日米安保と集団的自衛権
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「日本の集団的自衛権」の記事における「日米安保と集団的自衛権」の解説
集団的自衛権は、1945年に成立した国際連合憲章の第51条に記載された権利ではなく国際連合加盟国において認められた権利である。 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。 国際連合は、安全保障理事会に依拠した集団安全保障を世界の秩序維持の原則に掲げているが、これが機能しない場合、個別的・集団的自衛権による加盟国の対処が認められていた。 日本は、国際連合が設立された直後から主権を喪失していたが、主権回復にあたって1951年9月8日、旧交戦国である連合国(国際連合の母体)との間にサンフランシスコ講和条約を締結した。その際、 連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することが出来ることを承認する。 — 日本国との平和条約第五条c とされ、個別的・集団的自衛権は日本においても認められた。一方、講和条約と並行して締結交渉が進められていた日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安保条約)においては、日本側は、日米両国間において集団的自衛権の関係を設定し、これを根拠に主権回復後の日本においても米軍駐留を続けることを求めた。しかし、米国側はバンデンバーグ決議を理由に相互対等な防衛条約の締結に難色を示し、結局は相互の防衛義務については明記しない(両国が集団的自衛権を保有していることを明示するに留める)形で締結された。 日本国は1952年4月28日に主権回復を果たしたが、この時警察予備隊(10月15日に保安隊に改組)の存在が、日本国憲法第9条違反であるかが議論になった。 吉田茂首相「自衛権に付ての御尋ねであります、戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権は否定はしておりませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります」(1946年6月26日、日本国憲法制定のための第90回帝国議会本会議) — 吉田茂首相「戦争放棄に関する憲法草案の条項に於きまして、国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります」(同年同月28日) — この28日の答弁は、自衛権すら放棄したものと解する余地もありましたが、次の7月4日の弁明からすると、自衛「戦争」を認めない趣旨であり、自衛「権」を放棄するものではない。このように政府は「自衛権は否定されないが自衛戦争は認められない」と説明していた。 吉田茂首相「・・・私の言わんと欲しました所は、自衛権による交戦権の放棄ということを強調するというよりも、自衛権による戦争、また侵略による交戦権、この二つの分ける区別そのことが有害無益なりと私は言ったつもりでおります」(1946年7月4日) — 1954年7月1日に成立した自衛隊の合憲性について、その後吉田茂首相(自由党総裁)は、日本は国家の自然権としての自衛権を保持しており、憲法典の記載内容にかかわらず自衛力は合憲である旨を答弁した。 吉田についで首相になった鳩山一郎率いる日本民主党は、吉田の日米同盟路線を批判して、自衛隊違憲論に基づく改憲を主張していた。しかし首相就任後は、国家固有の自衛権に基づく自衛隊合憲論に落ち着く。1955年6月16日、この矛盾を突いた江崎真澄(自由党)に対する答弁で、鳩山は 私は戦力という言葉を、日本の場合はむしろ素朴に、侵略を防ぐために戦い得る力という意味に使っていまして、こういう戦力ならば自衛のため必要最小限度で持ち得ると言ったのであります。その意味において、自由党の見解と根本的に差はないものと考えております。独立国家としては主権あり、主権には自衛権は当然ついているものとの解釈に立って、政府は内外の情勢を勘案し、国力に相応した最小限の防衛力を整えたいと考えている。 — 1955年6月16日、衆議院内閣委員会 と答弁した。憲法上許される自衛の範囲としては、この「必要最小限度」という抽象的なラインが以降維持されるようになる。なお、この頃の「必要最小限度」は、自衛隊発足直前の1954年6月2日に参議院本会議が「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」を決議するなど、自衛隊の海外派兵を行わないことであった。 1959年の砂川事件においては、在日米軍の合憲性が争われたが、最高裁判決においては、 (日米)安全保障条約の目的とするところは……平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基づき、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにある。 とされ、「集団的安全取極」としての日米安保条約が合憲であるとされた。 1960年1月19日、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が締結された。同条約では、旧条約では米国側の意向により日米間の集団的自衛権の行使が明示されていなかったのを改め、 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危機に対処するように行動することを宣言する。 — 日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第五条 と、米国による日本の防衛と、それに対する自衛隊の共同行動が明文化された。日本政府は、岸信介首相が 集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのでございます。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えています。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうのはもちろん日本として持っている、こう思っております。 — 1960年3月31日、参議院予算委員会 と答弁するなど、新条約によって集団的自衛権が名実ともに行使されるようになったことを強調することに務めていた。
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