組んだ帝位世襲政策凡庸な子孫たちにより露と消えたアルブレヒト1438年ローマ王アルブレヒト2世として41歳選出された。 アルブレヒト2世治世あまりに短くローマ王としての実績は殆ど無い。国王即位1年半後の1339年オスマン帝国との戦争中ハンガリー赤痢によって42歳急死したオーストリア所領ボヘミア王位は王の死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムス継承しハンガリー王位も後にラディスラウス回った。しかし新たなローマ王には又従弟に当たる傍系フリードリヒ3世24歳選ばれた。このフリードリヒ3世以後神聖ローマ帝国消滅まで皇帝位世襲したハプスブルク朝直接の祖である。

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