跳躍選挙
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この時期は国王選挙の度に異なる家門の国王が選出されていた。 肖像画名前在位(生没年)国王選出皇帝戴冠備考印章 ルドルフ1世(ハプスブルク家) 1273年 - 1291年(1218年 - 1291年) 1273年 ハプスブルク伯 アドルフ(ナッサウ家) 1292年 - 1298年(1250年頃 - 1298年) 1292年 - アルブレヒト1世(ハプスブルク家) 1298年 - 1308年(1255年頃 - 1308年) 1298年 ルドルフ1世の子 - ハインリヒ7世(ルクセンブルク家) 1308年 - 1313年(1275年頃 - 1313年) 1308年 1312年 枢機卿による戴冠 ルートヴィヒ4世(ヴィッテルスバッハ家) 1314年 - 1347年(1282年 - 1347年) 1314年 1328年 カール4世(ルクセンブルク家) 1346年 - 1378年(1316年 - 1378年) 1346年 1355年 ハインリヒ7世の孫 ヴェンツェル(ルクセンブルク家) 1376年 - 1400年廃位(1361年 - 1419年) 1376年 カール4世の子 - ループレヒト(ヴィッテルスバッハ家) 1400年 - 1410年(1352年 - 1410年) 1400年 - ジギスムント(ルクセンブルク家) 1410年 - 1437年(1368年 - 1437年) 1410年 1433年 カール4世の子
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跳躍選挙
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ルドルフ1世(ブルグント王:1273年 - 1291年) - ハプスブルク家 アドルフ(ブルグント王:1292年 - 1298年) - ナッサウ家 アルブレヒト1世(ブルグント王:1298年 - 1308年) - ハプスブルク家 ハインリヒ7世(ブルグント王:1308年 - 1313年、神聖ローマ皇帝:1312年 - 1313年) - ルクセンブルク家 ルートヴィヒ4世(ブルグント王:1314年 - 1347年、神聖ローマ皇帝:1328年 - 1347年) - ヴィッテルスバッハ家 カール4世(ブルグント王:1346年 - 1378年、神聖ローマ皇帝:1355年 - 1378年) - ルクセンブルク家 1378年、カール4世は国王代理である摂政職の永久授与という形でブルグントの支配権をフランスに譲渡した。これをもってブルグント王国の終焉とするが、ブルグント王位自体は1806年に神聖ローマ帝国が滅亡するまで歴代皇帝が保持した。
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跳躍選挙
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詳細は「ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策」を参照 1272年、弱体な君主を望む諸侯は当時弱小諸侯だったハプスブルク家のルドルフ1世を王に選出した。ルドルフ1世は著しく減少していたとはいえ未だ残されていた王権を利用し、ハプスブルク家を一躍大諸侯の一角へと押し上げた。このためハプスブルク家の世襲は認められなかった。以後約150年間、1代除くすべての国王選挙で異なる家門が選出され、跳躍選挙(Springende Wahlen)と呼ばれている。歴代国王はドイツ全体の経営よりもまず自領拡大を優先した(家門王権(Hausmachtkönigtum))。中世盛期から国王選挙のルールは明確で無かったため、二重選挙や対立王の擁立など多くの混乱が起こった。1356年、カール4世は金印勅書(bulla aurea)を発布して秩序と平穏をもたらした。勅書において、ローマ王は7人の選帝侯による過半数の得票で選出されると定められた。選帝侯には多くの特権が認められたため、勅書は領邦分裂体制の固定を促すことにもなった。 ルドルフ1世はハプスブルク家をヨーロッパ有数の家門に発展させた。ルドルフの即位後、神聖ローマ帝国最大の諸侯であるボヘミア王オタカル2世がローマ王への臣従を拒否して戦争になった。勢力は圧倒的にローマ王が不利であったが、巧みな外交手腕によって諸侯やハンガリー王国と同盟を結んだ。そして1278年、ローマ王はマルヒフェルトの戦い (en) でオタカル2世を敗死させた。この結果、ハプスブルク家は後に地盤となるオーストリアとシュタイアーマルクをボヘミアから奪い取った。