旅の履歴(1990年まで)
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「つげ義春」の記事における「旅の履歴(1990年まで)」の解説
1955年 手伝いをしていた岡田晟に伴い湯河原温泉へ。旅館の女中と親密な仲になる。 1958年 当時恋愛関係にあった女子大生のS、その友人ら4-5人で甲府の昇仙峡へ。26年後の作品、池袋百点会(1984年12月)のラストシーンに描かれる。 1965年 白土三平の招待で千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に滞在。『不思議な絵』を描き上げる。 1967年 井伏鱒二の影響で旅に没頭、唯一の友人立石と能登、飛騨、秩父、伊豆、千葉などを旅行。秋には一人で東北へ1週間の長期旅行(10月26日〜11月2日)。古い本で東北地方の湯治場の写真を見て、あまりに惨めで貧しい雰囲気に強い衝撃と胸騒ぎを覚えたため。八幡平の温泉、蒸の湯、後生掛温泉、角館、小安温泉泊、サービスが悪くチップを出す気にもなれず早々に寝る。会津から湯野上温泉泊、期待外れだった。塔のへつり、岩瀬湯本温泉、二岐温泉などを訪問。特に岩瀬湯元温泉を最高と評価。旅に強い印象を抱くとともに湯治場の雰囲気に魅了される。初めての一人旅であった。この旅の強い印象から『二岐渓谷』『オンドル小屋』『もっきり屋の少女』の3作が生まれる。旅に関連した書物や柳田國男、宮本常一などを愛読する。 1968年 2月、群馬県の湯宿温泉、新潟の十日町から飯山線を経て長野県の麻績宿へ旅行。6月には外房の大原に1泊。7月、立石慎太郎と秋山郷、屋敷温泉、松之山温泉、草津温泉、花敷温泉、尻焼温泉へ旅行。9月、九州方面へ蒸発旅行。自分の存在の実感が消滅し、蒸発したようにこの世にいながらいない状態を実感。 1969年1月、『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫、北井一夫と湯宿温泉、法師温泉へ旅行。2月に藤原マキと知り合う。5月、五能線の八森、鰺ヶ沢、黒湯、孫六温泉などへ旅行。また水木しげると長野県の明治湯へも旅行。6月 千葉県房総半島の太海、鴨川、大原へ。太海で謎の虫に足を刺され、医者を求め彷徨い歩く体験をする。8月には、藤原マキと夏油温泉から定義温泉、北温泉へ。定義温泉は精神科の紹介がないと宿泊できない施設で、門前のそば屋の計らいで「頭が重いのでわざわざ訪ねてきた」ことにして宿泊。押入れを開けて布団を取り出して寝ていると女将に激しく怒られ、このエピソードを後に『枯野の宿』にて使用する。この数日後、『アサヒグラフ』の取材で再度、夏油温泉、蒸けの湯、今神温泉へ。暮れには1年半ぶりに作品を描く。 1970年 下北半島を『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫、北井一夫と3人で旅行。大湊線の終点からバスで陸奥湾の出口付近にある脇野沢村九艘泊の漁村へ。その貧しい暮らしぶりに無常感を感じ自分もそこで暮らしたい願望を持つ。廃墟やそれに類する貧しい暮らしのたたずまいから、〈意味化され社会化されていた自己〉からの解放と生の回復の希求を感じ取る。さらに山手にある水上勉原作の映画『飢餓海峡』のモデルとなった湯野川温泉へ赴くが、高熱を出し2日間身動きが取れなくなる。その後、牛滝、福浦、長後、佐井の小さな漁村、仏が浦へ。仏が浦で目にした巨岩は、無意味が目に見える固形になって現われており、その威厳に圧倒される。役割もなく意味も寄せつけない巨塊を眼前にし、相即的につげは自分も岩石のように意味のない「物」に化したような感覚を覚える。世界の聖地に無意味が具現化したような岩場が多いのは、どんな意味も寄せ付けない巨塊を眼前にした時、自分自身が意味のない物に化した感覚になることで、意味からの解放を感じることができ、あるがままに現象している心地を覚えることが理由で吸引されるのではないかと感得する。 1971年 暇をもてあまし、東北、瀬戸内海、奈良、長野、会津などを歴訪。