経歴・事績とは? わかりやすく解説

経歴・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:00 UTC 版)

今井功 (物理学者)」の記事における「経歴・事績」の解説

1914年関東州大連生まれ神戸市育った幼少時より学業秀で跳び制度により小学校5年修了中学校入学した1936年東京帝国大学理学部物理学科寺沢寛一教授師事卒業してからは、しばらく大阪帝国大学理学部友近晋教授のもとで助手務め2年半のちに東大講師として戻り1942年助教授1950年教授昇進したその間戦中から戦後にかけて任意翼型理論」、「遷音速流理論」、「遅い粘性流理論」などの各方面で、複素関数論、特に等角写像方法自在に操って当時世界で懸案となっていた難問次々解決して世界研究リードし、かつ事物の本性流れの場をみる流体力学思考深くにつけた。またその過程発展させたWKB法精密化は有名で「今井方法」の名を得ている。これらの業績により1959年日本学士院恩賜賞受賞し1988年には文化勲章受章した1975年東大定年退職した後は大阪大学3年勤めたその間佐藤の超関数流体中の渦層に他ならないことを見出し、そのイメージをもとに超関数理論体系的にまとめ『応用超関数論』として出版した阪大定年退官した後は工学院大学に身をおいて若い人々に科学面白さ伝えることに力をいたし、高校生書いた科学研究論文審査にまで楽しんで参加し評価した。また一方で電磁気学は、従来クーロンの法則から出発する方式よりもまず電磁場織りなす流れとして捉える方が理解し易いとし、その考え方基礎にして電磁気学再構築し『電磁気学考える』に纏めて文化勲章受章記念に出版した。 また物理学者同人ロゲルギスト一員として身近な物理現象から社会現象に至る幅広い話題について議論交わしロゲルギスト I2 の筆名1962年からの二十年余に40編の含蓄富んだエッセイ書いた

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経歴・事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:08 UTC 版)

伏見康治」の記事における「経歴・事績」の解説

伏見1909年愛知県名古屋市生まれ東京育ち東京高等学校経て東京帝国大学理学部物理学科進んだ。 そして1933年大学卒業するとすぐに同大学理学部物理学教室寺澤寛一教授助手となり、翌1934年新設大阪帝国大学理学部物理教室移った大阪では友近晋教授の下に助手として就く予定であったが、友近教授イギリス留学したため、菊池正士教授誘われて原子核実験携わった。そして同教室助教授経て1940年教授昇進し、また量子統計力学密度行列に関する論文1940年)により理学博士学位取得した。 この時期伏見一般へ物理面白さ普及にも力を注いだ。まず1942年原子核物理学一般向け啓蒙書驢馬電子」を書いて出版した。そして翌1943年にはジョージ・ガモフ名著不思議の国のトムキンス」を訳出日本紹介して若者誘い多く物理学者生み出すのに力があった。啓蒙活動戦後続け雑誌「自然」に原子核物理学に関する読み物連載した戦後になって伏見日本においても独自に原子力研究を行うことの重要性認識し、それを平和利研究に限る証として「自主民主公開」の三原則起草し茅誠司と共に提唱し、「伏見原子力三原則」と呼ばれた。そして大阪府泉南郡熊取町京都大学原子炉実験所(現・京都大学複合原子力科学研究所創設にあたっては「」に対すアレルギーから建設反対する地元住民説得して実験所実現寄与した。また門下多数傑出した原子力研究者育てて送り出し日本原子力発展貢献した。 さらに1950年代半ばになって核融合研究重要性認識されるや、湯川秀樹嵯峨根遼吉と共に研究体制議論進めた。そしてAB論争の後、1961年名古屋大学プラズマ研究所設立される自身大阪大学から名古屋大学移って研究所初代所長就任し研究所整備努め研究推進を図るとともに客員研究部門創始など「全国大学共同利用研究所運営理想追求した1973年名古屋大学定年退官したあとは、日本学術会議活躍の場として研究環境整備に力を致した。特に1977年から1982年にかけて同会議会長就任し国内研究推進並行して科学者国際交流尽力した。そして1983年第13回参議院議員通常選挙比例代表区公明党国民会議から名簿順位第1位で立候補し当選1989年まで1期務めた。 また東西冷戦時代から日ソ学術交流尽力し1991年ソビエト連邦崩壊によって同国科学者窮乏の淵に陥った時には各方面呼びかけてその救援活動行ったその他の社会的貢献としては、世界平和アピール七人委員会1982年から参加して数々アピール加わった。ところが伏見1983年参議院議員当選し国会議員との併任望ましくないとの理由同年七人委員会委員を一旦辞任したが、1989年参議院議員任期満了に伴う退任1995年にまた参加して没年まで活動続けた伏見対称美について深い関心をもち、1960年代には「紋様科学」と題して対称性図形の話を「数学セミナー」に連載した。また早くからマウリッツ・エッシャー版画愛し折に触れて語っていた。そして1979年には安野光雅中村義作との鼎談記録されて「美の幾何学」(中公新書)が出版された。また夫人共同折り紙幾何学研究し数学セミナー」に寄稿した単行本折り紙幾何学」として出版)。「折り紙幾何学」の冒頭では、1次元繰り返し紋様円筒によって生成されることは古代より知られているが、2次元広がりをもつ繰り返し文様準正4面体によって生成できる(少し試すと分かる直方体では駄目である)ことを見つけ、そこから正多面体折り紙興味持った説き起こされている。折り紙に関しては、幾何教材これほど良いものはないだろうと言ったところ、息子に今では学校でろくに初等幾何教えたりていないのだと言われ衝撃を受け、数セミ誌の編集長矢野健太郎のこと。注も参照)は何をしているのだ、といった話や、化学者槌田龍太郎息子槌田敦出てくるほのぼのとした話などもある。後に、エントロピー学会発行したエントロピー読本2には、伏見康治槌田敦らの文章掲載されている。

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