ローマ王はさらに皇帝即位を目指した。シチリア王シャルル・ダンジューと取引をし、形骸化著しいブルグント王国を割譲する見返りに自身の皇帝戴冠と世襲の支持を得た。しかしシャルルがシチリアの晩祷事件によって失脚したため、計画は破綻した。1291年にローマ王は73歳で死去。ハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は王位世襲を認めず、ナッサウ家のアドルフが42歳でローマ王に選出された。 アドルフは王権強化を目指して領土拡大を積極的に行おうとしたが、ドイツ諸侯からの反発を招いた。1298年に廃位された上、新たにローマ王に選出された43歳前後のアルブレヒト1世(ルドルフ1世の子)と戦って敗れ、48歳で戦死した。 アルブレヒト1世も王権強化を目指して失敗した。アドルフのように失脚はしなかったものの厳格で冷酷な性格の王は民衆から嫌われた。父王死去時の1291年時点で元の地盤である南シュヴァーベンの三都市が同盟を結んで反乱を起こしており、これがスイスの建国とされる。1303年には敵対した諸侯と妥協するため、教皇権へ服従した。同年、フランスではアナーニ事件が起きて教皇がフランス王の言いなりとなる状況となり、神聖ローマ帝国とフランスの力関係が逆転した。1308年、各地で戦い続けた王は財産をめぐるいさかいが原因で甥のヨハンに53歳で暗殺された。王位世襲は再び否定され、ルクセンブルク家のハインリヒ7世が33歳前後で国王に選出された。 ハインリヒ7世は王権を蘇らせつつ、皇帝権の再建をも企図した。王はまず婚姻政策でボヘミア王位を自家に獲得し、領土を短期間に拡大させた。1310年からはイタリア遠征を行って帝国のイタリア政策を再興した。5000人の騎士を連れてアルプスを越えたローマ王はまず、イタリア王としての戴冠式が行われるミラノの反皇帝派を撃破した。1311年にイタリア王として戴冠すると、1312年に皇帝戴冠を目指してローマへと向かった。皇帝戴冠はフリードリヒ2世以降、約100年ぶりのことであった。しかし、フランスに牛耳られた教皇庁は1309年にブルグント(南フランス)のアヴィニョンへ動座していた(アヴィニョン捕囚)。王は仕方なく枢機卿の手により37歳前後で戴冠された。久しぶりの皇帝誕生は秩序を重んじる初期ルネサンス文化人から非常に期待された。しかし1313年、皇帝はナポリへの遠征中に38歳前後で死去した。1314年に二重選挙が行われ、ハプスブルク家のフリードリヒ(美王)とヴィッテルスバッハ家で32歳のバイエルン公ルートヴィヒ4世がローマ王に選出された。 ルートヴィヒ4世の治世では教皇と皇帝の対立が再燃した。ルートヴィヒ4世は対立王フリードリヒを8年がかりで下したが、ここにアヴィニョンの教皇ヨハネス22世が横やりを入れた。教皇の認可無き国王選出は無効であり、さらに皇帝が不在のイタリア王権は教皇が代行するとまで主張した。これに対抗するため、1327年にローマ王はイタリア遠征を行い、ミラノにてイタリア王に戴冠した。翌年にはローマに赴き、神学者マルシリウスの理論を根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した。皇帝と教皇は激しく対立し、廃位と破門の応酬となった。紛争が長期化した1338年、フランクフルトの帝国議会にて「選挙で選ばれた王は同時に皇帝でもあり、教皇の承認は必要ない」と決められた。1339年、英仏間で百年戦争が始まったためフランスの圧力が弱まった。1340年以降、皇帝は戦争の混乱を利用して教皇との和解を狙ったが、かえって諸侯に見放された。1346年、チロル伯爵領での強引な家門拡大策で教皇から再度破門を受けた皇帝は廃位され、先帝の孫でルクセンブルク家のカール4世が30歳で対立王に選出された。皇帝は翌1347年に65歳で死去した。 カール4世は自領ボヘミアの発展と帝位世襲に専念し、ドイツの制御に腐心し、イタリア・ブルグントへの干渉を正式に放棄した。単独王となった翌年の1348年、ローマ王兼ボヘミア王はボヘミアの首都プラハを神聖ローマ帝国の都として大々的に整備を始めた。その一環としてドイツ語圏初の大学となるプラハ大学を設立した。また、商売に長けたユダヤ人を囲い込んだ。ペストの大流行を原因とするポグロム(ユダヤ人虐殺)から保護したのである。1355年にローマ王はイタリア遠征を行い、ミラノにてイタリア王に、ローマにて39歳で皇帝に戴冠された。その際、教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した。帰国中にも北イタリアの諸都市に皇帝特権の切り売りを行い、莫大な上納金を得た。戴冠式を行うためだけにイタリアを素通りし、多くの帝権を売却して帰ってしまった皇帝はルネサンスの文化人を失望させた。