日米安保条約とソ連・中国の核武装
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「日本の核武装論」の記事における「日米安保条約とソ連・中国の核武装」の解説
1949年にはソ連が初めての核実験に成功した。1952年に日米間で旧安保条約締結。 1957年(昭和32年)5月、岸信介総理大臣が参議院予算委員会で「核兵器と名前がつけば憲法違反かというと、憲法の解釈論としては正しくない」と答弁し、核兵器保有は合憲との認識を示した。 1961年(昭和36年)11月、池田勇人総理大臣は来日したディーン・ラスク国務長官に「閣内に核武装論者がいる」と述べた。 1964年(昭和39年)には中国が初めての核実験に成功した。同年12月、佐藤栄作総理大臣はエドウィン・O・ライシャワー駐日大使に対して、ウィルソン英首相の言葉を引用して「他人が核を持てば、自分も持つのは常識だ」と述べた。 政府は佐藤内閣時代の1960年代後半に、極秘に核保有の可能性を検討した。1967年(昭和42年)夏、内閣調査室の外郭団体「財団法人・民主主義研究会」で永井陽之助、垣花秀武、前田寿、関野英夫、蝋山道雄により日本の核武装の可能性について検討が行われた。その結果は「日本の核政策に関する研究(その一)-独立核戦力創設の技術的・組織的・財政的可能性」と「日本の核政策に関する研究(その二)-独立核戦力の戦略的・外向的・政治的諸問題」という二冊の小冊子にまとめられた。同研究会は「日本が核武装することは、国際政治的に多大なマイナスであり、安全保障上の効果も著しく減退する」と結論付けた。この事実については1999年(平成11年)に蝋山がSAPIOの取材に対して詳細を語っている。 1967年(昭和42年)12月11日、佐藤総理は衆議院予算委員会で次のように答弁した。「核は保有しない、核は製造もしない、核を持ち込まないというこの核に対する三原則(非核三原則)、その平和憲法のもと、この核に対する三原則のもと、そのもとにおいて日本の安全はどうしたらいいのか、これが私に課せられた責任でございます。」 NHKの2010年(平成22年)10月の報道によると、核拡散防止条約(NPT条約)調印後の1969年(昭和44年)、日本の外務省高官は西ドイツ(当時)外務省の関係者を箱根に招いて、核保有の可能性を探る会合(当時、分析課長の岡崎久彦、国際資料室の鈴木孝、調査課長の村田良平とドイツ政策企画部長のエゴン・バール、参事官のペア・フィッシャーとクラウス・ブレヒ)を持った。前記の報告書や西ドイツとの会合の背景には、1964年(昭和39年)に中華人民共和国(中国)が核保有国となった事情がある。この報道を受けて外務省は、省内で調査をおこない、調査結果を2010年(平成22年)11月29日に報告書として発表した。それによると、日本と西ドイツの外交当局者が1969年(昭和44年)に「政策企画協議」を東京で開催した後に箱根で懇談した事実を確認し、「政策企画協議」自体は「自由な意見交換が目的で、政策の交渉や調整の場ではない」としたものの、西ドイツ側関係者の証言などに基づき、日本の核保有の可能性に関連する発言が「何らかの形でなされていた可能性を完全に排除できない」と結論づけている。 中曽根康弘は2004年(平成16年)の自著において、防衛庁長官だった1970年(昭和45年)に「現実の必要性を離れた試論」として、核武装について「日本の能力を試算」し「当時の金で2,000億円、5年以内で核武装できるが、実験場を確保できないため現実には不可能」との結論に達したことを明かした。1970年(昭和45年)当時(三次防)の防衛費は4,800億円で、一般会計の7パーセントを占めた。現在の貨幣価値に直すなら、消費者物価指数で言えば約3倍の6,000億円、防衛費の伸びで言えば10倍の2兆円といった金額になる。弾頭1発1億円とも述べており、これは当時の主力戦闘機F-104の価格、5億円の1/5であった。 1971年(昭和46年)、中曽根防衛庁長官は衆議院内閣委員会で次のように述べた。「大体いま世界戦略的に、また世界歴史的に見ますと、核武装というのは第二次世界大戦の戦勝国の業になってきている。ああいうものをつくってしまいましたからなくすわけにいかぬ、相手が持っている以上は少し優越したものを持っていないと不安である、そういう世界に入り込んでいって、やむを得ず苦悶してSALTをやるというような形になってきておる。それで、私は戦勝国の業であろうと思っております。戦敗国である日本がそんな業にのこのこ入っていく必要はない、そんな考えを私は持っているわけです。」 1971年(昭和46年)、ニクソン・ショックを背景に石原慎太郎参議院議員が次のように発言した。「(核兵器が)無けりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するか分からんという不安感があれば、世界は日本の言い分を聞くと思いますよ」、この発言は同年7月19日付の朝日新聞に掲載された。 1972年(昭和47年)、中曽根康弘科学技術庁長官は衆議院科学技術振興対策特別委員会で次のように述べた。「私は非核武装論者でありまして、核武装をしなければいかぬなんということは一回もありません。」 1973年(昭和48年)3月17日、田中角栄内閣総理大臣は参議院予算委員会の答弁で「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」と述べた。 1975年(昭和50年)、日本の科学技術庁(当時)の原子力担当課長が在京の英国大使館員に「日本は3か月以内に核兵器の製造が可能」と語った。この情報を基に一時イギリス政府は大騒ぎになった。 1978年(昭和53年)3月11日、福田赳夫内閣総理大臣は参議院予算委員会で次のように述べた。「たとえば万一核不拡散条約(NPT)、これを日本が脱退をするということになった場合には、条約上の遵守義務というものはありませんから、先ほど申し上げましたような間接的意味における憲法に由来する九十八条の問題というものは消えちゃうんです。第九条の問題だけが残るということなんです。憲法全体の思想といたしましては、私は、第九条だと思うのです。第九条によって、わが国は専守防衛的意味における核兵器はこれを持てる。ただ、別の法理によりまして、また別の政策によりまして、そういうふうになっておらぬというだけのことである。」 以後の日本政府は憲法98条2項「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」に基づきNPT条約を履行するため、非核三原則を「一貫して堅持する」と繰り返し明言している。 同日、真田秀夫内閣法制局長官は参議院予算委員会で次のように述べた。「国会におけるその非核三原則を堅持しろというような御決議があって、それでその核は持たないという選択をしなさいという御決議があるわけでございますから、それで政府はその政策の選択として非核三原則を堅持しておる、そのことと法律の解釈というのは、それは政策とは別なんですよ、それは。」 1979年(昭和54年)のソビエト連邦(ソ連)のアフガニスタン侵攻をきっかけとして冷戦が再び激化すると、ソ連からの核攻撃の脅威を回避するためには日本も核武装し抑止力を持つべきだという主張がおこなわれた。一方、日本が冷戦期に核武装しなかったことでソ連が日本に対して軍事的行動に出られなかったという意見も存在する。ただし、日本は米の「核の傘」により守られていたのでこの見方が成り立つとは考えにくい。 1991年(平成3年)、宮澤喜一は、総理就任前に「…日本にとって核武装は技術的に可能であり、財政的にもそれほど難問ではない」と述べた。
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