核武装について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の〈虐殺行為〉の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し、〈原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない〉と述べている。そして、そうした〈民族的憤激〉や〈最大の屈辱〉を〈最大の誇り〉に転換するべく〈東京オリンピックに象徴される工業力誇示〉を進めてきた日本人だが、はたして〈そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか〉として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。 日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。 — 三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」 また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、〈私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません〉と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで〈核兵器による武装が可能になる〉と答えている。そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている。 諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。 — 三島由紀夫「檄」 この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、〈国家百年の大計にかかはる〉と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。 そして、三島が〈あと二年の内〉と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が〈永遠にアメリカの傭兵として終る〉ことが暗示されていたと西尾は解説している。 このように、現実の世界情勢下における日本の防衛策としての核武装については、〈単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない〉というふうに、必要悪としての肯定的な考えを三島が持っていたことが散見できるが、それと同時に、核爆弾という大量殺戮兵器自体のモラルの無さについても言及しており、自分自身も必ず傷を負う一対一の決闘や、自死を覚悟の日本的な暗殺の決死の政治行為と引きくらべながら、自分がまったく安全な場所からボタン一つで人を殺戮するような行為を卑怯な暴力行為とみなし、石川淳との対談においても、〈技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということ〉であり、〈技術が罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかも〉しれず、そうなっていくと、集団的な技術になり、〈幾らでも非人間的な技術をつくれる〉と語っている。そして、〈自分に危険がないような暴力行為には全く意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、アウシュヴィッツや原子爆弾にはいまでも反対ですね〉とも述べている。
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