1356年、カール4世は金印勅書(bulla aurea)を発布してローマ王選出に教皇の許可が必要無いことを改めて示した。そして7人の選帝侯による過半数の得票で王が選出されると定めた。同時に選帝侯には強力な特権が認められ、ドイツ領邦の自立化も決定的なものとなった。また、金印勅書には都市同盟の結成禁止も含まれていた。都市同盟は諸侯と対立する勢力だったためである。しかし皇帝は世襲工作の資金調達のため、1375年と1376年にハンザ同盟とシュヴァーベン都市同盟を許し、諸侯を憤慨させた。都市同盟許可に先立つ1365年、カール4世はアルルで正式にブルグント王に戴冠し、フリードリヒ1世以来のドイツ・イタリア・ブルグントの戴冠を全て行った皇帝となった。しかし1378年、皇帝はブルグント王国の支配権をフランスに譲った。既にブルグントの大部分はフランス王領に組み込まれるか買収されていたので、実情に合わせた措置だった。ブルグント王位自体は神聖ローマ帝国滅亡まで歴代皇帝が保持し続けた。同年皇帝は62歳で死去した。長年の努力のかいあって死去前の1376年には息子のヴェンツェルが15歳で国王に選出されていた。 ヴェンツェルは父帝の路線を受け継いだ。ボヘミアの経営にのみ力を入れ、神聖ローマ帝国全体の運営には無関心で皇帝戴冠もしなかった。ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立つ教会大分裂(シスマ)への対処にも消極的だった。また、イタリアの僭主たちを次々と公に叙爵して上納金を得た。イタリア貴族に称号と正当性を与える立場にあることを示して神聖ローマ帝国君主としての権利を誇示した、という見方もあるが当時の諸侯は憤慨した。1400年、選帝侯たちによって弱腰と判断されたローマ王は39歳で廃位された。なお、ボヘミア王位は保った。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ループレヒトが48歳でローマ王に選出された。 ループレヒトはしかし権力基盤が弱体でありすぎ、効果的な統治を行えなかった。ローマ教皇の戴冠を受けるためにイタリア遠征を行ったが、ロンバルディアすら突破できず軍は瓦解した。加えてボヘミア王ヴェンツェルはローマ王廃位を認めていなかった。1410年にループレヒトが58歳で死去するとヴェンツェルの異母弟で42歳のハンガリー王ジギスムントが選出され、49歳となっていたヴェンツェルもようやく廃位を認めた。 ジギスムントは教会への介入でローマ王の権威を増そうとした。当時、教会大分裂(シスマ)による混乱は頂点に達し、ローマに二人、アヴィニョンに一人、計三人の教皇が並び立つ状態になっていた。ローマ王は1414年にコンスタンツ公会議(1414年-1418年)を開催して新たな教皇を選出させ、シスマを解消した。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派ヤン・フスを異端者として火刑に処したため、ボヘミアのフス派が武装蜂起しフス戦争(1419年-1436年)を引き起こした。フス派支持だった兄ボヘミア王ヴェンツェルがこの事件でショック死したことでボヘミア王を兼ねたローマ王は、1431年まで5回にわたる十字軍を派遣した。しかし連敗を喫して王としての威信を失った。王は権威回復のため1431年にミラノにて63歳でイタリア王に、1433年にローマにて65歳で皇帝に戴冠された。1437年に皇帝が69歳で死去するとボヘミア王位とハンガリー王位は娘婿であるハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒトに渡った。ルクセンブルク家に直系男子は無く、姪が継いでいた大本の本拠ルクセンブルク公領も借金のカタにフランスのブルゴーニュ公国に接収され、ルクセンブルク家は断絶した。こうしてカール4世が人生をかけて取り組んだ帝位世襲政策は凡庸な子孫たちにより露と消えた。アルブレヒトは1438年にローマ王アルブレヒト2世として41歳で選出された。 アルブレヒト2世の治世はあまりに短く、ローマ王としての実績は殆ど無い。国王即位1年半後の1339年、オスマン帝国との戦争中にハンガリーで赤痢によって42歳で急死した。オーストリアの所領とボヘミア王位は王の死後に生まれた息子ラディスラウス・ポストゥムスが継承し、ハンガリー王位も後にラディスラウスに回った。しかし新たなローマ王には又従弟に当たる傍系のフリードリヒ3世が24歳で選ばれた。このフリードリヒ3世が以後神聖ローマ帝国消滅まで皇帝位を世襲したハプスブルク朝の直接の祖である。
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