瀬戸内の兵庫県室津を皮切りに中山道、妻籠宿、奈良井宿、藪原宿を訪問し、さらに会田宿、青柳宿、1968年に訪問した麻績宿を再訪。当時結婚した藤原マキを伴っての旅行であった。 1972年9月 漫画家としての将来に不安を抱き家賃の心配のない持ち家を探すために、母の郷里である外房の大原へ妻とともに赴き、国民宿舎大原荘に一泊。しかし不動産屋が見つからず小浜という漁村を歩き、幼少期に住んでいた家を妻に見せ父の墓へ参る。その後八幡岬に登り、水平線を一望、潮風に当たり帰港する漁船を見ているうちに目頭を熱くし、何とかこの地に住みたいと願う。翌日は鴨川から、内房の金谷、上総湊の2つの物件を見る。 1972年11月 不動産物件探しのため、再び大原へ。いくつかの物件を見て回り、小浜の漁村内の古家付き30坪130万円の物件が気に入り、買う気持ちに傾く。幼少期に住んだ家の裏のつげの遠縁が経営する「横山」という民宿に泊まる。そこで母が地元で評判が良くなかったことを聞かされる。5、6歳ころによく遊んだ「松ちゃん」というその家の息子が部屋に現れるが会話は弾まなかった。 1975年 友人の立石慎太郎と立石の車で関東平野を旅する。調布から川越、桶川へ至り深沢七郎の味噌を食べるため立ち寄るが、雨戸が閉まり呼び鈴を押すが反応がなかった。つげが立ち寄りたいと考えていた羽生や館林を通過し、足利でそばを食べ佐野へ。宿を探し葛生から栃木へ。川に面した商人宿の「手束旅館」に泊まる。翌朝、宿近くの骨董店で欠けた皿やガラス瓶を8000円購入し後悔する。小山、下館、笠間を通り土浦、江戸崎、布佐のコースを希望するも渋滞のために運転手の立石に否定される。立石はつげの弟のつげ忠男の勤める金物屋へ行きたいというが、今度はつげが否定したため気まずいムードとなる。京葉道路を通り午後8時ころ帰宅。立石はつげに向かって「また、つげさんのふくれっ面を見に来ますよ」と捨て台詞を残し立ち去る。 10月には雑誌『太陽』の取材で田中小実昌、渡辺克己、編集者有川の4名で城崎温泉、湯村温泉などを旅行。ヌード小屋、ぼったくりバーなどで豪遊。田中小実昌の破天荒な遊びっぷりに仰天する。編集者の有川に有名な写真家Sなら100万円くらいかかると聞かされる。余部鉄橋、日和山公園で海女の実演などを見物。 1981年4月 ノイローゼが小康状態となり、湯ヶ野、下田、須崎漁村などを2泊3日で家族旅行。 1984年7月 湯ヶ野、湯ヶ島に2泊旅行。心身不調のため旅への関心が薄れる。年に1、2回の家族旅行程度。 1985年5月 連休頃に持病の症状が軽快したため家族と1966年以来9年ぶりに奥多摩へ。自然の美に言葉もないほど感動する。特に御嶽駅前の渓谷美に心打たれる。日帰りの距離であるにもかかわらず長く来なかったことを後悔する。初日は五日市からバスで秋川谷沿いの本宿の国民宿舎に投宿。翌日網代鉱泉を訪問。風格のある茅葺屋根の豪壮な建物に惹かれ宿泊を願い出るも少人数は泊めないとモンペ姿の老婆に追い返され、奥多摩へ。御岳の割烹旅館「五州園」に宿泊。6000円以上の旅館に泊まったことのないつげが、初めて8000円の旅館に宿泊。帰路には夫婦喧嘩をする。石拾いを試みるが一つも拾うことはできなかった。8月には下部、湯河原、箱根に3泊の旅行。 1986年2月 千葉県館山で浄土宗の尼僧・八幡清祐に出会い、80歳を過ぎ乞食生活を続ける師の生き方に心打たれる。6月には、家族で鎌倉の寺巡りをし、長谷寺の門前で一泊。鎌倉大仏、建長寺などを見学。8月には、秩父を訪問。不動湯、紫原鉱泉に宿泊。 1987年8月 家族3人で長野県の別所温泉、鹿教湯温泉を訪問。9月には友人と車で塩山鉱泉、恵林寺、放光寺を見物し石和温泉に宿泊。11月上旬、「つげ義春研究会」研究旅行(15名)に同行し、甲斐路を訪問。甲斐国分寺跡、犬目宿、秘郷・秋山村を訪ねる。夕暮れ迫る深い峡谷の集落に灯が一つ二つ灯り、暗く哀しい「つげ義春の世界」が現出。 1990年4月 山梨県の田野鉱泉、嵯峨塩鉱泉へ家族旅行。このころより山に惹かれるようになる。
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